もう二度と結婚しません
「────戸田千紘さん、俺と結婚してください!必ず幸せにします!」
夜景がよく見えるレストランの個室で片膝をつき、私に花束を差し出したのは────彼氏の高林仁だった。
日に焼けた肌を若干赤く染め、こちらをじっと見つめる彼はゴクリと喉を鳴らす。
一世一代のプロポーズだからと、緊張しているのだろう。
『普段は自信たっぷりなのに』と目を細める私は、僅かに身を屈めた。
普段なら絶対に行かない高級レストランへ連れてこられた時点で、プロポーズされるのは分かっていたけど、想像以上に嬉しいものだね。
ついつい、笑みが零れちゃう。
だらしなく緩む頬をそのままに、私はスッと手を伸ばす。
と同時に、仁くんから花束を受け取った。
「プロポーズ、謹んでお受けします。ありがとう。一緒に幸せになろうね」
そう言って仁くんの手を掴み、やんわりと引っ張る。
促されるまま立ち上がった彼を前に、私はニッコリと笑いかけた。
幸せな未来が待っている、と信じて……。
────まあ、現実そう甘くないのだけど……。
「千紘さん、最近家事を疎かにしていませんか?ウチの仁ちゃんは優しいから、見逃してくれているんでしょうけど、しっかりやってもらわないと困ります」
玄関前で仁王立ちし、こちらを見下ろすのは────義母の高林由梨だった。
仁くんとよく似た顔に嫌悪を滲ませる彼女は、『全く、最近の子は……』と呆れ返る。
帰宅早々……靴を脱ぐ暇も与えず叱責してくる彼女に、私は『またか』とゲンナリした。
無事入籍し、高林を名乗るようになってから早半年……義母の嫌味と過干渉が止まらない。
恐らく、これが世間一般で言うところの────嫁いびりなのだろう。
『入籍後、即同居はさすがに早まったかな……』と後悔しながら、義母の叱責を受け止める。
理想の新婚生活とは程遠い現実を前に、私は早くも心が折れかかっていた。
「ウチの仁ちゃんはハウスダストアレルギーですから、部屋の隅々まで掃除してくださいね」
無理だよ。私だって、フルタイムで働いているんだから……。
そんなに気になるなら、お義母さんか仁くんがやればいいのに。
「あと、食事は毎日出来たてのものを食べさせてください。昨日の残り物とか、冷凍食品とかやめてくださいね」
出来たてのものって……残業のときはどうすればいいの?
夕食作りのためだけに一度帰宅してこい、と?
私は家政婦か何か?
「洗濯物は溜め込まないようにしてくださいね。ほら、放置すると臭くなるでしょう?」
二日、三日放置したところで臭くはならないよ。
そりゃあ、毎日洗濯するに越したことはないけど……でも、フルタイム勤務の私には不可能だ。
「とにかく、仁ちゃんのお世話はきっちりしてください。わざわざ、二世帯住宅まで建ててあげたんですから。親から独立した家庭だと言うなら、それ相応の成果を見せて頂かないと」
それらしい言葉を並べる義母は、『分かりましたか?』と問い掛けてくる。
『はい』と言わざるを得ないようなプレッシャーを放ちながら。
どうして、いつもいつも私ばかり……共働きなんだから、仁くんだって家事を負担するべきでしょう?
これじゃあ、まるでお金を払う家政婦だよ……。
────と落ち込む私は、じっと床を見つめた。
今、義母の顔を見たら泣いてしまいそうだったから。
惨めで情けない自分を『根性なしだ』と自虐する中、義母はこれでもかというほど深い溜め息を零す。
「返事もまともに出来ないなんて、困った人ですね。どうして、仁ちゃんはこんな人をお嫁に選んだのかしら?」
やれやれと肩を竦める義母は、『これ以上会話しても無駄ね』とでも言うように踵を返す。
そして、去り際に────
「今からでも、新しい人を見つければいいのに」
────と、独り言のように呟いた。
思わず硬直する私を他所に、義母は親世帯へ繋がる扉を開け、さっさと退散していく。
パタンと扉の閉まる音が聞こえた瞬間、私はその場に蹲った。
怒りなのか、悲しみなのかよく分からない感情が溢れてきて、止まらない……。
少なくとも、『やっと終わった』という解放感はなかった。
『ただただ辛い……』と感じる私は、ポロポロと大粒の涙を流す。
と同時に、痛感した────自分はもう限界なのだと。
気づかなかっただけで……知らんふりをしてきただけで、私の心と体は悲鳴を上げていたのだ。
ここまで来たら、もう誤魔化すことなど出来ない。
────今日、仁くんにお義母さんのことを相談しよう。
今までは『親の悪口なんて聞きたくないだろう』と思って、黙ってきたけど……このままでは、私がダメになる。
『一度きちんと話し合わなきゃ』と決意し、私は服の袖で涙を拭いた。
白のYシャツにマスカラやファンデーションがベッタリ付いてしまったものの、気にしない。
今はそれより大事なことがあるから。
とりあえず、お風呂に入ろう。
仁くんは残業だから、終電まで帰ってこないだろうし。
今のうちに気持ちを落ち着かせて、冷静に話を出来るようにしなきゃ。
キュッと唇を引き結ぶ私は嫣然と顔を上げ、ようやく靴を脱いだ。
────その後、お風呂や掃除を済ませた私は二人分の夕食を作って、仁くんの帰りを待っていた。
『終電に間に合ったなら、そろそろ帰ってくる筈だけど……』と思っていると、扉の開閉音がなる。
反射的に立ち上がった私は玄関へ向かい、仁くんを出迎えた。
「おかえりなさい、仁くん」
「ん」
気怠げに返事し、革靴を脱ぐ仁くんはスーツのジャケットとネクタイをこちらへ放り投げる。
いつものことなので大して驚くこともなく、私はキャッチした。
慣れた手つきでジャケットのシワを伸ばしながら、仁くんの脱いだ靴を素早く揃える。
すると、振り返りざまに靴下が飛んできた。
いつもよりタイミングが早かったため反応出来ず、私は顔面で靴下を受け止めてしまう。
ズルリと滑るようにして床へ落ちた靴下を前に、私は心の中で『最悪……』と呟いた。
お風呂に入ってきたばかりなのに、脱ぎたてホヤホヤの靴下を顔面で受け止めるのは辛い……。
というか、今日の仁くん機嫌悪いな……会社で何かあったのかな?
