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この殻の向こう

作者: 小池ともか

 下校途中の通学路。黒いランドセルを背負った男子生徒たちがふたりの女生徒を追い抜いた。

 くるりと振り返るその顔は、馬鹿にしたように笑っている。


「さえきたまご〜」

「たまこだもん!」


 たまごたまごと囃し立てながら逃げていく男子生徒たち。

 残された自分たちに向けられる周りの人からの視線に、どうにも恥ずかしくなって俯いた。





 ピピッ、ピピッ、ピピッ――。


 条件反射でふとんの中から手を伸ばし、目覚まし時計のアラームを止めた。

 幾度となく繰り返した毎日の行動に、だんだん頭も覚醒していく。


 自分はもう小学生ではない。社会人目前の、二十二歳の大学生だ。


 名前はたまこ――佐伯珠子。


 ゆっくり起き上がって、顔に掛かる髪をかき上げる。

 ベッドから降りて部屋のカーテンを開けると、重く曇った冬空が見えた。


 どんより濁るのは空だけではない。


「……もう……朝からサイアク」


 八つ当たり気味に呟いたところで、気が晴れることなどなかった。





 自分の名前が嫌いだった。


 小学生時代はもう何度からかわれたことだろうか。

 

 着替えながら、珠子は机の上のスマートフォンを一瞥する。

 

 次の土曜日にある、中学の同窓会。

 こんな夢を見たのはきっとそのせい。


 名前のことを最後に言われたのは、中学三年の春だった。





「佐伯さん。一年間よろしく」


 三年生の始業式。前の席になった男子生徒が振り返って声を掛けてきた。

 

 小学校も違い、クラスが一緒になるのも初めて。そんな相手なので、珠子もたいして警戒していなかった。


「よろしくね、斎藤くん」

「佐伯さんって、珠子っていうんだ?」


 不意に出た自分の名前に凍りつく。


「たまごって、お――」

「下の名前嫌いなの。呼ばないで」


 何か言いかけた彼の言葉を強く遮って、珠子は目を逸らして机の上を片付け始めた。


 斎藤は小さくごめんと呟いて前を向いた。


 目を逸らす直前、驚きと戸惑いが浮かんだ彼の顔が、今でも忘れられない。


 その後斎藤とはお互い何もなかったかのように、クラスメイトとして普通に接した。


 卒業するまで彼が珠子の名前を口にすることはなく、珠子も彼があの時何を言おうとしたのか尋ねなかった。





 土曜日、珠子は普段より少し小綺麗な服装で街に出た。


 突然の同窓会は、三年のクラスメイト数人が「大学を卒業して忙しくなる前に、クラスの皆で集まろう」と言いだしたことで決まったらしい。


 メッセージアプリで連絡が回ってきた時は断ろうと思っていた珠子。

 しかし遠方に進学した友人から日を合わせて帰省するから行こうと誘われ、結局は出席することにしたのだ。


 混み合う駅前、小型のキャリーバッグを引っ張りながら駆け寄る友人の姿が見えた。

 肩過ぎの髪を揺らし、小柄な彼女が目一杯手を振っている。


「さえちゃん!」

「琴ちゃん、久し振り!」


 昼過ぎに帰省した琴美と合流し、お茶を飲みながら積もる話に花を咲かせた。


「さえちゃんはさ、気にしすぎなんだよ」


 昔の夢を見たと話すと、琴美は仕方なさそうに笑う。


「小学生の男子なんて、あることないことからかってくるんだから」

「もちろん今になってまたからかわれるとか思ってないけど」


 不貞腐れる珠子に、琴美は当たり前でしょと呆れ顔になる。


「たまちゃんだってかわいいのに」

「やめてよ」


 思った以上にきつい声が出てしまって、珠子は慌てて琴美に謝った。

 気にしてないよと笑ってくれた琴美は、でも、と続ける。


「なんかもったいないよ。せっかくさえちゃんの名前なのに」


 掛けられた言葉は、からかうつもりも諭すつもりもない、琴美の正直な気持ちなのだとわかってる。

 しかし、それでも頷くことはできなかった。


「……ありがと、琴ちゃん」


 気遣いへの礼だけは述べて、珠子は目の前のカップへと視線を落とした。

 既に空になったコーヒーカップに残る、茶色い名残。


「なんていうか。ずっとね、嫌なままなの」


 自分の心にも同じように、べっとりと暗いものが張り付いたままなのだ。





 夕方、クラスメイトたちと駅前で集合し、同窓会の会場へと向かった。とはいえ、学年全体で行うような大規模なものではなく、あくまで「クラスの」同窓会、会場は地元の定食屋だという。


