第十七章 「八夜」
重造、初五郎と共に列車に乗った永久子・・・
着いた宿で永久子は初めて八夜に会い―
永久子は重造や初五郎と共に列車に乗り、目的の場所へと向かった。
今日は、重造と初五郎が古くから関係を持つ仕事の相手や友人などが招待されているらしい。
長崎でも老舗の宿を貸し切ったらしいが、来る人数はせいぜい三十人程度だという。
これだけの企業なのに、それだけしか招待しないのだからほとんど身内同然のものばかりなのだろう。
私がまだ紹介してもらっていない者も多いのだろうか?
永久子はやっぱりその中でも野本八夜のことが気になっていた。
八夜は最近東京の学会で発表し、そこでもかなりの人気を博したと言う。
今回もきっと八夜の所に人が集まるに違いない。
だが、それに掻き消されない程度に且つ富田家に恥をかかせないよう永久子は目立たなければいけない。
それが永久子の富田家での仕事の一つでもあるのだから。
永久子は俯いた顔を少し上げ、ちらっと初五郎を見る。
初五郎の顔は、相変わらずの仏頂面で全く表情が動かない。
昨夜の事は何もなかった事にしているらしい。当たり前なのだが、あれだけ恐ろしい姿を見せておいてよくもまあ何事もなかったようにこの男は済ましていられるものだ。
永久子は嫌悪の気持ちでまた目を伏せ俯いた。
何も知らない重造はしきりに初五郎に今日集まる人間について話をしていた。
「お前そんなにいつもより人が集まらねからって仏頂面さげてちゃいけねぇ。まぁお前はいつも顔変わらんからな。だけんど、今日は今日で偉いんばっか来るんだし、俺の友達も多い。八夜も来るしな。よう持て成しとけ。」
それからの重造はすごかった。
一人一人の来客の情報を重造はすらすらと上を向いて読み上げていく。
どんな仕事をしているどんな人間であるか、その見た目から食べ物の好き嫌い、嗜好品まで言葉に詰まる事なく喋り続けていた。
目的の駅に着くまで重造はずっと喋り続け、初五郎でなく永久子でさえ今日来る一人一人の人間が頭に入ってしまった。
「八夜ん事は話さんくてもわかっちょるな、最近はあいつ忙しすぎてめっきり会っちょらんが。
きっと変わらず良い奴じゃろう。俺はあんま学問ちゅうのができねぇ。字もとんと読めねぇし、難しい紙切れはお前に任せっきりじゃ。
だが、八夜のやっとる学問ちゅうのは中々面白い。俺みたいな阿呆でもわかりやすいようにあいつは言うしな。お前も良い機会じゃからまた聞いとけ。そういやあいつの好物の酒は出とるかな。あいつはあの顔でうんと濃い焼酎しか飲まんからな。」
重造はこの様に実際に会い、自分に関わった全ての人間を覚えているのだ。
永久子は改めて重造のその頭の良さときれのある考え方に舌を巻いた。
この男がいるからこそ、富田家は莫大な資金を欲しいままに贅に浸っていられるのだ。
この男はすごい才をもっている・・・だが、永久子に一瞬不安が過ぎる。
逆に、もしこの男がいなくなれば富田の家はどうなるのだろう・・・
「どうしゃった?永久子さん。もうそろそろ駅につくぞ。」
「・・・いいえ、何でもありませんわ御義父様。」
永久子ははっと我に返り、急いで重造にしっかりと作り笑いをして見せた。
重造は簡単に騙されてくれたらしく、満足気に永久子を見て下車した。
重造に続く初五郎の三歩後ろに下がりしずしずと後をついていく。
こう言う時男尊女卑とか言う馬鹿馬鹿しい掟が役に立つと永久子は自分を嘲笑った。
取り合えず部屋に案内されるまでは初五郎の顔を見ずに済むからだ。
ほんの僅かな時間ではあるのだがその時間さえ永久子は初五郎と顔をあわせたくなかった。
駅の傍にあるその宿にはすぐに着いた。
質素だが、昔からの貫禄が深く染み付いていて中々重厚な佇まいだ。
一見古めかしく沈んだ焦げ茶色の建物で決して大きくはないのだが、その作りは中々のものだった。
ふと、その入り口を見てみると女性が一人立っていた。
「お待ちしておりぁした。重造様。初五郎様。・・・それに永久子様。」
四十を過ぎたかどうかの少々痩せ気味のその女性は透き通る白い顔でにっこりと微笑んだ。
黒い髪にはまだ艶があり宿の女将らしく、きっちりと髪を上に結い上げている。
白と薄い桃色の交じり合った明るい色の着物には珊瑚の珠がさりげなく裾についていた。
若い娘に似合いそうなその着物を自然に着こなすその姿を見て、永久子は自分もその着物が欲しくなった。
「おぉ、さく。久しぶりじゃ。どうじゃ、初五郎の嫁さんは美しかろ?」
重造はにこにこと永久子を紹介した。
「良く名前ぞ知っとったな。色綺麗、顔綺麗の言う事なしじゃろ。俺はこんな美しい人は今迄見た事がねