2話
午後8時30分。俺の今日の夢は夏華と夏祭りを2人っきりで楽しむことになっていた。
夢の舞台まであと…。
「何段あるんだよこの階段…」
祭りの舞台である神社まで、あと100段はあるのではないかと思った。正確にはそんなにないと思うが一段一段が高く、強く、重く感じられ、実際その通りだった。一段30センチの高さはあり、登る際に足腰の強さが求められ、気づけば足が重かった。可愛い、可愛い俺の従弟は俺に愛想を尽かしこの階段を駆け上がっていった。
「あの野郎、この階段一緒に登ろうとか言いやがった癖に…」
神社に上るための階段は2つあった。1つは今登っているこの階段。もう一つは傾斜で段差が低く登りやすい階段だ。
「あと…何段だ…?」
意識が遠のきそうだった。全身から汗が溢れ、自慢の一帳羅が台無しだ。
俺は昼に子どもと遊んだだけでここまで体が疲労しているのかと思った。だがよく考えるとそのあと買い物で2時間以上歩きまわり、上手い飯を食えば身体が休息を求めるのは道理だった。
「青!」
後ろから名前を呼ばれた気がした。後ろを振り返ると俺の視界は暗闇に閉ざされ顔から冷たいものが自慢の一帳羅を染め上げた。顔に張り付いたものを手に取って見ると、水に浸し絞ってもらえなかったタオルだった。
「よぉ、夏華」
俺は右手に握られていたタオルを後ろにいる夏華の顔に投げた。当たった。ストライクだった。
「やってくれんじゃん」
髪から下った水で視界がお互いぼやけていたが、互いの表情は容易に読み取れた。
足並みを揃え俺たちは階段を登り始めていた。
「お前なんでこっち登ってんだよ」
「青のお母さんに教えてもらったから」
合点がいった。母は簡単に追いつけると告げ口したのだろう。
「関ちゃんは?」
「先に行った」
夏華は笑って、そっか、とか言っていた。
今更だろうが彼女こそが俺に恋を教えてくれた張本人である。
出会いはもちろん運命的であった。
今でも鮮明に思い出せる。あの日の事。
だがこの日を思い出すに当って、隠したい日もある。
夏休み開始3日目。8月3日午後23時46分、自宅、自室。
「青?お前今何してんの?」
電話の相手は霧谷涼香だった。
「個性を伸ばすとは何かについて考えてる」
深夜にかかってきた望まぬ相手からの一本の電話、頭を空っぽにして俺は喋っていた。
「まだそんなこと考えてるの」
「悪いかよ」
「個性が伸びてていいと思うよ。」
「それよりなんだよ」
「お前が信じない非現実的な現実をお前に見せる。」
「いや、俺お前とはちょっと…」
「切るぞ?」
「わかったよ。」
「神宮夏華っていう私の友達が私に夏休み中に歴史研究するから手伝えっていう話が来た。でも私はその期間中バイトだ。だからお前が行くって言っておいた。」
「は?」
「8月7日は暇だろ?」
「おい」
「ちゃんとおばあちゃんに顔見せて、墓参りしてこい」
「え?」
「場所はお前の田舎のばあちゃんちのある村だよ。行ってから本人は見つけてくれ。
それが協力条件らしい」
「それが手伝ってほしいやつのすることか?本当に?」
「安心しろ。夢で見た、いいことあるよ」
「わかった。行く。」
「よかった。それと夏華を見つける方法なんだけど…」
8月7日、俺は霧谷涼香から宅配物として届けられたウサギの着ぐるみを着た。そして炎天下の中村中を走り周り、神宮夏華を探し回った。その際に俺に向けられた軽蔑的、差別的視線は俺に精神的な疲労と傷跡を残していった。
同日午後6時30分。俺は神社で祈っていた。
「じゃあね、夏華ちゃん」
俺はその言葉を聞き逃さなかった。
俺はその声がする方に目を向け、ゆっくりと歩みよっていた。
今思えば俺の言動は不審者その者だった。俺の知る限り、神社にウサギの着ぐるみを着てお参りをする人間なんぞ見たことが無い。それを見るものからすれば、恐怖そのものだろう。
