修羅場な理事会 - 1
理事選出辞退届という書類を集合ポストに入れたのに、我が家が管理組合へ署名捺印して返さないためか、一月の中ごろからの苦情はかなり激しさを増していきました。
夜八時以降に入浴されると排水音がうるさくて眠れない、テレビの音量がかなりうるさく、コマーシャルになるとさらに大きくなってマンション中に響き渡る、マンション内を咥えたばこで歩くために煙が立ち込め、灰が落とされているし、一階のエレベーターホールに吸い殻が捨てられていた。
マンション館内を大声で話をしながら歩いているし、足音が非常に大きく響く。部屋の中で踊っているのか下の階へ音が響き迷惑しているといったものです。
管理員が苦情の文書を作って郵便受けや集合ポストに入れますが、現在の管理員は表現が過激で夜八時以降の入浴をやめろと言う苦情には、排水管に水が大量に流されているようで部屋の中が水浸しになるのではないかと恐怖を覚えた。
わざわざ外廊下側の窓を開けコマーシャルになるとわざとボリュームを上げ、マンション住人をあざ笑い困っているのを楽しんでいるようだ。
たばこに関しては、歩きたばこによる副流煙でガンになったらどう責任を取るつもりだ。吸い殻をエレベーターホールに捨てる行為は、マンションの全焼を狙ったテロ行為だなんて書かれていました。
手書きの苦情もあり、こちらはいつも同じ筆跡なので同一人物が投函しているようです。こちらは過激なことは書いていませんが、〝やめろ〟という命令口調です。
会社にも僕への名指しのクレームが定期的にあり、最近は本社にもメールでクレームが送り付けられます。
「竹盛君、また本社に君あてのクレームが届いたようだよ」
「店長、いつもすみません。ご迷惑をお掛けします」
「なぜあのような態度の悪い人間を勤務させているのだ! って書かれていたみたいだよ」
「そうですか、申し訳ありません」
「大丈夫だよ、店頭には出ていないことは私が証明しているし、公休日や勤務していない時間帯のクレームも多い。でも心当たりはあるんだろ?」
「はい、実は……」
ずっと迷惑を掛けっぱなしなので、店長には今のマンションでの状況を話したのですが、当然ですが積立金や管理費が本当に不正使用されていれば、横領罪として刑事事件に発展するのだから僕のような素人では対処できない。弁護士や警察、管理員が所属する管理会社に相談するべきだと真っ当な返事をいただきました。
もちろん最終的にはそうしないと解決は望めません。しかし住み始めて数カ月の間に名誉を傷つけられる苦情などの言動が多く、会社にも身に覚えのないクレームが入っている。また個人情報も勝手に居住者に開示されていることから、ある程度納得できる仕返しをしないと僕の腹の虫が治まりません。
「気持ちはわかるけど、専門家に任せてしまうほうがいいよ……。ただ君の性格だととことんまで突き詰めていかないと気持ちが収まらないか……」
「はい、店長、申し訳ありません」
「そうだろうな、竹盛君は。だからと言って仕事の手は抜くなよ。会社へのクレームはこれまでどおりこちらで処理するから」
「ありがとうございます」
管理費や積立金の横領に関しては、店長が言うように素人の僕たちでは解決はできないと思うし、身に覚えのない苦情だって捜査権限を持つ機関に動いてもらわないと解決は難しいかもしれない。
だから最終的には弁護士や警察への相談は必須となるのですが、個人的にはまずはやられた分をやり返し、そのあとに刑事や民事の責任を取れ! と思っています。
底冷えして手足の感覚がなくなる状態で仕事から帰宅すると、また苦情が投函されていると妻が嘆いた。
「駐輪場で放尿しないでくださいだって。うちの区画だけにおいがするって書いてあるわよ」
「しかし次々とネタを考えてくるよ、理事の座を譲らないだけでこれだけ執拗に攻めてくるとはなあ。佳奈は大丈夫か? 気持ちがしんどくなったりはしていない?」
たとえでっち上げられた苦情であっても、これだけ頻繁に送り付けられると心が不安定になってしまう。心優しい人だったら病んでしまうよ。我が家で最初に苦情を目にするのは妻だからその点が不安だったのですが……。
「私は全然平気よ! 倍返ししてから土下座させたい気分なの!」
妻が言うには、今までのこの部屋の居住者のように耐えるだけとか、逃げ隠れるなんてことはしない。攻撃されれば正々堂々と受けて立つと決めているから全然平気だそうだ。
「勝こそ大丈夫? 会社にもクレームを入れられているし、私の倍はジャブをもらっているんじゃない?」
「今日店長にこのマンションのことを話したんだ。弁護士を入れるとか管理会社に相談するほうがいいとは言われたけど、これまでにやられたことに対する仕返しをしなきゃ腹の虫が治まらないと言ったんだよ」
「そんなことは止めろって、店長さんに言われたんじゃない?」
「仕事の手は抜くな、会社へのクレームは今までどおり店長が処理する、そして、とことんまで突き詰めないと気持ちが収まらない性格だからなって言われたよ」