『単純に疲れているだけ?』と思案しつつ、私は落ちた靴下を拾い上げる。
すると、じっとこちらの様子を見ていた仁くんが一言……
「どんくさ」
と呟いた。
『ごめん』と謝る訳でも『大丈夫?』と心配する訳でもない仁くんの態度に、私は目を剥く。
別に紳士的な対応を求めていた訳じゃないが、そんなに冷たくされるとは思ってもみなかった。
虫の居所が悪いにしても、これは酷すぎる。
フツフツと湧き上がる怒りと漣のように押し寄せてくる悲しみに、私はギュッと唇を噛み締めた。
そうしないと、また泣いてしまいそうな気がして……。
「飯」
私の気持ちなどどうでもいいのか、仁くんは『夕食を早く用意しろ』と要求してくる。
メインの唐揚げがまだ出来上がっていないため、急かしているのだろう。
仁くんとしては早くご飯を食べて、眠りたいだろうから。
出来たての方が美味しいだろうからと、まだ揚げずにいたけど……先に揚げちゃえば良かった。
だって、『飯』の一言で夕食を準備させられるなんて……完全に家政婦じゃない。
自分の置かれた状況や立場を嘆き、私はグッと歯を食いしばる。
先程よりずっと惨めな想いをしながら、絞り出すような声で『直ぐに行く』とだけ告げた。
『あっそ』と言ってリビングの扉を閉める仁くんを一瞥し、私は脱衣所へ駆け込む。
そして、ネクタイや靴下を洗濯機に放り込んでから蹲った。
いつからだっけ?仁くんから、ぞんざいに扱われるようになったのは……。
結婚する前は、こんなんじゃなかったのに……。
軽んじられているのか、それとも妻だからと甘えているのか……と少し考える。
でも、仁くんの本心なんて分かる訳もなかった。
ただ一つ確かなのは────このままじゃ、ダメだということ。
義母の件もそうだが、夫婦の関係についてもそのうち見直さなければならない。
まずはお義母さんのことから、片付けよう。
一度にあれこれ言われても、仁くんだって困るだろうし。
『焦らず少しずつ』と自分に言い聞かせ、私は立ち上がった。
リビングに繋がる扉へ足を向け、ゆっくりと歩き出す。
ドクドクと激しく鳴る心臓の音を聞きながら、私は扉を開けた。
ダイニングテーブルの前に座る仁くんを横目で捉えつつ、ジャケットをハンガーに掛ける。
『早くしろよ』と言わんばかりに箸で空の皿を突つく仁くんに、私は複雑な感情を抱いた。
昨日までの私なら『ごめんね』と言って、急いで唐揚げを作っただろうけど……それじゃあ、ダメだよね。
仁くんをこんな風にしてしまったのは、私の甘やかしが原因だろうし……。
『直ぐに謝る癖、直した方がいいかも……』と思案しつつ、私はキッチンへ入った。
慣れた手つきでコンロに火をつける私は、下処理を終えた唐揚げに衣をまぶす。
油の入った鍋を横目で確認しながら、小さく深呼吸した。
不安と緊張で強ばる表情を何とか取り繕い、恐る恐る口を開く。
「仁くん、残業でお疲れのところ悪いんだけど、ちょっと相談があって……」
震える声で話を切り出す私は、そっと相手の反応を窺う。
もっと強気に行かなきゃいけないのは分かっているが、引っ込み思案な私にはこれが限界だった。
『我ながら情けない……』と自責する中、テーブルに突っ伏していた仁くんがのそりと顔を上げる。
「はぁ……何?」
心底面倒臭そうな表情を浮かべ、こちらを見つめ返す仁くんは若干不機嫌だった。
仕事で疲れているところに、相談を持ち込まれて鬱陶しく感じているのだろう。
半ば睨むような鋭い視線を前に、私は一瞬たじろいだ。
や、やっぱり……明日にしようかな……?別に急ぐような話でもないし……。
『仁くんに負担を掛けたくない……』と悩む私は、衣まみれの手をじっと見つめる。
パチパチと音を立てる鍋の油に視線を移し、キュッと唇に力を入れた。
今にも折れてしまいそうな心を前に、私は────ふと、これまでの生活を振り返る。
と同時に、『これじゃあ、いつまで経っても変われない!』と自覚した。
いつも遠慮して、我慢して、躊躇して……そうやって、私は私を追い詰めてきた。
変わるなら……行動を起こすなら、今しかない。
もし、後日に持ち越せば私はきっとまた延期にするから。
『疲れている仁くんには申し訳ないけど、相談しよう』と心に決め、私は視線を前に戻した。
胸の奥で燻る僅かな罪悪感を、『そもそも、これは仁くんのお母さんの話だし……』と納得させ、口を開く。
「あの、お義母さんのことなんだけど、私に当たりが強いというか……共働きなのに家事を完璧にこなすよう、要求してくるの。だから、仁くんの方から注意してほしくて……」
出来るだけ言葉を選びながら話す私に対し、仁くんは怪訝そうに眉を顰めた。
「は?何?そんなこと?」
呆れたと言わんばかりに息を吐き出し、仁くんは再びテーブルに突っ伏す。
まるで、こっちの話なんて聞く価値もないとでも言うように。
「えっ?『そんなこと』って……確かに小さなことかもしれないけど、毎日やられたらかなり辛いよ」
「はぁ……ちょっとくらい、我慢してよ。別に四六時中、ずっと一緒に居る訳じゃないんだから」
『上司のご機嫌取りと同じようなものでしょ』と、仁くんは投げやりに言う。
目を合わせてもくれない彼の態度に、私は絶望した。
辛い気持ちを切々と訴えているのに、話すらちゃんと聞いてくれないとは思ってもみなかったから。
自分の優先順位の低さを痛感する私は、声を震わせながらも食い下がる。
「で、でも……」
「母さんも歳なんだよ。ほら、更年期障害って言うの?少しは大目に見てあげて」
私の言葉を遮り、仁くんは強引に話を終わらせた。
かと思えば、素早く席を立つ。
「俺、やっぱ先に風呂入ってくるわ。ご飯は各々食べるってことで」
『あっ、唐揚げは揚げといてね』と言い残し、仁くんはクルリと身を翻した。
引き止める間もなく、リビングから出ていった彼は勢いよく扉を閉める。
そして、直ぐにシャワーの流れる音が聞こえ始めた。
今日の話し合いは、もう無理そう……出来れば、日を跨ぎたくなかったんだけど、しょうがない。
私の言い方が悪かったのかもしれないし。
長期戦を覚悟して、頑張ろう。
『挫けるな』と自分に言い聞かせ、私は精神を保つ。
優柔不断で気の弱い自分を叱咤激励しながら、私は衣のついた唐揚げを油の入った鍋に投入した。
────その翌日。
私は勇気を出して、もう一度仁くんに相談したものの……結果は空振り。
煩わしそうに『我慢してよ』と言うだけで、直ぐに寝室へ行ってしまった。
いつもなら、ここで心が折れてしまうところだが……『弱い自分を変える!』と決断したおかげか、まだ気力が残っている。
なので、分かってもらえるまで何度でも話し合いを持ち掛けた。
────が、いつも強制的に話を打ち切られてしまう。
今日でもう二週間が経つけど、仁くんは『俺から注意してみる』と動くことも、『辛かったね』と労うこともない。
ただただ、私に我慢を強いるだけ……こちらの話に耳を傾けている分まだマシかもしれないけど、そろそろしんどいかな。
『いい加減、きちんと話し合いたい』と願う私は、風呂上がりの仁くんにビールとおつまみを出す。
そして、キッチンの片付けを簡単に済ませると、彼の正面に腰を下ろした。
左手の薬指で嵌めた結婚指輪を一瞥し、スマホに釘付けの仁くんを見る。
ビール片手にスマホを操作している彼の前で、私は『今日こそ、建設的な話し合いを!』と奮起した。
「あの、仁くん。連日で申し訳ないんだけど、お義母さんのことを相談したくて……」
おずおずと口を開いた私は、『今いいかな?』と確認を取る。
もっと強い口調で言っていいかもしれないが、仁くんにこれと言って非はないので、あまり責めたくなかった。
『喧嘩腰に話し掛けて、険悪になっても嫌だし……』と思いながら、私は言葉を続ける。
「毎日、子世帯に来ては嫌味全開で正直ストレスなの。共働き夫婦のことを全然理解してない……これじゃあ、私は金を稼いでくる家政婦だよ」
自虐気味にそう呟き、私は奴隷と化している現状を嘆いた。
「私は金を稼いでくる家政婦として、高林家に嫁いだ訳じゃない。仁くんの妻になるために嫁いできたの。だから、お義母さんに嫌味と過干渉をやめるよう言って欲しい」
改めて要望を口にする私は、ギュッと胸元を握り締める。
「実親に注意するのは、勇気のいる行為だと思う。でも、私達の未来のために協力して欲しい。このままじゃ、子作りどころかストレスで倒れちゃうよ」
『倒れる』は言い過ぎかと思ったが、仁くんに少しでも危機感を持ってもらおうと思い、大袈裟に表現した。
────が、まさかの無反応……返事もなければ、相槌もない。
「ねぇ、仁くん聞いている?」
スマホの画面から一向に顔を上げようとしない仁くんに、私は再度声を掛ける。
────と、ここで仁くんが勢いよく顔を上げた。
「嗚呼、もう!うるさいな!」
バンッとスマホをダイニングテーブルに叩きつけ、仁くんは目を吊り上げる。
と同時に、こちらを睨みつけた。
「いい加減にしろ!こっちも仕事で疲れてんだ!毎日毎日、お前の愚痴を聞かせられる俺の身にもなれよ!」
『鬱陶しいんだよ!』と怒鳴り散らし、仁くんは勢いよく席を立った。
そして、飲みかけのビールだけ手に取ると、リビングから出ていく。
ドスドスと大きく鳴る足音に、私は思わず身を固くした。
恐怖で震える手をギュッと握り締め、食べかけのおつまみが入った皿を呆然と見つめる。
『何でこうなったの?』と自問しながら。
私の言い方が悪かった?
