第十九章 「回想」
互いに見詰め合う八夜と永久子。
それを見た静枝は―
一番最初の夫はどんな名前だっただろうか・・・
もうそれさえも忘れてしまった。
まだ、何年と昔の事でもないのに人は興味がなくなるとこれほどまでに綺麗さっぱり思い出せなくなるものなのだろうか?
父親に無理矢理会わされた初めての結婚相手は全てに興味の失せた男だった。
永久子の美しさも人格も全てがその視界に入らずただ1日中ぼんやり窓の外を眺めているだけの日々をずっと送っていた事だけが記憶に残る。
お互いろくに会話もせず一日が過ぎていく。そんな事も珍しくはなかった。
そこそこ名の知れた裕福な家の次男坊だったが、生まれつきお頭に病が巣くっているらしく自分の世界に籠りきりの夫だった。
夫が家にいると言うのに妻が外で遊ぶわけにもいかず、家でやる家事と言えば二人分の食事と洗濯くらいだった。
気付けばどちらが言い出したか離縁となっていた。
家に戻ってきた事を父に激しく叱咤され、鬱々と落ち込でいた永久子の前に現れたのが二番目の夫だった。
その夫の優しさに、凛々しさに永久子は恋に落ちすぐに結ばれた。
永久子は初めての恋の甘さに、情事の快楽に触れ夢中になっていた。
そのすぐ後に奈落のそこに突き落とされるとも知らずに。
そして今の夫初五郎との生活は・・・絶望と隣り合わせだ。
「・・・さん、永久子さん?」
永久子ははっと我に返り呼ばれた方を見上げた。
「やはりかなり具合が悪そうだ。医者を呼ばれた方がいいかもしれない。」
そこには心配そうな顔で此方を見る八夜が立っていた。
どれくらいの時間ぼぅっと過ごしていたのだろう。
そして何故過去に還っていたのだろう?
「いいえ、大丈夫ですわ。ちょっと気を取られていて・・・医者など結構ですから。」
「そうですか。だが、少し休まれた方がいい。菅野さんに部屋を用意させましょうか?」
八夜はまたグラスの水を差し出しそう言った。
永久子は感謝の言葉を述べ、今度はグラスを手に取った。
そう・・・今まで私の上を通った男達・・・私を幸せにする事ができなかった男達。
私が幸せにできなかった男達。その過去を思い出した。
八夜はきっと相手にしてはいけない男なのだ。
妻もいるし、富田家との関わりも深い。胸を高鳴らせてはいけない相手なのだ。
きっとその事を分からせるために、過去の回想が起こったに違いない。
いけない。また、この様な淡い感情に惑わされてはいけない。
「いいえ、本当に大丈夫ですの。」
グラスの水を受け取った永久子は、その水を一口口に含む。
それを見ながら八夜がふと言葉を発した。
「影に咲く 百合の花の香 香る時 散りに耐えて 鬱々と」
永久子はびっくりしてグラスを落しそうになった。
「まぁ・・・八夜さん・・・詩をお詠みになるの?」
「少し嗜んでいるだけですよ。普段は学者ですからね。」
永久子は急に嬉しさで舞い上がる様な気持ちになった。
自分と同じ様に詩を詠む人間など富田家の屋敷にはいなかったからだ。
「私も・・・私も詩を詠みますの。」
「ええ、知っていますよ。詩心を見ました。」
「まあ、ご存知でらっしゃるの?」
永久子はすっかり興奮して少女の様に浮かれた声を出した。
「ええ。良く知っています。ははは・・・」
「・・・? 私、何かおかしい事言ってしまったかしら?」
「いいえ、失礼。ただ、先程までとても落ちついてらしたのに、詩の事になるとすっかり可愛らしくなってしまわれたから。本当に詩がお好きなんですね。」
「まあ、私ったら・・・」
永久子は顔が紅くなるのを感じた。
いけない・・・こんな事で動揺などしては・・・
「・・・さっきの言葉、聞こえてしまいましたか?」
八夜は少し声を小さくした。八夜の真剣な眼差しが永久子を見つめる。