「ということは、夫婦そろって倍返しだ!」
「そういうことだね」
夫婦で主流派住人と戦うことを確認し合いました。
「二月の第二日曜日に理事会があるんだよね、よし、いよいよ敵陣地内へ攻撃を仕掛けるぞ! 先制隊は佳奈部隊だ!」
「いよいよ始まるな」
「うん、頑張らなきゃ私たちの生活の基盤が脅かされるんだもん、負けられないよ」
初の理事会開催まで二週間ほど。その間にも様々な苦情が届きます。我が家の自転車がいつもマンション敷地内に違法に駐輪されているとの苦情が多数来ているので、直ちに所定の駐輪場へ移動させろ。
家庭ごみは市指定の袋に入れたうえ、所定の回収日の午前五時から八時までの間に出せ。指定の袋に入れていないものは回収しないとか、回収日以外には出すなとか、集合ポスト横のビラ専用ごみ箱に家庭ごみを入れるなとか、本当に呆れるほどいろいろなネタを提供してきます。
ここまでくると本当に笑えてきますよ、自転車なんて我が家には無いし、ごみの件だって監視カメラの映像をチェックすれば全部わかることです。
でもこのような子供じみた〝いじめ〟や〝マンション八分〟は徐々に精神を蝕んでいき、やがては正常な生活を送ることも難しくなっていくし、正常な判断を下すこともできなくなっていきます。
何とかここで歯止めを掛けないと僕たちの将来の生活設計も足元から崩れますし、今後知らずに購入する人や賃貸で入居する人たちにも影響が及びます。
理不尽な苦情はすべて無視し理事の座を譲ることなく、二月の第一日曜日には通常総会が開かれ、我が家は正式に理事会の理事に選任されました。
「佳奈、僕がお願いしたこと守ってる?」
「年末にお願いされたことだよね? 守っているけど、どうして?」
「うん、ちょっと確認したいことがあって……。取り越し苦労で終わればいいんだけど」
「敵を欺くには味方からって感じかな?」
疑っているわけではないけど、妻が仲良くさせてもらっている方たちにはあまり情報を流さないでほしいとお願いしています。
「佳奈、明日の理事会では何も言わなくてもいいよ、何か言われても私はわかりませんって答えておいたらいいから。とにかくボイスレコーダーだけは回しておけばそれでいいからな」
「言い返さなくてもいいの?」
「うん、敵にこちらの情報や考え方をさらけ出す必要はないから。明日は一回目だから情報を集める、発言を収集することで十分だからね」
「勝隊長、了解しました! 佳奈隊員は全力を尽くしてこのマンションを守って見せます」
「佳奈、それは何のアニメの一節?」
「アニメじゃないよ、私の意気込みをそのまま言葉にしただけだよ」
「そうか、じゃあ明日は無事に任務を遂行できたら、アイスとケーキ両方食べてもいいよ」
「ホントにいいの? よし、気合を入れて頑張るぞ! アイスは家にあるから、ガトーフレーズとフルーツたっぷりのケーキをご褒美に買ってこよう!」
「おはようございます、管理会社の田割です。昨年に続き当マンションを担当させていただきます。新体制で迎える初めての理事会でので、みなさん簡単に一言ずつ自己紹介と言うかご挨拶をお願いします」
底冷えする二月の第二日曜日に第二三期の第一回理事会が始まった。管理会社の担当者と管理員のほか、理事はオブザーバーを含めて定数は一三名。オブザーバーは前期の理事長が新理事会に一年間だけ残りスムースな理事会運営を行うために設けられています。
ただし理事選出辞退届を出されたお宅があったので、前期の理事長はオブザーバーではなく〝新理事〟として残っているので、今期の理事の人数は一二名です。
理事は主流派が六名、反対派が妻を入れて三名、中立派が三名という割合のようです。後になってわかったのですが、中立派のお宅にも理事選出辞退届を持って主流派の方が訪れたようですが、我が家のようにしつこく迫られるようなこともなく、また意味不明な苦情を言われることもなかったようです。
中立派のお宅は数年以上居住されていて、主流派の方からの視線で特にマークする必要はないと認識されているのかな。それに比べて我が家は入居早々に六階の角畑さんや前管理員とやりあったおかげで、主流派住人からマークされているということですね。
「では、今期の理事会の各役割を決めていきたいと思います。理事長は当マンションの規定により、前期副理事長の山下様にお願いします。ここからは新理事長によって会を進めてまいります」
「今期の理事長を務めることになりました山下です。今期の理事会では具体的に大規模修繕工事の話を進めて工事に取りかかることになります。全居住者がこれから先も安心して暮らせるマンションへと生まれ変わらせる、その先頭に立つのが今期の理事の皆さまです。本当に大変な時期に理事になられたわけですが、全居住者のためにもどうぞお力添えをよろしくお願いいたします」
カンペも無しにすらすらと理事長就任の挨拶を口にする様子を見て妻は、これは私が何か言ったところで何倍にもなって返されるだけだと悟ったと言っていました。
