5話
関平は夕焼けに染められた家の外の庭からそれを眺めていた。関平にとってそれは興味を引かれる対象だった、同時に何か得体の知れない恐怖を与えてくるものでもあった。
「関ちゃん、買い物行くよ」
「お母さん、空にかがみがあるよ!」
「鏡?」
「何なんだよ、急に窓開けさせて。洗濯物ならさっき取り込んだろ?」
窓のある壁に腰かけて本を読んでいた天城は涼香にいきなり曲げていた膝を踏まれていた。涼香は窓から身を乗り出し、ただ空を眺めていた。
「大層なものを出すもんだ。一体どういう仕組みなんだか」
「一体何が空にあるんだよ。UFOか?」
「蜃気楼だよ」
「え?」
ある都内の交差点付近。人々は上空を眺め、歩みを止めていた。
「これはまた絶景かな、絶景かな。それにしても蜃気楼とはまた。目にしてみると不気味さを隠せないが、同時に私はこれに愉悦を求め震えるか。会うのが楽しみだ」
少女は紙の新幹線の時刻表を手に持ち、目的地を目指し歩み始めた。
8月12日。日が明けても、蜃気楼は消えなかった。日本の限定された箇所に突如として出現した蜃気楼。朝のニュースのトピックはそれで埋め尽くされていた。ネット上では様々な憶測が飛び交い、過去の予言、世界の終わり、大災害の予兆とか色々言われていたが結局のところは原因不明の怪奇現象として専門家たちにただ宿題が与えられただけとしか、俺たちには思えなかった。日常に与えられた変化は特になく、ただ不気味なものが空に浮かんでいるだけ。一体これが何を意味するのか俺には分からなかった。そうして世界はゆっくりと変貌を遂げようとする予兆を俺は見逃していた。
「都内での行方不明者が10人を超え…」
午後1時10分。俺は夏華に宿泊している旅館に呼ばれ、なぜか混浴に浸かっていた。
「な、なんで混浴なんだよ」
俺は目のやり場に困り、空に浮かぶ蜃気楼から目を離すことができずにいた。
「このご時世に混浴ってまだあるんだな。」
蓮も俺と同じ方向に目を向け、ぼーっとしていた。
「情けないな。せっかくの混浴なんだから楽しめばいいのに。」
夏華は湯舟に浸かり、こちらをまじまじと見てくる。
「呼びつけた理由は?あの蜃気楼の事か?」
「あんなのどうでもいい。それよりも重要なのは神隠し伝説の方だよ。」
「そういえばこの村の神隠し伝説って結局どういう伝説なんだよ。俺は全く知らないぞ」
「夏華、青に何も説明してないのか?」
「私、なんの説明もしてなかったっけ?」
「全く知らん」
「知らないみたい」
「お前ら2人は知ってるみたいだな。どういう内容なんだよ、教えてくれ」
「分かった。分かった。のぼせない程度に説明してあげる。まずこの村の神隠し伝説は普通の神隠し伝説とは違う。普通は自然に取り込まれて人が消えたり、突然人が消えたりすることが一般的な神隠し。でもこの村の伝説はその逆。」
「逆?」
「ここのは、文字通りの伝説なんだ」
蓮は古い一冊の本をカバンから引っ張りだし、開いて見せてくれた。光っているように表現された球体が人に囲まれ、離れた場所に森が描かれていた絵がそこには書かれていた。
「この村の伝説は神様とか自然が人を攫うんじゃない。人が自然から神を、神から自然を攫うっていう伝説なの。だから神隠し。」
「そんなの聞いたこと無いな。第一そんなの本当にできるのか?」
「わかんない。だからその真相を暴いてやろうと思って研究するの」
俺には何十年、何百年経ったかもわからない伝説の真実が17、18になろうとする小僧、小娘の手にかかって暴けるのなら、とっくの昔に結論は出ているように思えた。そう思いながらも興味は湧いていた。こういう体験は誰かに誘われないと俺は動かない性分だ。誘ってくれたからには涼香と夏華の期待にこたえなくてはなるまい。俺は連に本を渡してもらい、ざっと読んだ。
「神隠しの目的って何なんだろうな?」
「目的?…そういう言われてみれば確かにそうだな。遊び相手でも欲しかったんじゃねーか?」
「真面目な話をすると豊作祈願あたりが無難なところだと思うな。その為に神様を見繕って祈ったり、祭ったり、清めたりしたと思う。」
「確かにそれは有力な説らしいよ。旅館の従業員に聞いたらそんなこと言ってた。あたかも大げさに表現することで印象的な出来事として記憶に残り語り継がれる。一番現実的で信頼性も高いから他の資料もほとんどこの説でまとめられてる。」
「ほとんどって事はそれ以外にも一応他にもあるんだな?」
「信憑性、信頼性が共に絶望的な子どもが考えたようなのもあったらしい」
「あった?どういうことだよ」
「いいか?信頼性、信頼性が低いってことは形も言葉も残りにくいんだよ。」
「だから資料も少ないし、そういう言い伝え自体が今の時代まで続かずに廃れてしまってる。ある意味そういう資料は貴重になって希少価値があるってされてるみたいだけど今どこにあるのか、それこそ形を残しているのかしら分からなかった。そんなときに舞い込んできた話があの民家で見つけた資料。」
「あの紙きれが!?でもあれは子どもの落書きだったじゃないか」