「くるな化け物!」
ここに来る課程、すなわち俺の血と汗と鼻水を吸い、傷を負ったウサギのぬいぐるみは化け物そのものに変貌を遂げていたようだった。
この一日、俺と共に熱い半日を過ごしたパートナーに対する罵声は許しがたかった。
しかし彼女との出会い自体は運命めいていたし、その後疲労に倒れた俺を介抱してくれた彼女に俺は惚れ、俺の半身とも呼べるパートナーとの思い出はその日のうちに俺の脳裏から消えていた。だが思うのだ、何かが違うと。理想とは名ばかりで、現実とはこんなものなのか。一生に一度しか訪れない時間と出会いのとの重なりに俺は恐怖したのを今でも思えている。
さてお気づきであろうと思うがここまでの記憶の中に、一切の地名や具体的な場所の情景等が登場していないのに苛立ちを覚えさせてしまっていたら申し訳ない。敢えて排してきた、と言いたいところだがそんないちいち俺は記憶していないし、そこまで慣れ親しんできた土地ではない為、俺の知識が至らなかったのを許してほしい。さて、そろそろ時間を戻そうと思う、いよいよ夏祭りだ。
午後9時15分。辛い階段を夏華とゆっくりと登り切り、夏祭りの会場である来栖神社に辿り着いた。神社の空間は階段を登り切ったところに鳥居があり参道を5分ほど歩けば本殿だった。空間は横に広く、左右の空間の端に屋台が5つずつ並んでいる。額からにじみ出る汗を拭い、俺と夏華は冷たいものを求めてかき氷を購入していた。かき氷の屋台のおじさんにカップルだとちゃかされたが、夏華はそれを即否定し、俺の心は大丈夫だろうかと不安になった。
空に並ぶ提灯を眺め、俺は蜘蛛の巣みたいだとかくだらない事を考えていた。そんなものに目もくれず、夏華は屋台をまじまじと見つめていた。
「そんなに屋台が気になる?」
俺は思った事を口にしていた。
「べっつにー。あっ!でもあのトマト食べたい!」
「トマト好きなの?」
俺は夏華にかき氷を押し付けられ、彼女はトマトが売っている屋台まで走っていった。
質問に対する答えは言動で示され、俺はそんな彼女の後姿を見ているだけだった。ノリがいいやつはここで一緒に走り出すとか、追いかけたりするのだろうか。そんな事を思いながらも自分が不甲斐ないとか、つまらない奴とか、感じなかったことにホッとしていた。多分、今の俺はこの状況に、満たされていたからだと思う。そんな下らないこと考える時間が惜しい。
戻ってきた夏華は両手に1個ずつ大きなトマト持っていた。右手に持っていた方を投げ渡され、俺は両手に持っていたかき氷を落とし、両手でトマトを掴んでいた。手に取ったトマトの冷たさに驚き、俺は情けない声を漏らしていた。夏華は笑って落としたかき氷を指さしていた。
「落とすなよ~」
「俺としたことが…」
拾ったかき氷をゴミ箱に捨て、汚れた手を手水舎の水でタオルを濡らして拭いた。
そんなときに浴衣のポケットに入れていた形態が鳴り出す。相手は母であり、内容は関平が迷子になったというものだった。
「まぁ、こんだけおおけりゃ迷子になるよな」
屋台を取り巻く人の多さに俺は気おされていた。俺たちが着た時よりも人数はかなり増えていた。
「探さなくても見つかるかもよ?」
「え?」
「前に神社で遊んだ時にかくれんぼしてね。あの子が絶対に隠れる場所がある」
俺は夏華に手を引かれ、人混みの中へと引っ張られていった。その時俺の頭の中は人混みの多さに対する文句ではなく、俺の知らないところで関平が良い思いをしていたことに嫉妬していた。我ながらなんと心の狭い人間なのか俺は。
連れていかれた場所は本殿裏にある森だった。
「ここはぎりぎり鎮守の森ね」
「ちんじゅのもり?」
