運命の出会い
僕は竹盛勝、もうすぐ三七歳になる大手スーパーで働くサラリーマン。正義感が強くて理不尽な事を許せない性格。相手を理詰めで隅のまた隅へと追い詰めることに快感を覚える。そのために衝突も多いが、実は気が小さいという厄介者。
妻は佳奈、三四歳になったばかりで近所のファミリーレストランでパート勤務をしています。性格はとにかくマイペースで、言うと怒られるのですがちょっと抜けているというか、天然というか……。ただし記憶力は抜群で、読んだ本の好きな一節やアニメの中の気に入ったセリフはすべてを暗記している。
幼馴染だったけど特に意識はすることはなかった二人。学校卒業後に僕が勤務するお店にたまたま買い物に来た際に声を掛けられ、そこから交際へ発展。不思議と意見が合うことも多く、いっしょにいると居心地が良くて五年前に結婚した。子供は欲しいのだが、今の第一の目標は家を買うこと。そのために日々節制してお金を貯めてきた。子供は家を購入し落ち着いてからかな。
今住んでいるのは大手ハウジングメーカーの賃貸住宅で、設備は新しい物が備わっているし満足しているのですが、最大のネックが二年に一度の更新で家賃一カ月分の手数料が必要なこと。この家に住みだして三年になるのですが、一年後にまた更新手数料が必要だと思うとちょっと馬鹿らしく思えてくる。今住んでいる地域で更新手数料が必要な賃貸物件は皆無なので、よけいにそう思ってしまいます。お金を出し続けても自分のものにはならない点を含めて、マイホームを購入するほうが良いはずだと思ってしまう僕たち夫婦です。
妻にはほかにも今の家に住み続けたくはない理由があるのですが……。
「ねえ、勝、次の更新時期までに家を買って引越したいね」
「そのために佳奈は節約を頑張っているんだもんな」
「うん、今はアイスやケーキを我慢して三日に一度にしているもん」
「三日に一度?」
「二日に一度は食べたいところだけど、三日に一度に減らしているんだよ」
「……」
毎日のように朝食を食べながら新聞の折込広告を見ているのですが、目的は家を探すためではなく、ライバルスーパーの売り出し価格のチェックが目的です。それでもついつい不動産の広告に目が留まり、
「ここの沿線は幕路駅からは急に住宅価格が高くなるなあ」
「幕路かあ、いつかは住んでみたい街なんだけど、我が家では手を出せそうな感じではないよね、この価格になっちゃうと……」
幕路駅のある幕路市は小さな市ですがかなり人気が高く、駅からバス一五分、バス停徒歩一〇分の新築マンションでも我が家では手が出ない。できたら駅徒歩一五分以内が理想だけど、この地域で手が出せる新築マンションは幕路駅からさらに数駅進み、バスで一〇分以上揺られる場所でないと無理。日に日に価格が上昇して買えそうなエリアが一駅ずつ先へ進んでいくし、今では徒歩一五分以内の新築マンションは幕路市を通り過ぎ別の市でも危なくなってきた。
「無理して買っても、路線価が上がって固定資産税が上がると、かなりきつくなりそうだよな」
「でも、価値が上がれば買った時より高く売れるわけだから、いざとなれば売っちゃえばいいんじゃない?」
妻の意見は間違ってはいませんが、高く売れたあとはどこに住むのやら。売却価格が高ければ、次に購入する物件だって高くなっているのに。こんな感じで毎日のように住宅購入に関する話をしています。
七月初旬、いつもの朝と同じように折込広告をチェックしているとある物件が目に留まった。中古は嫌だなと思っているのですが、幕路市で最も人気のあるエリアだし、バスではなく駅まで徒歩七分と至近距離で売り出し価格も十分手が届きそうだ。
築二三年とやや古いけど、壁や柱も壊せる部分はすべて壊し何もない状態にしてリフォーム(スケルトンリフォーム)を行っていて、写真を見る限りでは設備はすべてが最新のものになっている。広告を出しているのは売り主なので、直接購入すれば仲介手数料は必要ない。