「今のところはな。でもあの紙以外にも何か残っているのかもしれないし、何も残ってないかもしれない。」
「あるかもわからない宝探しを始める気か?」
「当然でしょ。形の定まったものを掘り下げるのもいいけど、形が定まっていないものを見つける方が魅力的でしょ?」
俺たちの方針は決まった。
「それで目星はついてるのか?」
「一応ね。今あるとされている資料が眠っているのはここ」
地図を広げられ、場所はここから歩いて30分ほどの民家だった。
「また民家か…。まさかここ」
「誰も住んでないよ」
夏華は笑って、この後掃除兼資料探しの許可を得ている事実を俺たちに告白した。
知らぬ間に蓮を巻き込み俺たちはその後、すぐに昨日と同じように古びた民家へと向かい、掃除を開始した。今回の民家は駄菓子屋と八百屋に挟まれたところに位置しており、休息する際はそこから何かを購入するという条件まで組み込まれていた。
「見つかったか?」
「これだけ多いと見つけるのは難しいな」
民家は前回と同様に老朽化が進んでおり、床の木は痛み切っており、踏み場を間違えると床に穴を開けそうだった。1階には広間に台所、ふろ場に書庫。2階は寝室として使われていたかは分からなかったが登る階段も痛み切っていた。
「青、なんか冷たいジュースでも買ってきて。」
2階から夏華の声が響いた。
「蓮の希望は?」
「俺も適当な飲み物で」
俺にとって、そういう答えがなんだかんだ一番困る解答だった。手を顎に当て考えながら駄菓子屋へ向かった。掃除の物音は予想以上に外へ響いていた。何をしでかしたのか天へ届きそうな夏華の叫び、一階から連が物を運び際に鳴らす地鳴り。
「おばちゃん、ラムネ3つ」
俺は駄菓子屋でレジに座っている年配の店主の方へ、ズボンから財布を取り出して向かった。
店主は俺の肩を見つめていた。俺は肩に埃が乗っているのに気づき右手で掃った。
「随分と大掃除になっとるね。古い伝承を追いかけてやるなんて面白い子らだ。」
「一体どんなものが出てくるのか楽しみですよ」
「それじゃあこの老婆が知ってる事を教えてあげようかね。この村にあんちゃんたちが追いかけとるのは神隠しの伝承であっとるか?」
「はい、そうですよ」
「この村のは他の神隠しとは一味違ってな。」
そこからの話は知っている話だった。だが違う部分もあった。
「この村は昔神様と契りを交わしてな。村の住人は神に、神は人に奉公するという変わった関係を築いた。人は神を友愛し、敬愛し、寵愛し、その存在を語り継ぎ忘れんとした。神は返しとして人の願いを叶えた。」
「いい神様ですね。」
「それがいつまでも続けばよかった。じゃが人間同士が喧嘩するように、神ともそれは例外ではなかった。神が願いを叶えるのには森にあるとされていた力が必要だったんじゃ。」
俺はいよいよどこかで聞いたことがあるようなおとぎ話になってきたなと感じていた。
俺にはそういうものはどうしても信じられないし、古くからの願いや希望を語り継ぐ気持ちが分からなかった。
過去の願いや希望はその時だけのものであって、次の世代からすればそれはただの押し付けだ。
俺からすればただの迷惑でしかないし、何が気に入らないのかといえばそこに押し付けられる、託される側の意志が一切介在しない。
そんなもの簡単に受け入れられる訳がない。
「神様はその力を守護する守り神でもあった。そこで村に降り願いを叶える神の代わりに力を守護する者が村人の中から選ばれていたんじゃ。神との喧嘩の原因はそこにあった。」
「決別ですか」
「最終的にはな。人は神を罠にはめ、この村に閉じ込めた。森は神を救い出そうとしたが村人が放った火によって森の力は弱まり、村人の勝利に終わった。」
「それで神隠しか。神様はどうなったんですか?」
「ん?さてな、亭主が生きとれば聞けたかもしれんが何年も昔に逝ったからな。じゃが神様はまだこの村におると思うよ。」
「なんでいると思うんです?」
「ははは、なんでかね。ただそんな気がするんよ。」
店主の話が終わった頃には俺はラムネを飲み切り、残った2人分のラムネは常温になってしまっていた。それに気づいた店主は家にある冷蔵庫から冷えたものを持ってくるから待ってろと言って家の中へ消えていった。
店主である老婆は台所へ向かい、冷蔵庫から2本ラムネを取り出していた。ゆっくりと立ち上がり、吉峰青葉の顔を思いながら亡くなった亭主の写真の方を振り返った。
「まさかあの神隠しを追う子がまだいるなんてねぇ。空に出てきたあの蜃気楼と神隠し。あなたが昔言っていた通りになりましたよ。今回が恐らく最後。老人は出しゃばらず、謎解きはあの子たちに任せますよ。世界に何も残さず。誰の記憶にも残らない。悲しく、儚い、だからこそ、せめてひと時の美しい夢でありますように。そうでしょう?美代ちゃん」
風鈴がなる。店主のひと時の旅立ちを見送るような涼しく、愛おしい音色だった。家に自然の息吹が通り抜ける。風に誘われ、店主の願いを運ぶ。
「おばあちゃん、遅いな…」