 幹事曰く、三十四人いるクラスメイトのうち出席は二十二人。急な企画の割には集まった方だろう。


 案内されて辿り着いた店は、住宅街にあるマンションの一階にあった。


 昔ながらの食堂のような佇まいのその店。上半分がガラスの引き戸の内側には紺色ののれんが掛けられており、入口脇に「本日貸し切り」と手書きの紙が貼られた札がぶら下がっている。

 反転したのれんの文字は店名だろう、『お食事処はじめ』とあった。


 幹事はためらうことなくカラカラと引き戸を開けて入っていく。珠子たちもいらっしゃいと声のする店内に足を踏み入れた。


 細長い店内は、右側にカウンターと厨房、左側にテーブル席。普段はカウンター席なのだろうが、今は椅子も取り払われ、既にずらりと大皿に載った料理が並べられていた。

 厨房に立つ中年の男女がにこやかに迎えてくれる。


「狭いけど。適当に座って」


 奥で幹事と話していたエプロンをした若い男が、入口に溜まる珠子たちに気付いてそう声を掛けた。


 何気なくその顔を見て、珠子ははっとする。


 柔和な笑みを浮かべて自分たちを案内するのは、記憶より幾分大人びた斎藤だった。





「じゃあ、久々の再会と、定休日なのに店を開けてくれた文翔(ふみと)とご両親に乾杯!」


 幹事の音頭で皆がそれぞれグラスを合わせる。

 あちこちから礼を言われた斎藤も、エプロン姿のまま照れくさそうにグラスを上げていた。


 最初は尻込みしていた珠子だが、いざ始まってみると懐かしい面々との再会は素直に楽しく、周りとお互いの近況などを語り合う。


 最初に着いたテーブルの上のものがある程度片付くと、まだ話せていない人のところへと席を移動する者も増えてきた。


 ちょっと話してくる、と席を立った琴美を見送った珠子は、まだグラスに半分残るビールを一瞥する。

 カウンターの料理を取りに行こうと立ち上がりかけたその時、立ち塞がるように通路に人が立った。


 目の前のエプロンを辿るように顔を上げると、斎藤がじっとこちらを見ている。


 咄嗟に声が出ず、珠子は斎藤を見上げた。


「ビール苦手なら、ほかの用意できるけど?」


 泡の消えたビールを気にしてくれたのだろう、斎藤がそう声を掛けてくる。


 あまりにも普通に話し掛けられて思わず動揺してしまったが、すぐにこれが普通の態度だと思い出した。


 あんな夢を見たせいで。


 内心ぼやきながら、大丈夫と笑みで取り繕う。


「料理と一緒にと思って」

「待ってて」


 珠子が立ち上がるよりも早く、短く告げて斎藤が背を向けた。

 カウンターに置かれた皿を取り、慣れた手つきで並ぶ料理を盛っていく。


 何がなんだかわからぬ間に、綺麗に盛られた皿が目の前に置かれた。


「はい。苦手なものない?」

「……ない、けど……」

「よかった」


 そのまま隣に座った斎藤に、更に驚く珠子。

 助けを求めるように琴美に視線をやるが、話に夢中で気付いてくれない。


「あんまり洒落たものじゃなくて悪いけどさ」


 珠子の心中などお構いなしに続ける斎藤。


「うっ、ううん、美味しそう。いただきます」


 このままでは誤解を招きそうなので、珠子は急いで箸を手に取った。





 唐揚げ、ちくわの磯辺揚げ、なすの煮浸し、菜の花の白和え、だし巻き卵。

 ホテルの朝食バイキングのように小振りに切り分けられたそれらが、味が混ざらぬようゆとりをもって盛られている。


 何も食べていない斎藤の隣で自分ひとりが食べることに(いささ)か気まずさを感じるが、成り行き上仕方ない。


 まず口に運んだ白和えは、見た目よりしっかりした味付けに菜の花のほろ苦さがよく合っていた。


(美味しい、けど……)