親を否定されたのが、耐えられなかった?
話し合いの頻度が多すぎた?
いや、その前に────
脳裏を駆け巡る様々な疑問が溶けていき、私は一つの問題に直面する。
「────仁くんは私の話を愚痴としか捉えてなかったの?あれだけ改善して欲しいって、訴えたのに?」
何一つ伝わってなかった事実を目の当たりにした私は、無力感に襲われた。
『今までの努力は何だったのか』と絶望し、静かに涙を流す。
全部無駄だったなんて、知りたくなかった……少しは前進している、と思いたかった。
ポタポタとテーブルの上に落ちる涙を眺めながら、私は愕然とする。
この言い様のない感情や行き場のない衝動を、どうすればいいのか分からない。
『一人相撲』という言葉が脳裏を過ぎる中、私は漠然とした疑問を抱いた。
あれ?何で私────仁くんと結婚したんだろう……?
少しでも長く一緒に居たくて……仁くんと幸せになりたくて……理想の未来に近づきたくて、頑張ってきた筈なのにいい思い出なんて一つもない。
いつもお義母さんに怒られて、仁くんに軽んじられて……心の安らぐ時なんて、なかった。
『会社はもちろん、家でも常に気を張っていたな』と思い、自分なりに新婚生活を振り返る。
────と、ここでプロポーズの際に仁くんが言った言葉を思い出した。
『戸田千紘さん、俺と結婚してください!必ず幸せにします!』
幸せ……今の私って、幸せかな?
私の思い描いた未来って、こんなに虚しいものだったっけ……?
プロポーズされた時に感じたときめきや期待が嘘のように消えていき、私はそっと目を閉じる。
と同時に、理想の新婚生活を脳裏に思い浮かべた。
金を稼ぐ家政婦と化している現実と比較し、改めて自分の状況を再確認する。
その途端、濁っていた思考が徐々に晴れていき────誤魔化してきた自分の本心を自覚した。
「っ……!私────結婚する前に戻りたい……!」
しっかり目を開けて現実を直視する私は、『こんな結婚生活、嫌だ!』と叫ぶ。
『せっかく縁あって結婚したんだし……』と押さえつけてきた感情が爆発し、クシャリと顔を歪めた。
「プロポーズなんて、受けなきゃ良かった!」
自分の選択が間違いだったと認めたくなくて……仁くんという大きな存在を手放したくなくて……周りから白い目で見られたくなくて……必死に『結婚して良かった』と思い込んできたけど、もう無理!
私の人生から仁くんを、お義母さんを、高林家という家庭を消したい!
最初から、全部なかったことにしてほしい!
結婚を激しく後悔している私は、『人生やり直したい!』と切に願う。
まあ、時間でも巻き戻らない限り不可能な話だが……。
でも、もし結婚する前に戻れたなら────私は絶対に仁くんのプロポーズを受けない。
こちらから慰謝料を支払うことになってでも、別れる。
世間様から白い目で見られたって、構わない。
不幸な“今”をなかったことに出来るのなら。
「────って、過去のことを今更あれこれ言っても無駄だよね。起きちゃったことは変えられないもん」
『現実的な話で行くと、離婚かな〜』と考えながら、私は席を立つ。
涙で濡れた頬を拭き、おもむろにスマホを手に取った。
『離婚について、早速調べるか』などと思っていると、不意にメールの通知が届く。
『こんな時間に誰だろう?』と首を傾げる私は特に深く考えることなく、メールを開いた。
と同時に、
『逆行して、人生をやり直してみませんか?』
という文面が目に入る。
怪しさ満載のメールを前に、私は思わず苦笑を漏らした。
アドレスからして、友人の悪ふざけではないだろう。
恐らく、詐欺関係のメールだと思われる。
でも────もし、本当に逆行して人生をやり直せるなら……仁くんと結婚せずに済むなら、やってみたい。
メールの文面を食い入るように見つめる私は、藁にも縋る思いで返信画面を開いた。
そして、指示通りに戻りたい日付けを入力し、深呼吸する。
あとは送信ボタンを押すだけだが、元々臆病な性格ということもあり、とても緊張した。
あ、怪しいURLとかないし、多分大丈夫だよね。
ただ返信するだけなら、何ともない……筈。
もし、やばいと思ったら受信拒否すればいいだけの話だし。
『そんなに身構える必要ないって』と自分に言い聞かせ、画面の右上へ手を伸ばす。
緊張のあまりスマホを握る手に力が入るものの、私は無事に送信ボタンをタップ出来た。
と同時に、後悔の念が押し寄せてくる。
『やっぱり、返信しない方が良かったんじゃ……』と思い、不安を抱いた。
その瞬間────急激な目眩に襲われる。
吐き気を覚えるほどの浮遊感や倦怠感にも見舞われ、上手く体が動かせなかった。
『なにこれ?』と疑問に思う間もなく、視界がどんどん歪んでいく。
『もしかして、このまま死んじゃうの?』と思った瞬間────霞がかった意識が覚醒した。
と同時に、視界が少しずつクリアになっていき、ここが自宅のリビングでないことに気づく。
あれ?ここって……。
「────戸田千紘さん、俺と結婚してください!必ず幸せにします!」
聞き覚えのあるセリフと声に導かれ、視線を下げると、スーツ姿の仁くんが目に入った。
緊張した面持ちで花束を差し出す彼の姿に、私は目を剥く。
だって、この状況は……半年前に経験した筈だから。
えっ?プロポーズ?ど、どういうこと?
時間を巻き戻したいと思うあまり、幻を見ている……?
それにしては、妙にリアルだけど……。
困惑気味に視線をさまよわせる私は、『何がどうなっているのか』と真剣に悩んだ。
────が、答えは出ず……ただただ戸惑うだけ。
そして、上手く状況を呑み込めずにいると、仁くんが顔を覗き込んできた。
「ち、千紘……?どうかしたか?」
一世一代のプロポーズに対して無反応だったからか、仁くんは不安げな表情を浮かべる。
こちらのご機嫌を窺うような視線に、私は困惑した。
だって、仁くんにこんな風に気遣われるのは久しぶりだから。
あっ、そっか……私が好きだったのは、目の前に居る昔の仁くんで結婚後の仁くんじゃないんだ。
今更ながら自分の気持ちを自覚した私は、『まあ、過去形だけど』と苦笑いする。
好きだった頃の仁くんを目の当たりにしても、恋心が戻らなかったことに少しだけ驚いた。
優柔不断な自分なら、あっさり心を持って行かれそうだと思ったから。
『もう心の底から冷めちゃったんだなぁ……』と再認識しつつ、私はそっと眉尻を下げる。
「ごめんなさい。今日は体調が悪いから、もう帰るね」
プロポーズの返事を敢えて保留にし、私はレストランの出入り口へ向かった。
後ろから制止の声を掛けられるものの、『ごめんね』と謝って立ち去る。
もし、これが幻なら仁くんのことを思い切り罵って、振るんだけど……現実だった場合、そうもいかないのよね。
まだ婚約段階じゃないから大丈夫だとは思うけど、婚約不履行で訴えられる可能性もあるし……。
だから、まずは状況整理しないと。
足早に街中を駆け抜けていく私はタクシーに乗り込み、自宅へ帰った。
少々手狭なマンションでぼんやり天井を見上げ、『本当に逆行したのか?』と考える。
これって、走馬灯かな?