妻にその折込広告を見せるとすぐに食いついてきて、
「これ、いいね! チラシの写真だけじゃわからないから見に行ってみようよ」
「明日だったら僕も休みだし、アポだけ取っておいてくれたら僕も行くよ」
スーパーで勤務している僕は平日が休み。妻は僕の休みに合わせてはいますが、明日はランチタイムまで仕事に出るらしい。なので妻が帰ってきてから内覧をしようと思い、妻が不動産会社に電話して予約してくれた。
マンションのモデルルーム見学へ何度も行っては、予算や立地、ローンの審査などで折り合わずに挫折を繰り返してきたのですが、今度こそは夢のマイホームに近付けそうな気がしました。妻が住んでみたいと願う街だし、中古マンションとは言えども駅徒歩圏内で価格自体が予算の範囲内に収まりそうですから。
梅雨明けの発表はまだですが、いかにも夏空が広がる暑い日。妻がアポを取ってくれた不動産会社は、お目当ての物件からだと電車で三駅ほど先にあります。小さな不動産会社ではなく大きな銀行の名も冠していることから、それだけでも安心だと思いながらお店に入りました。
「いらっしゃいませ、どのような御用件でしょうか」
「昨日電話でアポを取った竹盛と申します」
受付の方は今日の来客予定の名簿から名前を見つけ僕たちに着席を促し、担当者を呼ぶのでその間にアンケートに記入するようにと〝ご来店者様アンケート〟と書かれた紙片とボールペンを渡された。アンケートとなっているが、ローンを組むことができ購入が可能なのかを見極める初期資料といった感じです。住所、氏名、年齢、勤務先、家族構成、年収、手持ち資金、予算などを書き込んでいく。マンションのモデルルーム見学でも求められるので、我が家のデータはあちこちの不動産屋が持っていることでしょう。
受付の方がアンケート用紙とともに出してくれたよく冷えた麦茶を飲みながらアンケートに記入していき、空欄をほぼ埋めたタイミングで担当者がやってきた。
「この度はご来店ありがとうございます、私は竹盛様を担当します山田と申します」
担当の山田さんは四〇代くらいでアブラギッシュながら、いかにも営業マンという感じの無難なネイビーのスーツを羽織っていましたが、かなり高そうな海外ブランドの腕時計をはめていることから、かなりやり手で営業成績もいいんだろうなと思いながらも、挨拶を交わしてから社会人の儀式である名刺交換をしました。
アンケートに目を通した山田さんによると、金融機関の個人の住宅ローンの審査では上場企業に勤めていることと勤続年数を重視するので、ほかにローンの支払いがなければ問題なく審査を通過するだろうと言っていた。これまで新築マンションのモデルルーム見学ではほぼ門前払い状態だったから、僕の年収と勤務先では新築マンションなんて無理ですよと断られていたわけですね。
山田さんは巧みな商売トークを展開します。お目当てのマンションブリーザ幕路のあるエリアは幕路市の中でも特に人気が高く、中古物件が出てもすぐに成約済みとなることが多い。その中でも今日内覧する物件はスケルトンリフォームを行い、住宅設備は周辺の最新マンションと同等になっているなどと、妻の心を必死でくすぐってきます。お金を出すのは最終的に僕かもしれないけど、最終購入許可決定は妻にあると僕は思っているし、おそらくこの山田さんもこれまでの数多くの経験から、旦那より奥さんの心を動かすべきだと心得ているのでしょう。
商売トークで大いに盛り上げて妻の心を揺さぶりますが、部屋をこの目で見ないと僕は判断できません。新築販売時の資料とリフォーム後の部屋の案内図を受け取り簡単に説明してもらいます。マンションは一三階建てでカタカナのコの字を傾けた凵のような形をしていて、凵の底辺が南向きです。今日見に行く部屋はベランダが西向きで玄関が東向きの七階です。