 隣に座りながらも黙ったままの斎藤が気になるが、どんな話題を振ればいいのかわからず。

 結局何も言えずにビールをひと口飲み、だし巻き卵をつまみ上げた。


 出汁の混ざる分柔らかな色合い。噛むと染み出すように感じるほどの香りが口中に広がる。


「美味しい……」


 無意識に零れた言葉に、斎藤が僅かに目を瞠り、すぐに嬉しそうに表情を緩めた。


「……それ、さ。定食で出してるうちの名物メニューなんだ」


 どこか懐かしい味わいの中、ぼやけずにきちんと主張する卵の味。

 脇に添えられる副菜ではなく、主菜としての存在感。

 確かにこれならと思いながら、珠子は斎藤を見て頷く。


「名物になるのわかるよ」

「ありがとう。俺、昔っから好きで。よく作ってもらってた」


 懐かしそうに呟いた斎藤。しかし次の瞬間、その眼差しに翳りが混ざる。

 驚く珠子に、斎藤はそのまま頭を下げた。


「あの時はごめん」





「さ、斎藤くん……?」

「言い訳になるけど、からかうつもりじゃなくて。その話をしようと思っただけなんだ」


 戸惑う珠子を置き去りに、顔を上げた斎藤は自嘲気味に続ける。


「でも佐伯さんの名前を知ったから出た話題には違いないから。佐伯さんが怒ったのも当然だと思う」


 まっすぐに自分を見る眼差しは真剣そのもので。

 口を挟めないまま、珠子はただ見つめ返す。


「あの時は佐伯さんがどうして怒ったのかわからなくてそのままにしちゃったけど、ずっと気になってて。もう今更だけど、どうしても謝りたくて……」


 やがて語気が弱まり、斎藤はそのまま俯いてしまった。





 斎藤の言葉が途切れても、珠子はまだ動けずにいた。


 七年も前だというのに鮮明に思い出せるあの時のこと。

 また名前をからかわれそうになった、嫌な思い出。


 ――しかし、自分は己のことしか見えていなかった。


 あの日の斎藤はからかうつもりなど微塵もなかったというのに、自分が過剰に反応したせいで、今の今まで引きずることになってしまったのだ。


 被害妄想も甚だしいと恥ずかしくなる。


 自分の殻に籠もり、そうだと決めつけ拒絶した。

 卒業までには彼がそんな人ではないとわかっていたはずなのに、蒸し返すのが嫌で確かめようとしなかった。


 自分があの時もう少し斎藤の言葉を冷静に聞いていれば。

 彼の言葉の真意を尋ねていれば。

 こんなに彼を悩ませることもなかったのだ。


 自分の隣で背を丸める斎藤。


 申し訳なさに痛む胸は、あの日感じた痛みよりも強い。


 こんな痛みを自分もずっと斎藤に与え続けてきたのだろうか。


 それなのにどうして彼は、この殻の内側へ一歩を踏み出してくれたのだろうか――。 





「斎藤くん」


 珠子の声に斎藤がそろりと顔を上げた。

 まだ翳るその様子に、つきりと胸を刺す痛み。


「斎藤くんは何も悪くないよ。私こそごめんね」


 見開かれる瞳に映る二十二歳の自分に、かつての自分を重ねる。

 あの時の自分。

 変わらぬままの、自分。

 今、変わることができたなら。


「名前のことをからかわれるって思い込んで、ちゃんと聞かないままだった。それに、斎藤くんはそんな人じゃないってすぐにわかってたのに……」


 意思とは反して尻窄みになる声。

 それでもせめてとまっすぐ斎藤を見つめる。


 暫く固まっていた斎藤から、ふっと力が抜けた。

 

「それは俺だって同じだよ。あのあとずっと、佐伯さんの理由を聞けなかったんだから」


 社会人になる前にきちんと謝っておきたかったのだとつけ足してから、ようやく斎藤が相好を崩す。


「西村にも迷惑かけたけど。ちゃんと話せてよかった」


 斎藤の口から出た琴美の名に慌てて視線をやると、呆れたような、しかし安堵の見える目を向けられていた。どうやら知らぬところで色々と世話になっていたらしい。


 自分が殻に籠もっている間も、こうして気遣われていたのだろう。


 珠子は琴美へ苦笑を返してから、改めて斎藤へと向き直った。


 斎藤の笑顔が先程までより幼く見えるのは、お互い緊張が解れたからか、少し理解が深まったからか。


 忘れられなかったあの姿を上書くように、殻越しではないその顔を見つめる。


「私も話せてよかった。ありがとう」


 心からの礼を述べ。


 珠子もようやく笑みを浮かべた。



 お読みくださりありがとうございます。



 後日譚を書きました。


『好事百景【池淵】』

  第四十六景【たまご】表(珠子視点)

  https://ncode.syosetu.com/n9526hy/71

  第四十六景【たまご】裏(斎藤視点)

  https://ncode.syosetu.com/n9526hy/72

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たまご祭り コロン様主催 たまご祭り
― 新着の感想 ―
小池さんらしい優しく穏やかなお話に癒されました……。 たまこちゃん、自分は名前が似ているので勝手に親近感笑。 気付かなかったけどたまごと名前似てますね、たまご好き冥利に尽きます(*´ω`*) そして描…
『殻の向こう』 繊細な心理描写が、とっても素敵でした。 子供の頃に経験した嫌なことは、大人になってもずっと引きずって、固い殻に覆われてしまうのですよね……すごく分かります。 (私はパカンと割って、小…
自分の名前は、ずっと自分と共にあるもので。それだけに小さい頃にからかわれた記憶が残ってしまう、主人公の気持ちも分かるように思います。 あの時、聞きそびれた、言葉の続き。 でも、その時の珠子にとっては…
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