あなた、だれ?
あれは、もう、十年ほど前の事でしょうか。
あの日も、ちょうど今日のような雲一つない、抜けるような夏の青空が広がっていました。
夏休みが始まって十日ほど過ぎたある日の午後。
非常階段の踊り場に集まったのはいつもの五人。
幼稚園から一緒の男子三人に女子二人の五人組。学年は、よしくんの弟が一人だけ二学年下の小学四年生で残り四人は、みんな同じ六年生でした。
そして、そんな六人が、その日も何をするでもなく、いつもの五階と六階の間の踊り場にたむろして、非常階段を覆う格子状の柵越しに見える西棟と東棟の間の空を、マジックインキで「すっ」とまっすぐに引いたような夏の青空を見上げては、退屈だねぇ、と五分おきに呟いていたのでした。
が、そんな時でした。
男の子の一人、ヤンチャなトモノリが、ポンッ、と手を打って「かくれんぼ、しね?」と突然言い出したのです。
「かくれんぼ?」
澄香ちゃんが、階下から吹き上げて来る風にふんわりと舞うスカートの裾を手で押さえながらお下げの頭を傾げると皆もうんうんと頷きました。
それは、そうでしょう。
六年生にもなって(よしくんの弟のトモくんは別として)、という話です。
ですが、トモノリの話によると、何でもネットで、所謂、ユーチューバーの人たちが真剣にかくれんぼをしている動画を数日前に見てそれがえらく面白かったのだそうです。
どうする?
皆、何とも言えず顔を見合わせたのですが、かと言って他にすることもありません。それに、このまま、ぼんやりと夜までの残りの時間を過ごすのも勿体ないですし、悲しい事に「じゃあ、夏休みの宿題しようぜ!」と言い出す子も皆無でした。
と言う訳で、みんなで話し合った結果「隠れていいのは、この団地の敷地内だけ」「でも、A棟、B棟、C棟のどこへ隠れてもOK」「各棟の間にある駐車場や公園に隠れるのもアリ」「ただし、一度隠れたら移動は禁止」というルールでやることになりました。
そして、
『わたしがオニやるよ』
という事で、かくれんぼは始まったのでした。
三々五々に敷地の中へと散って行くみんなの背中を見つめながら待つ事暫し。
三分ほど経ったでしょうか。
さて……。
夏の日差しが所々にじんわりと濃い影を落とす昼下がりの古い団地。
この当時で、すでに築三十年。
A棟、B棟、C棟は、それぞれ十階建てで、非常階段が併設されたエレベーターホールを間に挟んで東と西へ長い廊下が伸びており、団地とは銘打っていますが、建物の外観はいわゆるマンションでした。
長い、長い打ちっぱなしのコンクリートの廊下。
A棟とB棟の一階中央部分にぽっかりと虚ろな口を開けるピロティ。
そして、各棟の間に設けられた緑もまばらな公園と数台の車が所在無げに佇む駐車場。
誰もいないマンション団地。
動くものも無く、ただ、ただ、静まり返っているだけの夏の午後。
まるで時が止まったかのように静かでした。
ピロティを吹き抜ける風の音が「ひゅぅ……」と音を立て、誰もいないエレベーターホールに
「ポンッ」
と突然、エレベーターが止まって口を開けたかと思うと無言のまま
「すぅ……」
と再び、口を閉じてどこかに行ってしまいます。
そして、東西へ合わせ鏡の中の景色のように薄暗い廊下の遥か先まで無言のまま、じっ、とこちらを見つめて居並ぶ鋼鉄製のドアの列。
両の肩に覆い被さって来るようなその無言の眼差しとどこか妙に寒々しいその雰囲気。
…………。
なんなのでしょう、この感覚は。
誰もいない筈なのに、
まるで誰かいるかのように、
薄暗いマンションの隅からどこからともなく感じる視線。
そう、
誰もいない筈なのに、
まるで誰かいるかのように、
どこからともなく感じる気配。
何かがドアの内側にいるかのような、暗くひっそりと締め切られた曇りガラスの内側からこちらを見ているような、そんな微かな不気味さが、そう、無機質なマンションの隅に、陰に、内側に、そう目に見えない内部に棲む何かが「じーっ」とこちらを見つめているのでした。
そして、そんなひんやりと薄ら寒い廊下をゆらゆらと移動しつつ、そっと手すり越しに階下を覗き込めば、やはり動く物の影一つ無く、じっと見上げて来る自転車置き場の錆びて歪んだトタン屋根が。
…………。
東から西へ。
薄暗い廊下を一巡してからエレベーターホールを通り抜け下へ。
下へ。
下へ……。
四階……三階……二階……。
そして、一階。
エレベーターホールを出てその向かい側、集合郵便受けのあるスペースへ。
頭上の蛍光灯の光が昼間でも青白く照らすその狭い部屋の中、冷たいアルミ色に輝いた大きな郵便受けの影に水色のTシャツの背中が――
トントン……
「あーっ、もう見つかっちゃったか……」
一人目は、トモノリ。
さて、次は――
A棟からB棟へ。
集合郵便受けのあるスペースから踵を返すとその脇の玄関を抜けて、ピロティへ。じっとりと絡みついてくるような蛍光灯のぼんやりとした灯りに照らされたトンネルの先に見えるどこか白々しいほどに眩しい夏の景色。
ピロティを抜けるとその少し先に聳え立つような黒い影を湛えたB棟が見え、ピロティから見て左側に駐車場、右側に公園があります。
…………。
では、公園へ。
緑もまばらな植え込みと寒々しく枝を伸ばした数本の常緑樹。
そして、そんな公園の中ほどにポツンと佇むコンクリート製の大きなゾウの滑り台。所々色の禿げた水色のゾウが悲し気に瞬くその滑り台の中央部分に、そう、ちょうど、ゾウのお腹の辺りにある狭い通路。