現地に到着すると山田さんは管理員に挨拶をし少し話をしていたので、その間にエントランスやロビーなどをざっと観察した。さすがに築二三年となれば古さは隠しきれないけど、傷んでいる個所は見当たらなかったし、掃除も行き届いて清潔に感じる。エレベーターは管理員室の隣にあるが小ぶりなものが一基だけで、朝の通勤時間帯はすぐに乗れないときもありそう。
エレベーターに乗り込むと山田さんがこのマンションの概要を説明し始め、管理員は日勤で清掃の方が別に一人いる、管理員室前に近々宅配ボックスが設置される。そして大規模修繕工事が一一年前に行われていて、来年二度目の大規模修繕工事が実施予定だと。妻は感心しながら話を聞いていたが、僕はエレベーターの古さやスピードの遅さが気になった。
七階でエレベーターが止まり扉が開く。エレベーターを降りてから数えると今日内覧を行う部屋は九戸目で、凵の形の外廊下をほぼすべて歩いたことになる。各戸のドアはよくある深緑色でドアスコープや取っ手が金色、今住んでいる賃貸住宅とは違い各戸の窓格子に傘などは掛けられていない。
「こちらが今回ご案内するお部屋です」
山田さんは話をしながら鍵を差し込み回して開錠し、玄関ドアを手前に開けて僕たちを中へ入るようにと案内する。
妻は誰もいない部屋に向かって、
「お邪魔します……」
と小声で挨拶して玄関へ入り、妻に続いて靴を脱いで廊下に足を下ろした。
家に入るとすぐ左手に八畳の洋室があり、廊下からその部屋に足を踏み入れると転倒しそうになった。八畳間は廊下より一〇センチほど床が低く、このような段差があるとは予想していなかったからです。
山田さんの説明によると配管の都合上廊下の高さを下げられず、かと言って高さを合せると部屋の床を高くするしかない。そうすると部屋の高さが低くなって今度は窮屈に感じるので、段差はあえてそのままにしているようです。
八畳間の向かいの六畳の洋室にも同じく一〇センチほどの段差があった。部屋へ入る時は落とし穴にでも落ちたかのようにひざがガクンと下がって驚くし、逆に部屋から廊下へ出るときはこの段差につま先をぶつけてしまいそう。年輩の方が住む場合はいただけないと思うけど、僕と妻だけならばそれほど問題はないでしょう。ただし慣れるまでは足元注意ですね。
八畳間の隣にはトイレがあり、節水型でなおかつお掃除がしやすい最新の物に交換されている。
トイレの向かい側には洗面所があり、洗面台の右隣に洗濯機設置用の防水パン、左隣が浴室となっている。洗面台は大理石風でかなり大型、蛇口はセンサー付きのタイプでシティホテルのよう。そして大型ミラーと間接照明で彩られており、収納スペースもかなり広く、妻はこれだけ広いと二人並んで歯を磨けるねと言って笑っていた。
浴室には浴室乾燥機と洗濯物を干しやすいように収納式のロープがあり、浴室の床はすぐに水が渇くタイプになっている。浴室乾燥機にはミスト機能があり、家でミストサウナを味わうことができるそう。
「家でサウナに入れるの? すごい……」
妻は驚いて目が点になっていますが、内心ではかなり惹かれているようです。
洗面所から廊下に出て、内ドアを開けていよいよリビングダイニングへ。ここも廊下とは一〇センチほどの段差がある。
元々は六畳の和室とリビングダイニングとキッチンに分かれていたのですが、壁などをすべて壊して三十三畳のリビングダイニングにしたそうで、広さを強調するためにキッチンはあえてカウンターやアイランド型にせず、壁に沿うように端に設置したらしい。3LDKだったものを2LDKとしてリビングの広さを強調したわけです。
リビングからベランダへ出てみると、今住んでいる賃貸住宅のベランダの三倍近くある幅に驚いた。午後の時間帯だったこともあり、西からの日差しがリビングに差し込み明るく感じて好印象だった。
山田さんは饒舌に、新築でこの広さのマンションはこの周辺では手が出しづらい価格帯になる。フルリフォームして新築同様の住み心地と比較的お手頃な価格を実現し、会社としては今一押しの物件だと自慢げに話した。またこの物件の売り主だから、当社で契約すれば仲介手数料が必要ないことも強調してくる。