「では役職を割り振っていきます。どの役職でも結構です、どなたか立候補される方がおられましたら挙手をお願いします」
学生時代にもこういう場面はありましたが、進んで挙手する人なんてまずいません。本当はその役職をしたくても挙手をせず、誰かに推されてから仕方がないなあと言いながら、まんざらではない顔をして受けるというほぼお決まりのパターンがあるわけですが、すっと手を上げて次々に決まっていき、副理事長は川田さん、大規模修繕担当は横江さん、会計は溝口さんに決まりました。
「どなたか監査役を引き受けてもらえませんか? 松尾さん、どうでしょうか?」
「別にかまいませんけど、何をどうすれば良いのかあまりわからないですが……」
「そのあたりは理事長のほか、管理会社の私からも適宜アドバイスはしていきますので、あまり難しく考えずに引き受けてもらえればと思います」
松尾さんはまんざらでもない顔をしながら、監査役を引き受けました。何かの役職に就いてみたいと思っていたのかもしれませんが、なぜ松尾さんなの? 妻は少し引っかかったようです。
「各ポストが決まりましたので、次に前期理事会からの引継ぎと報告を、前期で理事長を務められていた藤本さんからお願いします」
「はい、オブザーバーではなく理事としてまた二年間務めさせていただくことになった藤本です。施工会社の選考から工事の実施へと移っていく段階で、大変な時期に理事をされることになりますが皆様ご協力をお願いします……」
「では、管理員のほうから連絡事項の報告をお願いします」
「はい、管理員の池太です。日頃から管理業務にご協力いただきありがとうございます。では先月一月の報告です……」
今後の理事会の開催予定日や、修繕委員会による居住者アンケートを実施して、細かい不具合部分を報告してもらうことを了承するなどして、この日の理事会は一時間ほどで終了した。
仕事から帰宅し、とりあえず体を温めようとココアを飲みながら、妻に今日の理事会の様子を尋ねたのですが、
「あのね、フルーツたっぷりのケーキを買おうと思っていたんだけどね、お店に行ったらザッハトルテが私に微笑んでくるから、ガトーフレーズとセットで買ったの」
「フルーツたっぷりのケーキと三つ買えば良かったのに」
「え? 三つも食べて良かったの? くそー、失敗したなあ」
「そうじゃなくて、僕が聞いているのは理事会のことなんだけど……」
妻は自己紹介の時だけ喋ったようで、あとはずっと黙っていたとか。理事会の後、管理員が各戸に配布した今期の理事会の役職名簿と、今日の理事会の内容を記した議事録を妻から受け取り、
「佳奈は何の役職にも就いていなんだな」
「うん、ほとんどの役職はみんな手を上げて決まっていって、監査役だけ指名されて決まったのよ。私は一言も発してないよ」
「監査役になった松尾さんってどんな人?」
「聖子さんが言うには、このマンションに住みだして一〇年以上になるお宅で、理事も二回目か三回目だって言ってたけど」
「今の理事たちに寄り添う感じのお宅? うちみたいに反対派に区分されるお宅?」
「主流派、反対派、中立派で分けると中立派なんだって」
「なるほどね、そういうお宅の方を監査役にするほうが都合がいいんだろうね」
「どうして?」
監査や監事は理事会の運営状況、管理費や積立金の使われ方などをチェックする役職。ただし議決権(投票権)がない。自分たちの案に反対する我が家のような反対派に就いてもらうほうが、主流派にとっては投票の時に有利になる。
しかし監査の権限でいろいろとチェックされるのはさらに困る。主流派を監査にすれば様々なチェックは問題なくなるが、議決権が一票減るのは困る。
そこで中立派の人であまり理事に熱心ではない人を監査に据えることで、様々なチェックから逃れられ、さらに主流派にとっては議決権が一票減ることも阻止できる。つまりは筋書きに沿って中立派のお宅を監査にしたのではないかと想像した。
「そんな事情があるのか、敵は頭脳戦にも長けているんだね」
「この階の牧落さんのお宅は奥さんがずっと出席するの?」
「うん、ご主人がマンションのことにあまり関心がないんだって。そうそう、土尻さんのご主人が勝に会ってみたいって言ってたよ」
「シフト次第だけど、出れそうならば僕が行くけどなあ」
「今日は私が露払いをしたので、次は大将に攻め入ってもらいましょうか」
「僕は大将なんかじゃないよ、佳奈とまったく同等の働きアリ。このマンションを牛耳る悪人たちに、何とか立ち向かうことができればいいんだけどな」
「〝アリの思いも天に登る〟って言葉を中学生の時に習ったけど、本当にその思いだけだよね」
「佳奈が珍しく良いことを言ったぞ、本当にそのとおりだよ。負けちゃいけないし、負けられない」
アリの思いも天に登る=力の弱い者でも一心に念じれば望みが達せられることのたとえ。
「〝負けたくないことに理由っている? いらないよね、住人佳奈でも戦えるもん!〟」
「佳奈、今日はよく名言が出てくるけど、その言葉はどこで習ったんだ?」
「日向くんと仁花ちゃんが言ってたよ、知らない?」