「簡単に言うと神社を囲む自然の空間。昔から何も変わっていないって言われてる場所」
「へ~、まぁ確かに神社って何物にも干渉されないイメージあるけど
そういう言えば歴史研究って何するんだっけ」
「私の研究に鎮守の森は関係ない。研究対象はこの村にずっと語り継がれてる神隠し。」
「それってあの有名な映画の」
「そ。まさにそれ」
「神隠しなんか調べてどうするの?」
「秘密」
調子の良い声で夏華は俺の手を放し、先に歩み始めた。
「神隠しって聞いて青は何を思う?」
唐突な質問に俺は直感で答えるしかなかった。
「人がさらわれるとか?消えるとか?ありえないとは思うな」
「どうして?」
「実際に見たことが無いし、体験した奴の話なんて聞いたことが無い」
「実際に見て体験したら?」
「怖いかな。俺は臆病者だ。見たことが無くて体験したことが無ければ怖いし、抜け出したいと思う。でも期待もあるな。もしそんなことが本当にあって、見れたら、体験出来たらきっと…」
「わがままだね」
「何で?」
「自分で勝手にないと決めつけている癖に、それを内心では欲しがってる。それもただ体験するんじゃない、見て、聞いて、知って、触れようとしてる。」
「無ければ欲しいし、手を伸ばしたくなるよ。」
「私はそこに価値を見つけたい。無いからこそ、手が届かないからこそ、底には価値が生まれると思うから。」
俺は内心、正直に言って夏華が言うことの意味が分からなかった。ないものに価値を見つけて何になるのか。無いからこそ確かにそれは人を魅了し、誘惑し、重力の如く人を引き付ける。だがそこで終わりだ、終わりだと思う。ないものを追求しても、辿り着く先は虚構であるし、人はそこに無価値という烙印を押す。結局のところないものを追求したとて意味がない、俺の考えはそこから動こうとはしないだろう。
数分歩くと、見覚えのない祠が目の前に現れた。その祠の前で関平は寝ていた。
辺りに明かりは無く、祭りの灯火を暗闇が浸食している。木々は関平を見つけたのを合図に風でなびき始め、俺たちに早くこの場から立ち去れと言っているようだった。
「ねぇ、知ってる?」
「何を?」
「この村には本当の神隠し伝説があるの。
その始まりの場所がここ。」
夏華は確かにゆっくりと静かに、そう言った。俺にはその時の彼女が森を味方につけ、俺の世界を、現実を侵食し、未知の虚像を見させようとしている見えた。こういうときに限って、俺の身体はその異変を明確に捉え、身体からにじみ出る汗の感覚を鮮明に脳裏に焼き付ける。俺は何かの引きずり込まれるような異変を直感的に理解はできたが、動くことができなかった。
「怖いの?」
彼女を取り巻く雰囲気、環境、言葉すべてに俺は恐怖していた。
「馬鹿言え。こんなシチュエーションにロマンチックな場所だ。感動してるんだよ。」
俺の嘘を見破るように、彼女はクスっと笑う。俺は無意識に寝ていた関平の身体を引き寄せていた。
「さぁ、来るよ?」
「何が…?」
「青が欲しい世界」
その瞬間、俺の全神経の脈動が加速する。
鎮守の森は虚構の怪物へと変貌を遂げんとするように、突風で荒れ狂う。
金縛りにあったかのように俺の身体はびくともせず、この場から逃れることを許されなかった。
逃げなければ。離れなければ。俺は死を恐れた。俺は世界を恐れた。俺は神宮夏華を、恐れた。
ドンッ!と轟音が鳴り響く。
俺の意識は一瞬跳び、世界の変化に身体は耐えられず、足の力がなくなるのを感じた。
気づいた時には関平を抱きかかえ、腰から下を地に委ねていた。
目を見開くと、数多の閃光と色彩が砕け散る様が俺の視界を奪い去る。
1つ、2つ、3つ、連続して放たれる閃光と色彩は夜空の闇を染め上げる。
他者の介入を許さず、言葉を許さず、目を逸らす事をそれらは許さなかった。