プロポーズ場面へ至る前後に体調が悪くなったことを思い出し、死んでいる可能性を疑う。
────が、走馬灯は過去の出来事を振り返る現象なので、今回の事象には当てはまらない気がした。
『これって、言うならば追体験だもんね』と思いつつ、私はそっと自身の頬を抓る。
「痛い……」
痛覚が正常に働いていることを確認した私は、『夢や幻でもなさそうだ』と判断した。
テーブルに置いたスマホを手に取り、電源を入れる。
すると、そこには『20✕✕年八月九日』と書かれたロック画面があった。
「……やっぱり────逆行したのかな?」
俄かには信じ難い可能性を指摘し、ソファの背もたれに寄り掛かる。
懐かしいロック画面の背景を眺めながら、私は一度深呼吸した。
まだ混乱している思考を正し、今後のことについて考える。
一先ず、逆行したと仮定して……問題はどうやって、仁くんと別れるかよね。
ただの恋人同士なら、『別れる』と宣言して終わりだけど……結婚も考えるような間柄である以上、揉めるのは間違いない。
きっちり、すっぱり別れるにはちゃんと作戦を練らなきゃ。
案外すんなり状況を受け入れている私は、ネットサーフィンに勤しんだ。
最悪の場合は慰謝料を払ってでも別れるけど、今はそんなに切羽詰まった状況じゃないし……なりふり構わず、別れを告げる必要はない。
それなら、出来るだけこちらに有利な条件で別れるべきよね。
気の休まらない生活から脱したことで心にゆとりを持てるようになったのか、私は酷く冷静だ。
仁くんの顔色を窺わなくていい“今”がとても快適で、ついつい笑みを零してしまう。
今更かもしれないけど、私はあの結婚生活で意思や感情を抑圧されてきたんだな……。
心の奥底から湧き起こる解放感に目を細めつつ、私は画面をスワイプする。
婚約の定義や基準について記されたサイトを読み、『う〜ん……』と唸った。
正式に書類を交わしたり、結納を済ませたりはしてなかったけど、両親の顔合わせは終わっているのよね。
共通の友人も、『私と仁くんは結婚する』って思っているだろうし……。
何より、仁くんとは『結婚しようね』って常日頃から言い合っていたから……。
婚約関係と見なされ、婚約不履行で訴えられる可能性は……ほんの僅かだけど、ある。
所詮口約束とはいえ、周囲の認識や状況からちょっと不利かもしれない。
複数のサイトをチェックした上で懸念点を並べ、私は眉間に皺を寄せる。
『破局の決め手になるような出来事ないかなぁ』と思いつつ、前回の記憶を振り返った。
仁くんとは人並みに喧嘩もしたけど、浮気や借金といった大きなトラブルはなかった。
現時点では、ごくごく普通のカップルだと思う。
ただ、結婚式の準備に入ってからは何度かトラブル……というか、悶々とする出来事があったけど。
例えば、結婚式の会場やドレスにお義母さんが口を出してきたり、仁くんのミスで希望したホテルの予約が取れなかったり……。
『おかげで新婚旅行のホテル代が想定より高くついたのよね……』と、私は苦笑を浮かべる。
私と仁くんの結婚は出だしから躓いていたのだと気づき、なんだか複雑な気持ちになった。
そういえば、同居を言い出したのも入籍直前だったよね。
あのときは、本当にビックリしたなぁ……だって、もう新居の下見や契約も済ませていたから。
まあ、契約は仁くんの方でこっそり白紙に戻したらしいけど……って、ちょっと待って?
これって────充分、破局の決定打にならない?
ハッとしたように目を見開く私は、『これこそ婚約破棄の理由に相応しい!』と考える。
以前は仁くんとの結婚を逃したくなくて……今更結婚をやめますなんて言えなくて、受け入れてしまったが、明らかにおかしい状況だ。
私ったら、結婚ドリームに浮かれて感覚が麻痺していたのね……。
結婚式の招待状を送った途端に同居宣言なんて、誰の目から見ても地雷臭プンプンなのに。
今後の生活に関わるようことで騙し討ちを仕掛けてくる人達は、警戒しなきゃダメよ……。
『冷静になって考えてみると、私も相当アホだったなぁ……』と思いつつ、遠い目をする。
地雷原に自ら飛び込んで行った過去の自分を哀れみ、一つ息を吐いた。
と同時に、気持ちを切り替える。
とりあえず、これからは騙し討ちの同居宣言で別れられるよう動くことにしましょう。
今すぐ縁を切れないのは残念だけど、別に急がなきゃいけない問題でもないし。
『焦らず、じっくり』と自分に言い聞かせ、私は今後の方針を定めた。
進むべき道の先を見据えつつ、私はスマホで仁くんと連絡を取る。
『近々もう一度会いたい』という旨を伝え、日程を調整してもらった。
────そして、迎えたデート当日。
カップルに人気のありそうなカフェで待ち合わせしていた私達は、再度顔を突き合わせる。
テラス席でアイスコーヒーを嗜み、夕日を眺める私はチラリと仁くんに視線を向けた。
タキシード姿だった前回と違い、今回はカジュアルな格好だが、いつもよりオシャレしているのが分かる。
今日だって仕事で忙しかっただろうに、わざわざ一度帰宅して服を着替えてきてくれたのかしら?
などと思いつつ、私はコーヒーカップをテーブルの上に置いた。
「この間はごめんね、いきなり帰ったりして……」
「い、いや大丈夫!具合が悪かったなら、仕方ないって!まあ、デートに行くって分かっていながら、体調管理を怠ったのはどうかと思うけど……!」
『社会人失格だぞ』と冗談交じりに言い、仁くんはカラリと笑った。
きっと本人に悪気はないんだろうが、言葉の端々からこちらを馬鹿にしているのが伝わってくる。
『私って、結婚する前から下に見られてたんだなぁ』と気づき、なんだか情けない気持ちになった。
自分の鈍感さに呆れる一方、仁くんは緊張した面持ちで口を開く。
「それで、その……プロポーズの返事を聞いてもいいか……?」
おずおずといった様子で本題に入る仁くんは、ゴクリと喉を鳴らした。
期待と不安の入り交じる表情を浮かべ、じっとこちらを見つめる彼に対し、私はニッコリと微笑む。
「もちろん、お受けします!素敵なプロポーズをありがとう!」
『一緒に幸せになろう』とは口が裂けても言えず、敢えてセリフを変えた。
本来であれば、前回と同じ言動を取るべきなんだろうが……。
だって、何が未来を変える出来事になるか分からないから。
でも、私はそんなに器用な人間じゃないため、あからさまな嘘をつけなかったのだ。
『我ながら面倒臭い性格ね』と呆れていると、仁くんが明らかにホッとしたような表情を浮かべる。
人目も憚らずテーブルに突っ伏し、大きな息を吐いた。
「あ〜!良かった〜!断られたら、どうしようかと思った〜!」
素直にプロポーズの返事を喜ぶ仁くんは、屈託のない笑みを零す。
余程安心したのか肩の力を抜き、脱力した。
かと思えば、しゃんと背筋を伸ばし、こちらに向き直る。
「じゃあ、早速来週から結婚式の準備を始めようか」
『こういうのは早い方がいいって言うし!』と述べ、仁くんはグッと手を握り締める。
『善は急げ』みたいな言い分を振り翳す彼に、私は『そうだね』と頷いた。
────という訳でやってきました、結婚式場の下見!