暗くて狭いそのトンネルの中に、じんわりと浮かび上がるピンク色のTシャツの背中――
トントン……
「――っ!!! ウソ……早くない?」
二人目は、澄香ちゃん。
さて、次は――
B棟へ。
中へ入ると空々しいほどに明るい夏の日差しの中、マンションの中は相変わらず鏡のように静まり返っていました。
しーん、と痛いほどの沈黙を湛えたコンクリートの冷たい壁面と頭上をうねるように走る錆びたパイプの天井。柱の内側や薄暗い廊下の隅にじっとりと絡みつくように息を潜めている夏の湿気と背後からひたひたと迫って来るそのような不穏な気配。
遥か奥へと伸びる長い廊下に並んだ、せせら笑うように波打つ磨りガラスの暗い窓の列が、重苦しい鋼鉄製の扉の列が、じーっ、とこちらを見つめていました。
ぞくりとするような、その奇妙な不安感。
そして、ひしひしと感じる何度も同じことを繰り返しているかのようなこの既視感。
なんなのでしょう、この感覚は……。
廊下をぐるりと見回してから、エレベーターホールを通り抜け外へ。
外へ。
外へ……。
と――
しーん、と周囲から響いて来るような静寂の中。
ぐるりと視線を巡らせて、もう一度マンションの中へ。
エレベーターホールとその向かい側の集合郵便受け。
ひっそりとしたその場所でいま一度、再び、ゆっくり……と視界を巡らせて今度はエレベーター脇の非常階段へ。
非常階段へと続く錆びた防火扉。
それが、
「ギィィィ……」
ゆっくりと外向きに開いて、東棟と西棟の建物の間、昼でもじっとりと暗いその場所に出ると生温かい風が、ふぅ……と吹きつけて来ます。
と、一階と二階の間の踊り場の隅にこちらへ背中を向けてうずくまる男の子が――
トントン……
「――わぁ!! びっくりしたぁ!」
三人目は、よしくん。
そして、次は――。
非常階段を通り抜け、C棟へ。
蛍光灯が、パッ……パッ……プツン…………と消えたり点いたりしている暗いピロティを通り抜けて、駐車場と公園のあるスペースへ。
駐車場は、A棟とB棟の間のそれよりさらに車が少なく、隅に停められている一台に至っては、少し錆びてさえいました。
動く物の無い、誰もいない駐車場……。
駐車場からぐるりと視界を返して向かい側の公園へ。
こちらの公園は、さっきの公園にゾウの滑り台があるのに対して、ロボットの形を模した木製の塔とそのお腹の辺りから伸びる滑り台がありました。
無人の公園に無言で立ち尽くすロボット。
今はもう何も見ていないかのような赤錆びた空虚なその丸い瞳。
ロボットの中に入ると周囲から微かに日の光が漏れるその薄暗い体の中に一人、こちらへ背中を向けてうずくまっていました。
トントン……
「…………っ!!!!」
四人目は、トモくん。
…………。
で……。
さて、C棟の中へ――。
いいえ、C棟の裏側へ。
薄暗い廊下を横切り、防火扉と非常階段をすり抜け、枯れた芝に覆われた裏庭へ。
隅の方に置き忘れられたかのように佇む植え込みと朽ち果てた木々。
錆びて傾いた物置を横目にひと際大きな木の枝の下へ。
幹の黒い影の中にちょこんと丸まった白いワンピースの背中――
トントン……
「……ひゃんっ!!!」
最後は、綾乃ちゃん。
***************
「じゃあ、俺が一番最初に見つかっちゃったのか……」
トモノリが汗をTシャツで拭いながら、さも残念そうに首を振ると皆が笑いました。
「ていうか、いきなり『トントン……』って、アタシ飛び上がっちゃった」
「そう、それな!」
「うん、ボクもっ」
「そうなんだよなー、いきなりでさ。それまで全然音とかしなかったからさ、マジすげよーな」
「うん。私も、もう、ビックリしちゃって……」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
「…………」
………………。
「え?」
「え……?」
「ええと……?」
「……?」
「ウソだよ……ね?」
トモノリが、額に薄っすらと汗を滲ませながら、
澄香ちゃんが、自身の体を抱くようにして両の二の腕を強く擦りながら、
よしくんが怯えたように引き攣った笑みを浮かべながら、
トモくんが、よしくんのTシャツの裾をしっかりとつかみながら、
綾乃ちゃんが両の瞳にじんわりと涙を浮かべて微かに震えながら、
互いの顔を見つめておずおずと囁いたのでした。
……オニって誰だったの?
「いや、てか『わたしがオニやるよ』って……綾乃だろ? なあ?」
「うううん、私じゃないよ。だって、私、トモノリの後から二番目でここ出て行ったし……」
「じゃあ、澄香か?」
「うううん、アタシもゾウさん公園で見つかったもん。トントンッて……」
「…………ウソだろ……なぁ?」
と、その時でした。
「に、に、に、兄ちゃん……あっ、あっ、あっ、あれ――あれっ!」
トモくんがこちらを指差しながら、よしくんに縋り付きました。
大きく見開いた目。
真っ青な顔。
只ならぬトモくんの様子に怯え切ったみんなが、彼の指差す先へとゆっくりと視線を向けると――
――わあぁぁっ!!!!!
悲鳴を上げて、ペタン、とその場に座り込みました。
非常階段を覆う柵越しにこちらを見つめて凍り付く五人。
恐怖に大きく見開いた瞳と震える唇。
澄香ちゃんが、絞り出すようにして言いました。
あなた、だれ?
と。
………………。
……………………。
…………………………。
…………。
フフフ……。
フフフフ……。
フフフフフフフフ……。