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第二十一章 「企み」

静枝の家に招待された永久子。

そこには静枝の夫である八夜もいて―

「さあどうぞ、ここが私の家なの。」


永久子の住む家から本当に少し行った所が静枝の家だった。

一見質素に見えるがちゃんと年月を重ねた佇まいと風格を持つ昔ながらの家屋といった感じだ。

瓦が何枚もしかれた屋根にはびっしりと苔が生え、その屋根を支えるしっかりとした柱はかなり太く、丁寧に作られているのがうかがえる。

八夜の父の幹成みきなりの代からの家なのだろう。

この家の持つ重厚な雰囲気はまだ建てられてから日が浅い富田の家にはないものだ。


富田の家にはさすがに及ばないものの、敷地の広さも大きめの母屋の他に何軒かの家が連なっていて、かなりの広さと見える。

遠くに見える庭では池の鯉に餌をやる女中の姿が見えた。

こんなに広い家がこんなに近くにあったのか。

永久子が外に出る時の用事と言えば、初五郎の妻として出席する会食や重造の会社の繋がりで出なければならない行事が大半を占めていたため、永久子はほとんどこの町を散策した事がなかった。

特に静枝の家の辺りは一度も出掛けたことがない。

永久子は自分は本当に富田家と言う籠の中に籠りっきりだったのだと思った。


「さあさあ遠慮せずどうぞ上がって頂戴。今お茶の支度をさせるわ。」


静枝は下駄を無造作に脱ぎ捨て、出迎えた女中にお茶を用意するよう命令した。


「履物はここでよろしいかしら?」


永久子は静枝が脱ぎ散らかした分も一緒に片付けながら静枝に聞いた。


「あら!ごめんなさい私ったら。ええ、そこで大丈夫よ。ありがとう。さ、どうぞ。」


静枝は申し訳なさそうに頭を掻きながらずかずかと廊下を進んでいく。

静枝は子供の様に落ち着きがなく、お転婆な上にどうやらあまり起こってる物事に大して気を止めることができないらしい。


「待ちなさい、静枝!一体君は何なんだ、そんな事をさせて。お客様に脱いだものを片付けさせるなんて失礼にも程があるじゃないか。」


少し怒った口調で静枝を叱咤した声の主は八夜だった。


「よりにもよって永久子さんにそんな事をさせるなんてどういうつもりなんだい?それにそんな着物で富田の家に行ったなんて・・・あぁ、もう君は本当に手が掛かるな。」


八夜はふうっと溜息をつき、半ばきれながら静枝をたしなめた。

怒られた静枝は子供の様に、ばつが悪そうにごめんなさいと謝った。


「すいません永久子さん、うちの静枝は本当に礼儀というか、行儀が悪いんです。昔から直せと叱っているんですが・・・どうぞ、こちらに。本当に失礼しました。」


「いいえ、どうぞ気になさらないで。とても賑やかなおうちなんですね。羨ましいですわ。」


その言葉は永久子の本心だった。

お互い気を遣わずに言い合っているこの二人の関係は理想の夫婦そのものだ。

これだけの地位の高い男性であっても、こんなにも屈託のない夫でいられるのだ。

永久子は改めてあの家に巣くう重苦しい空気が初五郎によって作り出されているものなのだと感じた。


「静枝の急な誘いに付き合って頂いて本当に感謝しています。古くて何もない家ですがどうぞゆっくりしていって下さい。」


八夜はそう言うと永久子を客間に案内した。

今日の八夜の服装はこないだあった時とは違い、白いシャツに灰色のズボンを履いている。

この暑さのためか胸元のボタンを開けて前をはだけさせている。八夜が歩きながら腕まくりをする。

まくったシャツから伸びる腕は意外にたくましく、暑さのせいでやや汗ばんでいた。


「こちらこそすいません、こんな急にお邪魔してしまって・・・何かお仕事をされてらしたんでしょう?」


永久子は八夜の背中に向かってそう言った。


「いえ、ちょっと書棚の整理をね。家ではいつもそうです。ずっと書斎に籠りっきりだ。学会で発表するごとに増えていく資料に手が追い付かない状態ですよ。」


ははっと笑いながら頭を掻く八夜の手を永久子はじっと見つめた。

学者にしては細くないその身体を長く見つめる自分に気付いた永久子は赤らめた頬を俯いて隠した。


「さ、どうぞ。今お茶を煎れさせていますから。全く、静枝はどこにいったんだろう。いつもああで本当に困っているんですよ。

永久子さんの様な妻だったら安心して家を任せられるんですがね。」


髭に隠れた口元がふふっと笑ったのを永久子は見た。

八夜の髪がもっと黒くて、髭を剃ったならきっと永久子と同い年くらいの顔になるだろう。

そのくらい八夜の顔の笑った顔は幼く見えた。


「いいえ、わたくしなんてただ嫁いだだけで何の役にも・・・いつも詩を詠んでいるだけですもの。周りから見たら使えぬ嫁に見えるでしょうね。」



「そんな事ありませんよ。あなたは美しい。それだけでも素晴らしい事なのにあの詩心に詩を載せているんなんてすごい才能ですよ。静枝にも見習ってほしいものだ。・・・私もそんな妻が欲しかったんですけどね。」