たしかに仲介手数料も馬鹿になりません、税抜きの物件価格に三パーセントを乗じてプラス六万円に消費税がかかりますから、この物件だと百数十万円が必要です。その百数十万円を仲介手数料で払わなくて済み、家電など新居で必要な物の購入に充てられる。中古物件のネックとなる手数料が少なくなるのは大きなメリットです。
「ねえ、このマンションに決めちゃってもいいんじゃない?」
妻はかなり気に入ったようで、僕も特に悪い部分はないと思っていますが、今日はもう一軒マンションを見に行くことになっています。複数の物件を見て比較することも大事だからさすがに即決はできません。
二軒目も同じ駅が最寄で徒歩一〇分と一軒目のすぐ近くで、こちらは築一二年。現在居住中ということですから、実際に荷物を置いた場面が見れますので入居後が想像しやすい。ただ外観は一軒目より高級感を漂わせてはいますが外壁の雨染みの線が気になるし、共有部分が全体的に劣化しているように見えました。ロビーをはじめ廊下などに貼られている床の防水シートが浮き上がっているところが多く、屋外に面する階段のシート内には水が入っている。
「このマンションは大規模修繕工事が今年秋に予定されていまして、こういった部分は補修されて綺麗になるので、あまり心配なさらなくても大丈夫ですよ」
たしかに大規模修繕工事を行えば綺麗になって甦ります。でも違った観点から見れば、日頃のお手入れが行き届いていないから目に付く箇所があるわけで、古さではない管理の問題として考えると、大規模修繕工事で一時的に綺麗になっても、数年後には目に付く箇所が出てくる気がします。
今度の物件は一一階建ての最上階で南西の角部屋。ベランダは南から西へL字型で広く、日当たりも見晴らしも素晴らしい。でも肝心の部屋の中は壁のクロスが剥がれたり一部にはカビらしきものも目に入った。見える部分にカビがあるということは、家具類の背後にも必ずカビがあるということ。中古物件なのでクロスの張替は当然必要になってくるでしょうし、ハウスクリーニングとともにセットで行う必要はあるでしょうね。
ただ現状でこれだけカビが多いとなると、住みだしてからもカビに悩まされる気がします。気密性がそれだけ高いのだとは思いますが、カビの発生はお部屋の向きや風向きなども影響するような気がするので、カビを目の当たりにするとさすがに購入しようという気が失せてしまいます。
一般的に居住中の中古物件の内覧は土曜休日が主で、平日はお仕事のために中に入れない物件が多い。なので今日もこの二軒で内覧は終わり、不動産会社へ戻ってきました。
最初に店に来た時はカウンターの席でしたが、多くの店員に「お疲れさまです」と声を掛けられながら奥の商談用の席に通されました。
「二軒目も特に悪くはないと思いますが、ハウスクリーニングとクロスの張替、あとはフローリングの細かい傷の補修も必要かもしれないですね」
「お風呂やキッチンなどの水回りも古そうなので、そういった物の取替え費用を込みの場合の総額はいくらくらいになりそうですか?」
一軒目の水準に合わせるわけではないけど、ある程度のリフォームをした場合にはいくらくらいになるのかも知りたかったのです。妻は僕が二軒目を気に入ったからこんな質問したのだと思ったのか、〝コノヤロー〟という目付きで僕を睨んできた。
山田さんは二軒の支払総額を税金なども含めて出してきました。一軒目は築年数が一一年古いが専有面積が広いこと、フルリフォームを行っているから築年数の割には売り出し価格はやや高め。二軒目は交渉次第でもう少し安くはなるが、仲介手数料やリフォームなどの費用を考慮すると、中古物件の価格面での優位性を感じることはできなくなる。二軒目と同様の物件はまだあるので、希望があれば平日に内覧できるように調整しますと山田さんが伝えてきた。