プランナーさんや仁くんと日程を調整して訪れた式場候補の一つを前に、私は内心苦笑いする。
何故なら、義母もくっついてきているから。
まあ、一度この流れを経験した私からすれば、予想通りの展開だけど。
というか、来てくれた方がこちらとしても助かる。
『決定打にならずとも、婚約破棄の一要因として認められるだろうし……』と、私は内心ほくそ笑む。
『計画通りだ』と歓喜しつつ、バッグからあるものを取り出した。
「あの、撮影してもよろしいですか?結婚式の準備風景を思い出として、残しておきたくて」
そう言って、私は母から借りてきたビデオカメラを見せる。
運動会や入学式で大活躍したソレに電源を入れ、三人の顔色を窺った。
ビデオカメラによる撮影は、前回の展開にない。
でも、お義母さんの出しゃばりや仁くんの無関心を証拠として残すために必要だと思い、敢えて持ってきた。
内緒で撮影する手もあったけど……それだと法律に引っ掛かりそうだし、『何で撮影しようと思ったの?』と聞かれたら返答に困る。
破談になるのを見越して……というか、目指して?証拠集めしていました、なんて言えないもの。
だから、表向きの理由は『思い出に残すため』とし、自然に証拠を残そうと考えた。
『問題は皆が了承してくれるかどうかだけど……』と思う中、プランナーさんが真っ先に口を開く。
「構いませんよ。好きなだけ、撮影してください。ただ、SNSなどに上げる際はプライバシーに配慮して頂けますと幸いです」
「分かりました。ありがとうございます」
一番嫌がりそうな第三者からの快諾に、私は内心ガッツポーズする。
これで撮影に反対されることはないだろう、と思ったから。
仁くんも義母も、自分の感情を理由に『やめて』と言うことはほとんどない。
第三者の目があるところでは、特に。
『きっと、ワガママを言っているように見えて嫌なんだろうな』と思いつつ、私は遠慮なく撮影を開始した。
────と、ここで式場のメインホールに辿り着き、私達は中を見学させてもらう。
『ここって、確か私が希望した場所だよね?』と思い返していると、義母が口を開く。
「ここはダメね。ウチの仁ちゃんに相応しくないわ。まあ、千紘さんにはこれくらいがちょうどいいのかもしれませんけど」
教会チックな室内を前に、義母は『小さいし、古いし』とグチグチ文句を言う。
当事者である筈の私と仁くんを置き去りにして、『次の場所へ行きましょう』と促してきた。
出しゃばりとしか言えない義母の行いに、プランナーさんは困り顔。
「えっと……新郎様と新婦様は、どうお考えですか?」
念のため当事者である私達の意見を伺うプランナーさんに、仁くんは迷わずこう答える。
「母さんの意見に賛成です。千紘もそうだよな?」
「それは……」
前回と同様口篭り、私はそろそろと視線を逸らした。
「まだ決められない……かな。私的には、凄く素敵な式場だと思うし……」
私はやんわりと義母の意見を否定し、『候補から除外するのはまだ早いんじゃないか』と口にする。
居心地悪く身を竦めていると、仁くんが私の肩をそっと抱き寄せてきた。
かと思えば、私達にしか聞こえないほど小さな声でボソボソ喋る。
「ここは母さんの顔を立ててやってよ。人生でたった一度の息子の晴れ舞台なんだからさ」
こちらに妥協を求める仁くんは、『千紘なら分かってくれるよな?』と説得してきた。
────撮影中であることなど、すっかり忘れて。
はい、証拠ゲット。
この近さなら、さっきの発言も撮れている筈だから安心ね。
『このカメラ、かなり音を拾うから』と思いつつ、私はゆっくりと顔を上げた。
仁くんの言い分に納得したと示すため小さく頷き、口を開く。
「や、やっぱり私もお義母さんの意見に賛成です……ワガママを言って、ごめんなさい」
ペコリと頭を下げ、謝罪する私はプランナーさんから同情の籠った眼差しを向けられた。
『嫁姑問題で苦労しそうね』と言わんばかりの表情に、私は苦笑を零す。
そして、場の空気を変えるように軽く雑談したあと私達は次の式場へ向かった。
無論、撮影は続けたまま。
順調に溜まっていく証拠に内心ほくそ笑んでいると、ようやく全ての式場見学を終える。
前回の行動をなぞっているせいか、式場は全く同じ場所に決まった。
言うまでもなく、選んだのは義母である。
仁くんって、ちょっとマザコン入っているよね。
前回はただの事なかれ主義かと思ったけど……だって────先週の式場選びに続き、今日もまたお義母さんを連れてきたんだから。
『まあ、証拠が溜まるからいいけど』と肩を竦め、私は先週と同じ面子に苦笑を漏らした。
────と、ここでプランナーさんが口を開く。
「今日は事前にお話しした通り、新郎様と新婦様の衣装選びです!予め教えて頂いたお二人の希望を元に、出来るだけ好みに合いそうなものをお持ちしました!どうぞ、ご覧ください!」
元気よく声を張り上げ、プランナーさんは店内の仕切りとなるカーテンをバッと開け放った。
『右側が新郎様、左側が新婦様の衣装です』と説明する彼女を他所に、私はウェディングドレスに釘付けとなる。
前回も見た光景なのに、なんでだろう……?胸がいっぱいになる。
夢と希望がたくさん詰まった純白のドレスを見て、私はそっと眉尻を下げた。
『綺麗だ』と感心すると共に、なんだか切なくて……。
幸せの象徴たるウェディングドレスが、自分にとってはただの呪いでしかないから。
もし、仁くんと別れたあと素敵な殿方に出会えたら……そのときは幸せな気持ちで、ウェディングドレスを着れるだろうか。
などと考えていると────義母がこちらへ顔を向けた。
「あら?まだ試着するドレスすら、決まっていらっしゃらないの?全く……千紘さんはのんびり屋さんですね。時間は有限なんですから、無駄にしないでください。仁ちゃんも私も忙しい合間を縫って、来てあげているんですから」
いつの間にか仁くんを試着に行かせていたらしく、手持ち無沙汰になったようで意気揚々と話しかけてくる。
もちろん、言葉の端々に悪意を滲ませて。
「選べないようでしたら、私が代わりに選んで差上げても構いませんよ。そうですねぇ……千紘さんの容姿ですと、派手なものは似合いませんね」
そこで一度言葉を切ると、義母はわざとらしく目を見開いた。
「あら、困ったわ。ここに似合いそうなドレスは、なさそう。もっと露出が少なくて、地味なドレスはないかしら?」
右頬に手を添え、『まあ、どうしましょう?』と呟く義母はこれ見よがしに溜め息を零す。
一応、今日もカメラを回しているのだが……そんなのお構いなしのようだ。
『ここにあるドレスは私好みのものばかり』と知った上で、これか。
一度体験した出来事とはいえ、外見をいじられるとムカつくわね。
「千紘さんの胸は慎ましやかですから、肩まで……いえ、肘まで覆うタイプのものが好ましいですね。あと、布は厚手のものにして……」
「あ、あの……それだと、暑くて熱中症になってしまうかもしれません……」
式当日は夏真っ只中のため、『もう少し涼しいデザインと布にしてほしい』と苦言を呈する。
まあ、義母のことだからわざと暑苦しいドレスをチョイスしているのだろうが……。
それで式中に倒れたら、『あらあら、千紘さんってば自分の体調管理も出来ないなんて』と嫌味を言うに違いない。
というか、実際に言った。
幸い、お色直し中だったから大した騒ぎにもならず、三十分ほど休んでから式場へ戻れたけど。
でも、あのときは大変だったなぁ……ここで意識を手放したら終わりだと思って、必死に耐えていたもの。
────と前回の結婚式を思い出し、私は内心溜め息を零す。
『あんな思いは二度としたくない』と願う中、義母はスッと目を細めた。
「千紘さんはまだ若いんですから、大丈夫ですよ。暑さなんて、気になりません」
「で、でも……」
「あら、それとも私の選んだドレスじゃ不服なのかしら?」
「い、いえ……!そういう訳では……!」
『とんでもない!』と言わんばかりに首を横に振ると、義母はニヤリと笑う。
「じゃあ、私が決めてもいいですよね」
そう言って半ば強引に話を切り上げた義母は、プランナーさんに向き直った。
「申し訳ありませんが、ここにあるドレスは全て片付けて頂けます?代わりに先程お話ししたようなドレスを持ってきてください」
「それは……えっと……」
困ったように眉尻を下げ、即決を避けるプランナーさんはチラリとこちらに視線を向ける。
反応を窺うような視線に対し、私は力なく笑って見せた。
『義母の要望通りにお願いします』と言う代わりに頷くと、プランナーさんは悲しそうな顔をする。
でも、家庭の事情に踏み込む訳にはいかないため、大人しく従ってくれた。
「畏まりました。では、準備に少々時間が掛かりますので、新郎様の衣装を決めながらお待ちください」
ホテルマンのように綺麗なお辞儀をして、プランナーさんは一旦この場を離れる。
そして、彼女と入れ替わるように衣装を試着した仁くんが現れた。
「あれ?プランナーさんは?」
「千紘さん用に出して頂いたドレスを、別の系統に変えてもらうため少し席を外しているわ」
「ふーん」