最後にぼそっと言った八夜の一言に永久子は顔を上げた。

その瞬間永久子の方を見つめる八夜と目が合った。

この男はどういう考えなのだろう。


永久子の頭の中にはまだこの前の一言が響いていた。

二人きりでいた時に八夜が言った言葉。



「あなたは美しい。」



あれは、冗談でもお世辞でもなかった。そんな口調ではなかった。

まるで気のある相手に告白でもしているかのような甘い言葉・・・だが、気のせいかもしれないとも思った。

あの後静枝が横から入ってきてから八夜は何事もない振りをしていたし、あの後何度か二人で話したが全くその様な雰囲気にならなかったからだ。

もしかしたら八夜もまた永久子の発する美しさに触れて惑わされた一人なのかもしれない。

永久子はそう思いあの日の出来事をなかった事とした。

しかし、今八夜の話す口調はあの時永久子の胸を高鳴らせた口調そのものだ。

この男はどうしてまたこの様な気のある素振りを見せるのだろう。


いけない―


永久子は懸命に八夜の言葉の本心を探ろうとする自分を止める。

八夜はいけない。八夜は近すぎる。初五郎だけでなく重造とも繋がっている。

まして、自分はもうこの男の妻と友人となってしまったのだ。

このままこの誘いに乗れば確実に煩わしいものとなる。

この男は駄目なのだ。

前にも自分に言い聞かせたはずなのに込み上げてくる色めきの感情を永久子は必死に抑えた。

もう色恋などくだらないものに惑わされてはいけない。

このまま枯れた人生を送り朽ち果てようとも、甘い蜜の先に暗闇が待つのならばこれ以上自分の心を傷つけるような愚かな事はしてはいけないのだ。

永久子は動揺した自分の心を押し戻し、またいつもの仮面を被り八夜に答えた。


「八夜さんたら学者様なのに冗談も仰るのね。きっと私を妻になんかしたら毎日詩を詠むのに付き合わされて飽き飽きしてしまうわ。」


永久子は悪戯っぽく、だが一線を引くように答えた。

その永久子の返事に八夜はすぐに返事をする。


「つれないですね。」


その返事は意外な程あっさりとしていた。

永久子の胸の奥がちくんと痛む。

その後のやり取りは何気ない普通の会話だった。

暫くすると静枝が詩心や筆や紙を持ってやってきた。


「ねーぇ、永久子さん。これから一緒に詩を詠みましょうよ。何か同じ題で考えながら。何なら八夜さんもどうぞ。部屋の整理なんかやめちゃって入っていいわよ。ね、永久子さん。いいでしょう?」


静枝は子供が親に甘えるような口調で永久子にそう頼む。


「面白そうだな。僕も上手くはないけれど是非一緒にやってみたいね。何といっても詩心に載る方と一緒に詩を詠めるのだから。」


「ええ、喜んでお願いしますわ。」


それから三人で詩を詠み、題を変えながら次々と詠んでいく。

思った通り、静枝はあまり才能がないのか子供の様な詩ばかり詠む。しょっちゅう間違えるし時間がかかるので永久子は姉が妹に教えるような気分で詩を一から手ほどきしなければならなかった。

だが意外なことに、八夜の方はすっきりとした良い詩を詠みあげていく。

ひねりはないが、永久子が少し助言をするだけですらすらと詩を作っていくので永久子は感心した。


「まあ、驚きましたわ。八夜さんは詩もお出来になるのね。とってもお上手だわ。」


「いえ、見よう見まねですよ。きっと教える師が良いんです。」


そう言ってまた幼い顔がにこっと笑った。


「あーあ、駄目だわ。今日は調子が悪いったらないわ。全然駄目よ。」


そう言って静枝は筆を投げて椅子に深く座り込み天井を見上げた。

その姿は子供としか言い様がない。


「全く君は。いつもすぐ投げ出すんだよ。教えてもらってるのにそんな態度は失礼じゃないか。」


そう言って八夜は次の自分の詩を小声でそっと詠み上げた。


「百合の花 野草近くに 溜息を 漏れる吐息に 我を感ずる」


永久子は心臓が止まりそうになった。

静枝は今の詩を全く聞いてなかった様だ。

暇そうに自分の指をいじっている。


永久子は八夜のほうを向く。

八夜の瞳はじっと永久子を捉えたままだ。

永久子の胸は大きく高鳴った。


もし永久子の思った通りの詩ならば

もし永久子を百合の花に例えたならば


八夜はまたも永久子の心を揺さぶろうとしているのだ。

自らの妻の目の前で。


永久子は目を伏せながらまた静枝の方を向く。

夫がこんな大胆な詩を詠んでいるのに何と呑気な態度だろう。

永久子はあきれ返ったと同時に先程消した念が再燃していくのを感じた。


こんな女人にこれだけ魅力のある夫がいるのに何故自分は・・・・

自分に多少落ち度があるとしても何故これ程までに違う人生を歩んでいるのだろう。


美しさも学も自分なりに磨いてきたはずだ。

常に自分を向上させようという精神も未だ衰えてはいない。

それなのに何故一生を共に過ごすべき伴侶に恵まれないのだろう。

この女人は子供の様にただ遊んでいただけなのに。


永久子に沸々と邪念が沸く。

先程理性で抑えたはずのものが熱を発し愚かな考えに変る。


永久子は静枝が見てないのを確認し、八夜を見つめて言った。


「素敵な詩だこと・・・八夜さん。」


口元に当てた白い指は色っぽく、動くその口元は隠微なものを感じさせた。

この世の男の大半が堕ちてしまいそうなその瞳は八夜を捕らえて吸い込もうとでもしているかの様だった。


そう、自分の考えている事はこの世の中で決して許されない事だ。

だが、愚かと分かっていても止められない欲望が頭を掻き回す。


―もしこの女からこの男を奪ったらどうなるのだろう―


また更新が遅くなりすいません。

休みのはずなのに何故か忙しいです。

何でだろう?

3月後半は家にいないのでそれまでにまた更新したいです。

そして永久子が何やら企んでいるようです・・・

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