二軒目のほうが築浅ですがリフォームを一切していないので残念ながら古さを感じ、一軒目と同様の設備に入替えるとかなり高額になります。もちろん築年数が違うので当然の結果ですが。
「私は一軒目がベストだと思うけど……」
妻はすっかり一軒目が気に入ったようで、今後他の物件を見ても一軒目に抱く気持ちを上回ることは難しいでしょう。僕も一軒目はロビー周りを見てもきちんと掃除されているし、管理も行き届いているように感じて二軒目よりは良い印象がある。
「マンションブリーザ幕路の今日ご覧いただいたお部屋は反響が良くて、他の不動産会社からの問い合わせもいくつか入っていまして、この週末には何組かのお客様をご案内させていただく予定です」
嘘か本当かはわかりませんが山田さんが煽ってきます。あと一押しすれば僕たちは落ちるだろうと読まれているのでしょうね。
「だとすると週末に成約しちゃう可能性は……」
「ないとは言えないですね」
妻のつぶやきに即反応した山田さんの声に妻は、
「ねえ、手付を打っておこうよ。他の物件を何軒か見て、やっぱり最初の物件がいいなと思った時には成約済みだったなんて、後悔どころか一生立ち直れなくなるよ」
もうこうなると、一軒目のマンションブリーザ幕路のあの部屋しか妻の頭には無い。ただ中古物件の手付金の相場は物件価格の一割なので、さすがに今日は持ち合わせてはいない。後で買いに来るから取っておいてと八百屋さんならば言えるけど、マンションでそんなことってできるのかな? 不動産なんて高額商品だし、不動産屋にすれば少しでも早く誰でも良いので買ってほしいというのが本音でしょう、だから、
「あの、購入の申し込みをしたいのですが……」
「本当ですか? ありがとうございます」
その場で購入申込書に記入していき、手付金や諸費用の支払いスケジュールのほか、ローンの申込や必要な書類をいつまでに準備する必要があるのかを確認した。まずは明後日に妻が来店して手付金を支払うことから始まります。
不動産屋を出ると日がかなり傾いていた。湿気混じりの暑さの中を最寄りの駅まで歩くと汗びっしょり。いろいろな書類を不動産屋が用意したファイルに入れ、そのファイルが入った紙袋を提げている僕は少し緊張した面持ち。逆に妻は満面笑みがこぼれる。
駅前のコンビニで買った冷たいアイスが美味しくて、笑みがこぼれているのかもしれないが。
自宅に戻るまで妻はニコニコ顔のままで、家に入ると僕に笑顔のまま質問してきた。
「決めちゃったね……、勝はあのマンションで良かったの? 他の物件も見たかったんじゃないの?」
僕はもちろん他の物件も見てみたい気はしたけど、リフォームされて新品同様になった部屋よりも、エントランスやロビーにごみが一つも落ちていないことが気に入った。管理員とは別に清掃員がいるそうだが、この清掃員の仕事ぶりが素晴らしいのだと思う。妻はもちろん真新しい住宅設備に心惹かれたようですが意外にも、
「お部屋の綺麗さはもちろん気に入ったけど、あのマンションの周りにはごみ一つ落ちていなかったでしょ。植え込みのところとか歩道とか。お手入れされているんだなって思ってよけいにね」
妻はただ新しくて綺麗な設備に心を奪われたのかと思ったら、内覧後にマンションの周囲をぐるりと回った時に清掃状態も見ていたようです。築年数相応の古さを感じる部分は当然あるけど、掃除が行き届いているからそれを補って余りある。僕もその点が一番気に入ったところです。
「ねえ、勝、このローンならばそれほど無理はないよね?」
「うん、ボーナス払いも極力抑えてこの支払だから、体を壊さない限り大丈夫だね」
「〝佳奈は勝にはただひたすら黙々と馬車を引く馬車馬であってほしいんだ〟頑張ってね、勝」
妻は笑いが止まらない。念願かなって昔から住んでみたかった憧れの街に住むという、第一歩を記せたのですから。一方の僕は黙々と働かなきゃいけないんだと、妻に言われた言葉によって嬉しさよりも不安が上回っていた。