永久子はまた胸が高鳴るのを感じた。
「・・・さっき・・・?」
「はい、私がさっき言った言葉です。」
永久子は先程八夜が発した言葉を思い出した。
「・・・美しい」
確かに八夜はそう言った
永久子に向かってはっきりと。
どう返せばいいのだろう?八夜はもしかしたら自分の事を・・・
「まあまあ私がいるというのに八夜さんたら!離れてくださいな!」
急に割って入ってきたのは静枝だった。
「随分と仲がお宜しい事。私が話し込んでる間にとても仲良くなれたようね。」
静枝は機嫌をひどく損なった様で皮肉たっぷりに八夜を睨みつけた。
思ってる事を隠そうともしない所を見ると静枝は本当に裏表のない性格らしい。
「違うんだ静枝。永久子さんは気分を悪くされていてね。丁度今、少し休んだ方がいいんじゃないかと話していた所なんだよ。
それより君の方こそ失礼じゃないか。永久子さんは富田の家の方だよ。それなのに少し挨拶しただけでどこかへ消えてしまって。」
「あら・・・そうね。うっかりしてたわ。ごめんなさいね。」
静枝は本当に忘れていた様にすっとんきょうな声で返事をした。
「ごめんなさいね永久子さん。私ってこういう性格なの。何時も周りが見えてないって夫に怒られるのよ。
昔から直そうとはしているんだけれど。」
静枝は叱られた子供そっくりにぺろっと舌を出した。
永久子は何だか急に静枝の事を親しく感じられた。
もしかしたら静枝は裏表がない分他の女人よりも楽な付き合いが出来るかもしれない。
「いいえ、私の方こそ先程はろくな挨拶も出来なくて失礼致しました。」
永久子が丁寧な返事をすると静枝はまたけらけらと笑い出し、永久子の肩を軽くぽんっと叩いた。
「嫌だわぁ、永久子さんたら!私達同い年でしょ?もっと崩しましょうよ。私の事は静枝で良いから。ね?」
先程までひどく静枝を警戒していたのに永久子はふと安心する自分に気付く。
「ええ、よろしくね。静枝さん。」
「うふふ。ねえ、それより私貴方に聞きたいことがあるのよ。永久子さん詩心に詩を載せてらっしゃるでしょう?」
静枝は興味津々と言った感じで永久子の顔を覗き込んできた。
「えぇ、ほんの少しだけですけれど載せて頂いてますわ。先程八夜さんにも聞かれました。」
「まあ!まあまあ!私いつも詩心を愛読してますのよ!何度も詩も送って・・・もちろん載せてもらった事なんて一度もないですけれど。
何て素晴らしいのかしら・・・羨ましい!」
静枝は心の底から感激しているといった風に元々大きい声を更に荒げた。
「ねえ、良かったら私とお友達になって下さらない?ね?私達家も近いし。詩について語りましょうよ。そうだわ!今度一緒に私の家で詩を詠みましょう!永久子さんと是非詩を詠んでみたいわ。何せ詩心に載るくらいですもの。あぁ、楽しみだわ!ね!そうしましょう!」
うきうきとしながら静枝は永久子の白く細い手をぎゅっと強く握り勢い良く上に掲げた。
今までそんな事をされた事のない永久子はびっくりしながら返事をする。
「ええ。私で良ければいつでもお伺いしますわ。」
「あぁ良かった!私本当に楽しみだわ。」
気付けば先程の気分が落ち、椅子で落ち着いているのがやっとだった体はしっかりと立ち上がりいつもの様に真っ直ぐと背筋を伸ばしている。
永久子はこちらに来て初めて良い意味で付き合える人間が出来るかもしれないと感じた。
ぎりぎり今年に間に合いました;
本当にぎりぎり・・・(汗)
今年は永久子という女性が生まれて、それを自分なりに書く事ができて良い年だったと思います。
まだまだ下手な文章で読みにくいとは思いますが、努力していくので応援宜しくお願いします!
今年は大変お世話になりました。
また来年も宜しくお願いします。
皆様良いお年を!