自分から聞いたにも拘わらず、興味なさげに相槌を打つ仁くんはタキシードの襟を軽く引っ張る。
「それより、これどうよ?なかなか良くない?」
彼女の衣装より自分の衣装の方が大事なのか、仁くんは『見て見て』と言わんばかりに軽くポーズを決めた。
ドレスの系統を変えたことには、一言も言及なしか。
別に抗議して欲しかった訳じゃないけど、せめて『どんな感じのやつ?』とか聞いて欲しかったな。
こうなることが分かっていたとはいえ、仁くんの無関心な態度に人知れずショックを受ける。
『きっと、私のことなんてどうでもいいんだろうな』と考えていると、義母が仁くんの元へ駆け寄った。
かと思えば、服のシワを伸ばしたり、髪型を整えたりして甲斐甲斐しく世話を焼く。
「うんうん、素敵ね。さすが、私の仁ちゃん。センスがいいわ。千紘さんも見習いなさい。自分に合う系統の服を見つけるのって、凄く大事よ」
「……はい」
ここぞとばかりに沈んだ声色で返事し、私は証拠確保に勤しんだ。
傷ついた心を誤魔化すように、『大漁、大漁』と言い聞かせながら。
撮影中のランプがついた画面をじっと見つめる中、義母がこちらを振り返る。
「千紘さん、仁ちゃんの衣装姿を撮ってくださる?そのカメラは飾り?」
「えっ……?あっ、はい!」
前回にない言動を取られ、一瞬目が点になったものの、私は何とか返事した。
内心困惑しながらも慌ててカメラを構える私に、義母は更なる注文を投げ掛ける。
「もうちょっと下がってちょうだい。私が映らないじゃない」
仁くんとのツーショットをご所望のようで、義母は『しっしっ』と犬を追い払うような動作をした。
かと思えば、仁くんと腕を組み、年甲斐もなくはしゃいでいる。
ある意味、私より新婦らしい行動を取っている義母はカメラに向かって軽くポーズを取った。
『私は一体、何をやらされているんだろう?』と真剣に悩む中、プランナーさんが戻ってくる。
────結局、この日は仁くんのファッションショーで終わり、どちらの衣装も決まらなかった。
そして皆の予定を合わせ、集まること五回……ようやく新郎の衣装が決まる。
これでやっと新婦の衣装決められるかと思いきや、義母の鶴の一声により五分で決定……。
『差があり過ぎるでしょ』と思いつつもそのドレスで納得し、引き続き結婚式の準備を進めた。
無論、義母主導で……。
『これって、誰の結婚式だっけ?』となりながらも、招待状を送付する段階にまで何とか到達。
────と、ここで私は仁くんとの共通の友人達を呼び出した。
相談という名の根回しをするために。
居酒屋に集まった総勢十五名の男女を前に、私はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「────実は結婚を見直すべきか悩んでいるの」
疲れ切った様子で話を切り出し、私は限界寸前の人間を演じる。
出来るだけ可哀想に見えるよう、昨日・今日と食事を抜き、睡眠も取らなかったため友人達は最初から心配ムードだった。
『何があった?』と優しく聞いてくる彼らに、私はビデオカメラの映像を交えながら諸々説明した。
すると、友人達……特に女性陣は大激怒!
「全部お母さん任せって、有り得ないんだけどー!?」
「結婚は家同士でやるものと言えど、ちょっと出しゃばり過ぎだよね!千紘の意見、一個も通ってないじゃん!」
「これお母さんも問題だけど、『我慢しろ』って言う高林もやばくね!?」
「確かに〜!ガキじゃあるまいし、親を諌めるくらいしろっつーの!」
『ないわ〜』の大合唱を披露する女性陣は、口々に仁くんや義母の行いを非難した。
男性陣も、『母親の言いなりって情けないな』と遅れて反応していく。
「話を聞くまではぶっちゃけただのマリッジブルーだと思っていたけど、これは違うわ!高林家がおかしい!」
「結婚したら親とは別世帯で、自分の家庭を築いていくことになるって分かってんのかな?」
「この調子だと、結婚してからも嫁姑問題で苦労しそうだな!」
「頼みの綱である夫は、頼りにならねぇーしな!」
同性だから仁くん寄りの意見になるかと思いきや、男性陣も抵抗感を示した。
仁くんの無関心や義母のいびりが酷すぎて、擁護出来なかったらしい。
ドン引きという表現が似合うほど頬を引き攣らせる彼らの前で、私は悲しげに微笑んだ。
「一緒に怒ってくれて、ありがとう。結婚式をお義母さん任せにするのは、おかしいって言ってくれて……私の気持ちに共感してくれて、少し楽になった」
演技ではない本心を語り、僅かに肩の力を抜いた。
ずっと孤立無援だった分、皆の言葉が余計に嬉しくて……目尻に涙を浮かべる。
『持つべきものは友達だな』と思いつつ、私はゆっくりと顔を上げた。
「それで、ね……私とも仁くんとも付き合いの長い皆から見て、この結婚は続けるべきかな?それとも……」
最後まで言えず言い淀む私に対し、友人の一人である桜田桃子が身を乗り出す。
「それを決めるのは時期尚早じゃない?一回、母親抜きで仁くんと話し合った方がいいよ。それでも、まだ改心しないようなら一旦結婚を保留にするなり、別れるなりすればいいと思う」
ご尤もな意見を口にする彼女はそっとこちらへ手を伸ばし、私の頭を撫でた。
これまでの頑張りを労わるように、優しく。
「私達は千紘がどんな道を選んでも、絶対サポートするから。ただ、後悔だけはしないで」
穏やかな口調でありながら心強い言葉を述べ、桃子は明るく笑った。
すると、それに続くように他の友人達も一度きちんと話し合うことを勧めてくる。
こちらとしては別れる気満々なのだが、私のことを真剣に考えているのだと分かり、心が温かくなった。
「うん、そうだね。一度、話し合ってみる。ありがとう」
ふわりと柔らかい笑みを浮かべる私は、『前回の時点で皆に相談していたら……』と想像する。
でも、過ぎたことをいくら考えても無駄なのでやめた。
『今は目の前のことに集中しよう』と思い、友人達に今夜のことを口止めする。
仁くんと話し合うまでは黙っていてくれ、と。
こちらの動きを気取られて、同居話を保留にされたら困る。
私の目標は完全な被害者という立場を貫きながら、入籍前に別れること。
現状のままだと、『完全な被害者』と言うには弱い。
だから、何としてでも入籍前に同居話を持ち出してもらう必要がある。
概ね前回と同じ展開になっているけど、まだ油断は出来ない……。
最後まで気を抜かないようにしなきゃ。
────と、決意した三日後。
私は近くの喫茶店に仁くんを呼び出した。
友人達に嘘をついたことにならないよう、一応話し合いはしておこうと思って。
まあ、無駄に終わること間違いなしだが……。
「急に呼び出して、ごめんね」
向かい側の席に座る仁くんを見据え、私は小さく頭を下げる。
前回にない行動を取っているせいか、それとも久々に仁くんと二人きりになったせいか……少し態度がぎこちなかった。
でも、仁くんは全く気にならなかったようで平然としている。
「いや、大丈夫。千紘に事前連絡やスケジュール管理なんかの計画性を期待したことは、ないから。それにこっちも大事な話があったし」
『ちょうど良かった』と話す仁くんに対し、私は眉を顰めた。
大事な話……?それって、まさか────
『前回より早いけど、時期から考えてアレしか……』と思案する中、注文の品である期間限定アイスが届く。
私は『わあ、美味しそう』とわざとらしく声を上げ、スマホのカメラアプリを起動した。
そこで数枚写真を撮り、スマホをテーブルの上に置く────さりげなく……いや、うっかりビデオモードにして。
「じゃあ、先に仁くんの話を聞いてもいいかな?」
「ああ。千紘の話より余程大事だし、重要だからよく聞いてくれ」
ナチュラルに見下し発言を挟みつつ、仁くんは少しばかり真剣な表情を浮かべた。
どことなく既視感を覚える態度に『絶対、アレだな』と確信していると、彼が意を決したように口を開く。
「────入籍後、直ぐにウチの実家で同居することになった」
決定事項として同居を伝える仁くんに、私は『やっぱり、この話か』と内心ほくそ笑んだ。
友人達の動きを考えると、同居宣言は早めにしてほしかったから。
一応口止めしているとはいえ、正義感の強い子達ばかりだから裏でこっそり仁くんを絞めかねない。
なので、今回の出来事は私にとって嬉しい誤算だった。
『今日来て良かった』と心底思いながら、私はこれでもかというほど大きく目を見開く。
「えっ?結婚式の準備と並行して選んだ新居は?契約していたよね!?」
「……それは本契約する前に、白紙に戻した」
「えぇ!?何でそんな勝手に……!」
バツの悪そうな顔で俯く仁くんに対し、私は口元に手を当て『有り得ない!』と呟く。
すると、仁くんがムッとしたように顔を顰めた。
「しょうがないだろ。母さんが『二世帯住宅を建てたから、同居しろ』って、うるさいんだから。せっかく建てた家を無駄には、出来ないじゃん」
「でも……!」
「実際問題、同居も悪くないと思うんだよね。ほら、俺達って共働きじゃん?母さんは頼めば家事をやってくれるって言うし、一緒に住んで損はないよ」
いや、そのお義母さんは嫌味三昧で家事を手伝ってくれたことなんて、一回もなかったけど?
