妻は一人ぼっちだから - 1
臨時総会が終わり、とりあえずは平静を装うマンションブリーザ幕路。我が家あての苦情も、そして勤務先への苦情もすっかりなくなりました。主流派にとっての懸念材料は竹盛家である、そんなことを実感させてくれます。
「副店長、マンションのほうは少しは落ち着いたか?」
お昼ご飯にお店で売られている三九八円のお弁当を事務所で食べていると、店長に話し掛けられた。
「そうですね、一段落ついたところです」
「しかし変な話だな、マンションの総会の少し前からは君への苦情がまったく入らないんだ。もう一週間は来ていないのだから。あれだな、不正を働く住人にとって竹盛君は天敵なんだね」
「一人や二人天敵がいないと、マンションの自治がメチャクチャになりますからね」
「それよりだ、先日店長会議へ行った時に小耳に挟んだのだけど……」
店長会議のために店長が支社へ行った際に聞いた話のようですが、なんでも僕を本社へ引き抜きたいという話が出ているらしく、もしもそういった異動の話が来た時はどうするのかを尋ねてきた。本社は東京にあり、そのビルの中で働かないかと言う話です。
僕はそもそも入社同期の中で最も出世が遅いから僕にそんな声を掛けてくることはないはずで、店長の聞き間違えではないかと言ったのですが、たしかに竹盛と言っていたという。
僕は今でも事務所の中で大半の時間を過ごすことが苦痛で、本当はお客さんと直接接したいのですが、僕へのクレームの件で店頭には立たないように〝配慮〟されている。店長がいない時などに目を盗んでは店頭に立っているのですが、本社へ行けばお客さんと接する機会が完全に失われる。だから本社で働くことなんて考えたくはないと返答すると、
「そうか……。そのように伝えておくけど、おそらくまた声はかかるはずだよ」
マンションの問題の次は会社の問題、しかも本社勤務を打診って。待てよ、本社勤務になれば買ったばかりのマンションには当然住めなくなるから、いきなり売却することになるよな。買った価格より下回ってローンを返済できなかったらただ借金を背負うだけになるのかな。どうなるんだろう……。
会社から帰宅すると妻が玄関先まで出てきて、
「勝、おかえり、あのね、またお父さんの会社へ私の悪口の手紙が届いて、今日お母さんがその手紙を持ってうちへ来たんだよ」
その手紙の紙質が、このところ管理組合からの通知に使われている用紙と酷似した物でした。同じ用紙を使って妻の悪口を送り付けた人っていったい誰なんだろう。総会が終わった今のタイミングだと主流派の仕業ではないような気がするけど、同じ用紙を手に入れるには内部の人でないと難しい気もするし。
しかしここ一週間以上は我が家に苦情の手紙は入れられていないし、会社へもクレームは入っていない。つまり今は主流派から我が家に対する個人攻撃は仕掛けられていないということになる。来たのは義父の会社へ送りつけられた妻の悪口が書かれた手紙だけ。つまりは主流派とは関係がない、第三者による悪口の手紙だったような気がする。
「と言うことは、私は誰かに個人的に嫌われているっていうこと? 私、嫌われるようなことした?」
「嫌われていると言うよりは、妬みのような気がする」
「私を妬むような人がいるの? 私のどこを? 理解できないよ……」
自分にはないものを持っていると、羨んだり妬んだりするのが人間と言うもの。自分では何とも思っていない普通のことが、周りからは腹立たしく思われることもある。特に妻の場合は大きな会社の創業者の孫で、父は子会社の社長。その背景だけで周りの人は富豪のお嬢様だと勝手に想像するものだ。
さらに言えば、自分より上だと思うと羨む人もいるけど妬む人が多くなる。自分より下だと思うと優越感に浸ったり安心する人が多い。人の不幸は蜜の味というくらいで、とにかく自分より下だと思える点が一つでもあると、それだけで嬉しくなるのが人の性かもしれない。
「みんな勝手に想像して、社長令嬢だからこういう生活をしているはずって決めつけるんだよ」
「会社の重役なんてしているから年中あちこち飛び回って家にいないし、おかげで家族で旅行なんて一度もしたこともないし、遊園地や動物園にも連れて行ってもらったことがないのよ!」
今でこそお義父さんはいつも家にいるけど、たしかに子供のころの妻の家庭は、夏休みや冬休みでも旅行に出掛けて留守にすると言うことがなかった。日曜日や祝日だって妻は家にいることが多くて、僕の家に来て一緒にご飯を食べたことが何度もある。そういえば妻と夏休みに近くのプールへ遊びに行ったこともあったな。
「よくお父さんがね、〝小さな出費を警戒しろ。小さな穴が大きな船を沈める〟〝お金は一〇〇円余分に稼ぐより、一〇〇円を節約するほうが簡単なんだ〟ってよく言ってたんだ。たぶんおじいちゃんの言葉だと思うけど、とにかくうちの生活は質素だったんだよ。何にも買ってくれないし、どこにも連れて行ってもらえない、何なら今からでも代わってあげるわよ!」
