第13話 リベル・ダ・ヴェントになった日
俺は奴隷だった。今は名前も覚えていない男の。
小さい頃の話だ。
ある日、檻の中で格子の外からこちらを見下ろす二つの瞳と目があった。ほんの数秒そうした後にその子はざっと格子から飛び降りた。
わくわくしたのを覚えている。知らない誰かが自分を見ていたから。
暫くして格子の外から何かが投げ込まれた。拳大の石だった。たまたまそれが足に当たって青痣ができた。楽しそうな声が遠くの方へと走っていった。
別の日、また自分と同じくらいの男の子が格子にぶら下がってこちらを見ていた。前来た奴とは別の男の子だった。
目が合った瞬間そいつは微笑んだ。そのまま見つめ合ってしばらくした後、そいつは格子から飛び降りて姿を消した。また石を投げ込まれるかもしれない。そう思って小屋の隅に移動した。そうして蹲っていても、そいつはやって来ない。その日は何もなかった。
数日後。そいつはもう一度小屋へとやって来たようだった。遠くの方から子供の声が聞こえてきた。耳を澄ましていると、持ち主の男の声も聞こえてきた。何人かの子供たちを怒鳴りつけている。いつも聞いている怒鳴り声が、自分以外に向いていることに不思議な違和感があった。
そしてその数日後。小屋の扉が壊された。
ウィリアムという男の子の手によって。
それが俺とウィリアム、そして大切な仲間たちとの出会いだった。
その日の朝日を、今でもよく覚えている。
・
この村に来てもう十年近く経っていた。
「はいこれ、竜の鱗ね。少しおまけしといた」
「お。ありがとな坊主!」
パンパンの布袋をカウンターに置いた俺は、思わず唇を曲げた。
「もう坊主って歳でもないよ、おやっさん」
「いいじゃえねか」
おやっさんは薄い頭髪を撫でた。だんだん薄くなってきていて心配だ。
そこで嗄れた声に振り向く。
「ウィリアムがお前さんを村に連れてきたときは、こんな立派な奴になるなんて思っても見なかったわな」
カウンター越しにもう一人居るのはおやっさんの師匠だ。椅子に座っているのにぶるぶる体を震わしている。もう随分な年齢だ。
「ベムじいちゃん、それ来るたびに言ってるよ? まあそう言ってもらえるのは嬉しいけどさ」
「ほほ」
年寄り特有の小気味の良い笑い声を背に店を出る。
今日の仕事は終わり。
こんなときはあの場所へと向かうのが日課だった。
教会に併設された孤児院だ。
扉から顔を除くと、いつも同じように、馴染みの顔が子どもたちに教鞭を取っている。
授業が終わったのを確認して声をかける。
わらわらと部屋をあとにする子どもたちの隙間を抜けて彼へと近づく。
「ウィル、仕事終わった」
「お疲れ様。貴方に神の御加護がありますように」
ウィリアムがそう言って、空の方を向いて目を瞑った。
一日の内、例え既知の人間にもその日最初にあった時、ウィリアムは必ず祈るのだ。
「いつもありがと。子どもたちの様子はどう?」
「学ぶのが好きな子も、そうでない子も半分ずつくらいかな。でもみんな元気だ。諍いも少ない。まあ、少ないだけだけどね」
肩を竦めたウィリアムに苦笑する。一瞬で神父様から親友になってしまうのだから面白い。
「子供同士なんだから喧嘩もするよ。勉強の方も、言葉を話せない子はいないだろ? だからなんとかなる」
「その心配はないよ。君みたいな子はいない」
「うるせぇー」
俺がこのヴェント村に来た時のことは今でも鮮明に思い出せる。言葉を理解できなかった俺は、今の子供達のようにこの教会で勉強していた。読み書きならいざ知らず、言葉を話すこともできない子供は珍しかったようで、さぞ驚かれたものだ。同時に向けられた憐憫の眼差しは、たまに思い出してはちくりと胸が痛んだ。