ただただストレスを掛けられて……苦痛でしかなかったわ。
────と言いたい衝動をグッと堪え、私は前回の再現に徹した。
「『同居はしない』という話でまとまっていたのに、いきなりこんなの……困るよ!ちゃんと事前に話してくれなきゃ!」
「あーーー!もう!うるさいな!そんなに嫌なら、この結婚自体なしにするか?結婚前から、こんなんじゃやっていけねぇーよ!」
投げやりな言い方で逆上する仁くんは自分のお代だけテーブルに叩きつけ、席を立つ。
周囲の人々が『何事だ?』と注目してくる中、彼はジロリとこちらを睨みつけた。
「とにかく、よく考えろ!」
低い声で威嚇するように捨て台詞を吐き、仁くんは店の出入り口へ足を向ける。
前回はここで彼を引き止め、『私が悪かった!許して欲しい』と懇願するのだが……今回はスルー。
それでも、まだ相手にこちらの動きや狙いを気取られる訳にはいかないため、泣くフリをした。
仁くんの発言に傷つき、返事する余裕もないと見られるよう。
まあ、実際はただハンカチで目元を押さえているだけだが……。
涙なんて、どう頑張っても出てこない。
────だって、やっと婚約破棄するための材料を揃えられたのだから。
喜びこそすれ、悲しむなんて有り得ない。
『ようやく、ここまで来れた』としみじみ思いながら、私はスマホの撮影終了ボタンを押す。
念のため撮影データを自分のパソコン宛に送り、証拠保全に努めた。
『目標達成まであともう一踏ん張り』と自分に言い聞かせる私は、スマホで友人達と連絡を取る。
そこで今日の出来事を話し、アドバイスが無駄になってしまったことを詫びた。
併せて自分の気持ちも語り、破談の決心がついたことを報告。
友人達の反応は『同居を強要とか、マジで無理。別れて当然』といった感じ。
少なくとも、破談を思い留まるよう説得してきた者は居なかった。
さすがに庇いきれないと判断したらしい。
満場一致で『破談やむなし』と言ってくれたことに感謝しつつ、私はスマホを操作した。
さて、そろそろ最終段階に移りましょうか。
────という訳で、私は予め目星をつけていた弁護士さんに依頼し、高林家と話し合いの場を持った。
弁護士事務所で仁くんや義母と顔を合わせ、『今日で全部終わらせる』と決意する。
闘志に燃える私を他所に、弁護士さんが席を立った。
「本日はお集まりいただき、ありがとうございます。わたくし、弁護士の安西広斗と申します。この度は戸田千紘様より、高林仁様との婚約を破棄したいとのご依頼を受け、話し合いに同席しております。よろしくお願いいたします」
仁くんと義母にそれぞれ名刺を差し出し、弁護士さんはペコリと頭を下げる。
そんな彼を前に、仁くんと義母はポカンと口を開けて固まった。
ただ『大事な話がある』と言われ、呼び出されただけなので婚約破棄なんて寝耳に水だったのだろう。
仁くんに関しては、私が泣きついてくるのを期待していたに違いない。
『同居話は受け入れるから、別れないで』ってね。
「な、なあ……千紘、婚約破棄なんて冗談だよな?」
ようやく思考と身体を動かし始めた仁くんは、縋るような目でこちらを見つめる。
ダラダラと冷や汗を垂れ流し、小刻みに震える彼を前にしても、私の心は微塵も動かされなかった。
同情心すら湧いてこない自分に苦笑いしつつ、冷たく彼を突き放す。
「いや、本気だけど?」
「な、何で……!?」
「それについては、私からご説明致します」
当事者同士で話し合ってこれ以上ヒートアップしないよう、弁護士さんが間に入る。
第三者の介入にハッとする仁くんは、慌てたように居住まいを正した。
世間体命の人なので、全くの赤の他人……それも、有資格者に恥を晒したくはないのだろう。
まあ、既に手遅れなのだが……だって、仁くんと義母の蛮行は弁護士さんに伝えてあるから。
『今更取り繕ったってね……』と呆れる中、弁護士さんはカチャリと眼鏡を押し上げる。
「婚約破棄の理由は大きく分けて、二つありまして────まず、一つ目が高林仁様に『二人で家庭を築いていこう』という気概が見受けられなかったことです」
まず手始めに軽いジャブを打つ弁護士さんに対し、仁くんは思い切り顔を顰めた。
「なっ……!?そんなの言い掛かりだ!俺は確かに千紘と家庭を築いていく覚悟があった!」
「それは────戸田様と二人で、ですか?それとも戸田様も含めた高林家の皆さんで、ですか?」
「そ、それは……!」
言葉に詰まる仁くんに、弁護士さんはニコリと笑って見せる。
でも、その目は全くと言っていいほど笑ってなかった。
「戸田様は貴方と二人で、家庭を築いていくことを望まれていました。ですが、結婚式の準備はほぼ高林由梨様の采配で進められ、戸田様の希望は一つも通りませんでした。その間、貴方は母親を諌める訳でも戸田様を気に掛ける訳でもなく、放置……いえ、知らんふりしてきただけ」
弁護士さんは手元にあるパソコンを操作し、結婚式の準備中に撮った映像を再生する。
『母さんの顔を立ててやってよ』と我慢を強要する仁くんの音声が流れたところで、弁護士さんは顔を上げた。
「これで『千紘と家庭を築いていく覚悟があった』と言われても、説得力がありません」
仁くんの発言を真っ向から否定し、弁護士さんは映像の再生を一旦止める。
明確な根拠と証拠を提示する彼に対し、仁くんと義母は押し黙った。
かと思えば、弁護士さんから視線を逸らし、こちらに向き直る。
「け、結婚式のことは悪かったよ!そんなに嫌がっているとは、思わなかったんだ!」
「わ、私もごめんなさい……!千紘さんは何も知らないから、良かれと思って……!」
口先ばかりの謝罪をする仁くんと義母は、『どうか、許してほしい』と懇願してきた。
どうやら、弁護士さんを説得するより私を懐柔した方が早いと判断したようだ。
『貴方達の中の私は、まだ臆病で弱虫なのね』と肩を竦めつつ、表情を引き締める。
「残念ですが────お二人の謝罪を受け入れるつもりも、許すつもりもありません。諦めてください」
『舐められっぱなしではいられない』と、私は拒絶の意志をハッキリ表した。
今まで従順だった私の反抗に、仁くんと義母は一瞬面食らうものの……直ぐに怒り出す。
『下手に出たら、調子に乗りやがって!』と言わんばかりに目を吊り上げ、こちらを睨みつけた。
「言っておくけど、この程度じゃ婚約破棄の理由にはならないからな!」
「もし、どうしても婚約破棄したいなら慰謝料を払ってください!これは立派な婚約不履行です!」
案の定文句を言い始めた二人に対し、弁護士さんは全く動じない。
さすがはプロとでも言うべきか、こういった状況に慣れているようだ。
「お二人とも、お静かに。まだ話の途中です」
弁護士さんは非常に静かな……でも、どこか威厳のある声色でギャーギャー騒ぐ二人を一喝する。
その途端、仁くんと義母はビクッと肩を震わせ、縮こまった。
イタズラがバレた子供のように下を向く二人の前で、弁護士さんはコホンッと一回咳払いする。
そして、この場の空気を厳粛なものに変えると、真っ直ぐに前を見据えた。
