第八章 「雨垂れ」
雨が降る中読書をしようとする永久子
色々な物事を考えてる内に詩を詠もうと梅を呼ぶが・・・
もう梅雨も終りだと言うのに雨が降る。
空気に混ざる埃を濡れ落とすように勢い良く地面に落ちてくる雨―
湿気もなく眺めるだけなら雨も中々良いものだ。
この空から降る一滴が生命を潤し星を浄化する。
永久子は鞄に入れて持ってきた自分の本から何冊かお気に入りを選び、どれを読もうか迷っていた。そこにこの雨だ。
幸い出掛ける用事もなく家にいたが、この降りようでは外に遣いにだされた者はひとたまりもないだろう。
本を読むのは明日にしていっそ今日は一日この雨で詩でも詠もうか、などと考える。
今家に初五郎はいない。
三日前から重造とともに遠く東京に出ている。重造は自分の会社を行く行くは初五郎に継がせたいらしい。
一人息子なのだから当然なのだが、永久子は初五郎にこの会社を継がせるのに不安を抱いていた。
初五郎は馬鹿ではない。性格に大きな問題こそあれど、頭もそこそこ切れるし父の下で働く分には何も問題はないだろう。
だが重造は別格だ。普段大口を開けて品とは何かという様子で笑い、食事すれば必ず一度は食べ物を畳にこぼす。それをいつも甲斐甲斐しく世話するのは梅の仕事だ。
仕草だけならまるで赤子のように世話の焼ける重造だが、頭の方は重たそうな体とは反対に非常に良く動く。
さすが、一人で「富田造船所」を築いただけの事はある男だ。経営こそが彼の天賦の才なのである。
富田造船所と言えば今や破竹の勢いで伸び続け、市場占有率を半分越えるかどうかの大企業だ。
そこまで重造一人で伸ばしてきたものを初五郎は維持できるだろうか。
よほど努力がない限り無理である。永久子の将来に少しばかりの影が広がる。
いくら永久子が先を案じてもどうとなる問題ではないのだが…
公家の身分を持ち次期社長の妻という立場の永久子自身に課せられた仕事は、今は何は特にない。
嫁いでから幾度か初五郎の妻として会合や宴会に呼ばれた事はあったが、それもそつなくこなしてみせた。
元々生まれが生まれであるし、幼い頃から叔母に連れられ色々と挨拶回りをさせられたおかげで永久子は大勢の注目を浴び、その中でいかに失礼のないように、恥をかかないように自分を美しく相手に印象づけるかを心得ていた。
長崎で初めて開かれた宴の席で若葉模様彩る鮮やかな深緑色に、金銀の刺繍を重ねた立派な着物を永久子は見事着こなして見せた。
永久子が呼ばれて振り向く度に誰から見られても恥ずかしくないようにと梅が懸命に結い上げた髪に挿した大きな琥珀玉のついた簪がしゃりしゃりと音を奏でる。
その音に続くように永久子の涼しくも美しい瞳が流れる。
一度も都会の土を踏むことなく人生を終えるであろう新しく親戚となった者達が、その姿に魅了されその瞳に囚われる。
人々は口々に永久子を誉めそやし永久子の下に集まる。
もしかしたら永久子の人を惹き付ける不思議な魅力こそが本当の天賦の才と言うものなのかもしれない。
永久子は読もうと思っていた本を全て机に置き立ち上がる。
雨は一段と激しく降り始めた。雨樋から流れ落ちる水の音が滝のようだ。
詩を詠もう―
もう少ししたらきっと雨は更に酷くなるだろう。そうすれば風情は雨垂れの音に掻き消され何処かへ消えてしまう。
その前に詠まなければ―
永久子の趣味は非常に文学的だ。
日焼けも気にせず走り回りお転婆過ぎるとたしなめられる友も何人かいたが、永久子はその中に混じることができなかった。
体が弱いわけではなかったが日焼けをするとすぐに肌が赤くなりひりひりと痛むのであまり長い間外に出る事ができない体質だった。
小さい頃父や叔母が止めるのも聞かずに外で遊びまわった日は必ず体が火照って熱を出していた。それが永久子の透き通る程に白い肌の秘密だ。
あまり運動も出来なかった永久子の趣味が読書だ。
本は何処にでも連れていってくれる。
日の当たる太陽の下で思いっきりはしゃぎまわるのも、何処か素敵な異国の国に行くのも、蜜よりも甘い恋をするのも本の中では自由だ。
そうして得た感動や知識を永久子は時に周りの情景と共に詩に認める。
それこそが永久子の遊びだ。
硯はある。墨も筆も…だが紙がない。梅に持ってきてもらおう。そう思い梅を呼んだ。
「梅、お願いがあるの。ちょっと来て頂戴。」
すぐに襖が開いた。
そこにいたのは梅ではなかった。
もっともっと…永久子よりも若い女中だ。
まだ二十歳になったかどうか。そんなものだろう。
くりくりとした大きい目がこちらを見てぱちぱちと瞬きをする。
まるで可愛らしい子りすの様だ。
新しく入ったばかりなのか朱色の着物はまだ新しい色を放っている。
濃茶の髪は細くするすると上に結い上げられきつく抑えられつやつやと輝く。
「御用でしょうか、奥様。」
その女中はあどけない笑顔で返事をした。
新キャラ投入です。
ぶっちゃけ名前が決まってません(爆)