「だから佳奈は普段は無駄遣いしないし、衝動買いもしないんだな」
「今は自分へご褒美のケーキとアイスとか、勝に買ってあげなくちゃと思う時には使うけどね」
「それこそ隣の芝は青く見えるのだろうな」
ケーキやアイスばかり買って食べているイメージのある妻だが、実際にはそう頻繁に買ってくることはない。夫婦間で冗談で毎日ケーキやアイスを食べているなんて言うけど、ケーキは理事会に出席した時とよその家にお呼ばれした時と、その余りを翌日に食べる程度、アイスは箱に六本とか八本入った物を特売の日に買うだけだ。
「ねえ、勝、お父さんの会社へ私の悪口を送った人って牧落さんかな……」
「うーん、何となくそう思うんだけど……」
「うちの実家に嫉妬する以上に、私と勝がいつも仲良くしていることのほうが腹立たしかったのかなって、そんな気がするんだ」
「そんなに仲良くしているか?」
「それこそよそから見たら、いつも仲良さそうに話しているように見えるんじゃない?」
「そっかあ、だからと言って僕や佳奈が態度を変えるのもおかしな話だし、牧落さんに対してもこれまでと同じように接していたらいいんじゃないかな」
「うん、そうする。まだ牧落さんが送ったと決まったわけじゃないしね」
店長から聞いた話をするタイミングを失ったけど、佳奈への悪口の手紙に比べればそんなに大した話じゃないし、断ったわけだからもういいか――。
そんなことを思ったのですが、
「勝も何かあったんでしょ?」
どうやら僕は顔に素直に出るようで、店長に聞いた話を妻にした。
「すごいじゃん! 東京の本社ビルで働くビジネスマンだなんてカッコいいよ!」
「でもそうなったらこの家には住めなくなるだろ。売却してもローンをすべて返せなかったら、借金だけ背負うことになるんだよ」
「そっかあ、この家から東京まで通えるわけないもんね。でも、勝がしたい仕事だったら東京へ行こうよ。この家を売って借金が残っても働いて返せばいいだけだよ、何とかなるわよ」
「僕がしたい仕事……、お客さんと接するのが好きだから店舗に出て働くのが一番だと思っているけど、今はほとんど事務所の中だし、本社へ行けばお客さんとの接触は皆無になるし……」
妻が言うには、僕は本当は人と接する仕事は向いていない。万引きは犯罪だから徹底的に懲らしめるのはいいけど、正義感がとにかく強すぎるからお客さんとの衝突も多いし、このマンションに巣食う人たちを徹底的にやっつけようとする。そのことが悪いとは思わないけど、客商売としてはどうなのかと思う。
だからと言って接客の仕事を辞めろと言ってるのではない。その仕事が〝好き〟と〝合っている〟とでは別物。合っていない仕事だとしても好きでやっている分には成長が見込めるし、創意工夫もするはず。それに好きな仕事だから続けようと思うし、絶対に楽しいはず。もしも挫折して辞めようとなっても、好きで選んだけどダメだったと諦められるものだと言われた。
「正式に転勤の話が来たわけじゃないんでしょ?」
「うん、店長が会議に出た時にそんな話を耳にしたって言うレベルだし、今回は断ったよ」
「でもさあ、使い物にならないから要らないと言われないだけいいよ、本社へ来て働いてほしいと言われているのだから」
「たしかにね、誘われているうちが華かもしれないな」
遠隔地への転勤、自分自身や家族などのそれまでの生活リズムを一気に壊す可能性が高い。でも見込まれているから声がかかるのだから、本当は喜ばしいことかもしれないし、もっとポジティブに考えられたら良いのですが、家庭のことを考えると両手を高く掲げて万歳と言うわけにはいかないです。
「もしも転勤となったらいつごろなんだろう」
「転勤は春か秋が多いから、早かったら今年の秋かな。でも断ったから早くても来年の春だろう」
「もう少しの間、このマンションで戦い続けるわけね」
「でもさあ、例えば転勤が秋と決まれば、引越す秋までもう理事会のことなんて放っておくだろ?」
「ううん、私は住んでいる間は動くよ。引越しまでに悪い人たちを一網打尽にしなきゃ」
「一網打尽って、相手は手強いよ」
「〝人生とは今日一日のことである〟だから無駄な日や時間は過ごしたくはないの。たとえ引越す日が決まりその先はもう関係なくなるマンションだとしても、引越すまでは住人であることに違いはないでしょ。住人の一員としてできるだけのことはしたいから」
「人生とは今日一日のことである、か……。僕はずいぶん人生を無駄にしているような気がする」
「勝は毎日必死で働いているじゃない、それに転勤が決まったからと言って今の職場での仕事を手を抜いたりしないでしょ?」
「それはそうだけど……」
「勝も毎日毎日を大切に生きているわよ」