最初がそんな感じだったから、この村の住人には口が達者になったとよく言われる。
それがなんともむず痒くてたまらない。
「メルサたちは?」
俺が聞くと、ウィリアムは困ったような顔になった。
「みんなはいつも通り、人助けだよ。近くの村のすぐ近くに亜竜が出たらしい。勝てなくても避難誘導くらいはって出て行った」
「そうなのか。正義の味方も困ったものだな」
俺は含み笑いをした。ウィリアム含め、そんな彼女たちだから、昔、俺を助けてくれたのかもしれない。いや、きっとそうだ。
「君が帰ってからにしなって、言ったんだけど」
「なら今から向かうよ」
「悪いね。疲れてるだろうに」
「いいや全然」
「みんなの無事を祈っているよ」
「それは心強いな。ありがとう」
ウィリアムは神父になった。信じられることなど少ないこの世界で、その存在が俺たちにとってどれほど心強い存在なのか、きっとウィリアムは自覚していない。
世界中のあらゆる物質的な価値も、それの前では無に等しい。
本当に必要なものは力の強さでも頭の良さでもない、精神の崇高さなのだと、随分と昔から俺は知っていた。
「いや、君ほどではないよ」
ウィリアムが俺に笑いかけた。
あまりにも誇らしげに笑うから、俺はいつも戸惑って、「そんなことない」って返すのだ。
俺なんて、多少体が頑丈で力が強いだけだ。
「それじゃ言ってくる」
場所を聞いて村の出入り口へと走り出す。
途中で見かけたおやっさんから剣を借りた。どうせ壊してしまうのに、快く貸してくれるおやっさんには頭が上がらない。
「気ぃつけろよ坊主」
途中に出会うみんなも優しい言葉をかけてくれる。
俺はこのヴェント村が大好きだ。
しかし、それは今すぐにでも何かに奪われてしまう儚い存在だ。盗賊に亜竜、危険は多い。
失うことを常に恐れている。その恐怖心が俺に力をくれていた。精神的にはもちろん、物理的にもだ。
馬車道を外れて森へと入る。近道をしても問題はない。この辺の森に慣れていた。
森の中に入ると緊張感が増した。静かすぎるのだ。いつもする動物たちの気配がない。きっと脅威から身を潜めているのだ。
「おかしい」
隣村まではまだ距離がある。そこに亜竜がいるのならば、ここでこの状況なのは変だ。
足を止めて周囲を見渡す。薄暗い森の中、木々の隙間たちに目を凝らす。何も異変はない。
しばらく周りを警戒していると、遠くから音が聞こえて来た。
あまりにも荒々しいそれは、木々を押し倒す音だ。
音の発信源が向かってくる。
即座に振り向き、迎え打つ体制を取った。
音は徐々に大きくなる。
暗く、草木が生い茂る森の中では至近距離にならないと正体が見えない。
向こうから小動物たちがやって来た。俺の足元を抜けて背中の方へと全速力で走り去っていく。小動物たちの背中で、地面がよれたカーペットのようだ。
その混沌とした状況の中、そいつは現れた。
不潔そうな茶色い鱗を全身に纏わせ、口の端から粘度のある唾液を垂らしている。唾液が糸を引いて地面へと垂れる様は、強い嫌悪感を抱かせた。
大きな腹を地面へと擦りつけた四本足の亜竜。言ってしまえば大きなトカゲだ。
問題なのはその大きさで、大抵の草食動物は噛まずに丸呑みにできる。
爬虫類特有の縦長の瞳孔が俺を見る。
亜竜が尻尾を高く持ち上げた。飛びかかってくる合図だ。
構える。
こいつの突進はその巨体とは裏腹にとてつもなく速い。見た目に騙されてあの世へといつの間にか行ってしまった人は多い。
そして今、尻尾が下りた——。
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