「それでは、戸田様が婚約破棄を決心した二つ目の理由についてお話します。それは────夫婦としてやっていく上で、一番大事な信用を失ったことです」
真剣な声色で言葉を紡ぎ、弁護士さんは仁くんに向き直る。
と同時に、少しばかり表情を和らげた。
「高林仁様は婚約中に二人で決めたことを破り、同居を強行しようとしましたね?」
「えっと……まあ、しましたけど……」
「騙し討ち同然の同居を言い渡されて、相手を信用出来ますか?」
「っ……!」
優しく諭すような口調で問い掛ける弁護士さんを前に、仁くんはグニャリと顔を歪める。
千紘の立場になって考えてみると、自分の行いがあまりにも酷すぎて何も言えないのだろう。
嘘でも、『信用出来ます!』と言えない程度には。
そんな彼を見て、弁護士さんはここぞとばかりに畳み掛ける。
「これは婚約破棄するに足る理由です。会社で言う契約違反と同じですからね」
「で、でも!俺達は愛し合っていて……!」
「差し出がましいようですが、愛だけで夫婦生活はやっていけませんよ。少なくとも、依頼人である戸田様はそう考えて婚約破棄を決心したのです」
正論を並べる弁護士に対し、仁くんは口を噤んだ。
婚約破棄の回避方法でも探しているのか、彼は忙しなく視線を動かす。
『おっ?そろそろ白旗を上げる頃か?』かと思いきや、彼はいきなり立ち上がり、私の斜め前にやってきた。
一瞬、『殴られるかもしれない!』と身構えたものの、杞憂に終わる。
「────千紘、今まで本当にごめん!この通りだ!許してくれ!」
そう言って、仁くんは床に手をついて頭を下げた。
所謂、土下座である。
今までこんなに一生懸命謝られたことのない私は、最初動揺したが────婚約破棄の意思に変化はなかった。
『あのプライドの高い仁くんが!?』と、ただ驚いただけ。
土下座一つで許せるほど、私達の溝は浅くなかった。
冷めた目で様子を見守る私に、仁くんは何かを感じ取ったのか慌てて後ろを振り返る。
「母さんも千紘に謝れ!」
「えっ!?何で私がこんな小娘に……!」
「いいから!俺が婚約破棄されてもいいのか!?元はと言えば、母さんのせいだろ!」
「っ……!わ、分かったわよ!」
投げやりな態度で首を縦に振り、義母は仕方なさそうにソファから降りた。
そして、仁くんの隣に並ぶと、渋々頭を下げる。
「千紘さん、今まで本当にごめんなさい。これからはいい姑になるから、仁ちゃんと結婚してください。お願いします」
義母は不貞腐れた子供のような声色で、形ばかりの謝罪をした。
『どう?これで満足?』と言わんばかりの彼女の態度に、私も弁護士さんも呆れてしまう。
『何故、それで許して貰えると思ったのか?』と。
「申し訳ありませんが、お二人になんと言われようと婚約破棄を撤回するつもりはありません」
『無駄な足掻きだ』と一蹴する私に、仁くんと義母はこれでもかというほど大きく目を見開いた。
「なっ……!?何でだよ!?」
「私達、ちゃんと謝ったじゃない!」
「これは謝罪で済む問題じゃないと言っているのです。とにかく、仁くんと結婚はしませんから」
完全拒否の姿勢を貫く私に対し、仁くんと義母は顔を真っ赤にして怒り始める。
「そ、そんなの絶対に許さないぞ!俺は別れないからな!」
「そうよ!結婚式の準備も大分進めちゃったし、今更破談になんて出来ないわ!」
自分の主義主張を押し付けるばかりで反省の色が見えない二人は、性懲りもなく騒ぎ立てる。
駄々っ子のように『嫌だ嫌だ』と繰り返し、食い下がる二人を前に、弁護士さんがサラリと一言
「────なら、裁判するしかありませんね」
と、述べた。それも、かなり涼しい顔で。
『示談交渉より長引きますが、仕方ありません』と零す弁護士さんは、チラリとこちらを見る。
「こちらは証拠もバッチリですし、負けることはまずないので気楽に構えてください」
「は、はい」
私を安心させるためか、それともあちらを牽制するためか……弁護士さんは『絶対に勝てますよ』と言ってのけた。
ポカンと固まっている仁くんや義母のことなど、知らずに。
自信に満ち溢れた笑みを零しながら、弁護士さんはさっさとパソコンを閉じる。
「では、今日のところはもう解散に……」
「────婚約破棄に応じます!なので、裁判は勘弁してください!」
今まさに席を立とうとした弁護士さんに縋り付き、仁くんは早くも白旗を上げた。
世間体命な人のため、裁判記録など残したくなかったのだろう。
民事とはいえ、誰かに知られれば自分の今後に差し障るから。
こちらとしても、長期戦は避けたかったので助かった。
『やっぱり、裁判も辞さない態度は効いたみたいね』と思いつつ、私はギュッと胸元を握り締める。
嗚呼、やっと────この悪夢に終止符を打てるのね。
勝利を確信して少し泣きそうになる中、弁護士さんは席に戻った高林親子と交渉を進めていく。
先程と打って変わって大人しい仁くんと義母は、こちらの要求を素直に呑み、示談成立。
結局、双方慰謝料なしの結婚式代のみ仁くん負担で決着した。
────それから、約半年。
私は共通の友人達の計らいもあり、仁くんと顔を合わせていない。
あちらはどうにか会おうと必死のようだが、着信拒否の上引っ越しもしたため、接触出来ないようだ。
頼みの綱である共通の友人達は、完全にこちらの味方だしね。
奇跡でも起こらない限り、再び相見えることはないだろう。
まあ、仮に会えたとしても全力でスルーするけど。
これ以上、仁くん達に振り回されるのは御免だもん。
高林家から解放され、清々しい気分の私は『しばらく独身を楽しもう』と考える。
あんな泥沼の争いを体験すると、直ぐに次の恋愛へ行くことは出来なかった。
とはいえ、結婚はいつかしたいと考えているので良縁に恵まれれば積極的に動いていきたい。
『もうヘタレな自分とはさよなら』と思いつつ、スマホ画面をじっと見つめる。
それにしても────あのメールは結局、何だったんだろう?
空っぽのメールボックスを前に、私は内心首を傾げる。
何故なら────前回、メールを受け取った日時から既に数日経過しているのに、何も届かないから。
まるで、最初から存在してなかったみたいに。
今までのことは全部、幻覚だったのかしら?
でも、それにしてはおかしな点がありすぎる……。
となると、残る可能性は────過去を変えた影響で例のメールが届かない世界線へ行ってしまった、くらい?
消去法で導き出した結論に、私は『はぁ……』と一つ息を吐く。
「せめて、お礼を言いたかったのだけど……」
相手の思惑がなんであれ、やり直す機会をくれたことに変わりはない。
それも、無料で……。
あまりにも寛大で破格の措置に申し訳なさすら感じる中、私はスマホの画面を暗くした。
と同時に、部屋の窓から青空を見上げる。
『例のメールの送り主も、この広い空の下に居るのだろうか』と思案しつつ、私はそっと手を組んだ。
「どなたか存じ上げませんし、きっとこの言葉も届いていないでしょうが────私に人生をやり直すチャンスをくださって、ありがとうございました。おかげで今、私は幸せです」
ふわりと柔らかい笑みを零す私は、感謝という名の祈りを捧げる。
例のメールの送り主にも、幸せが訪れることを願いながら。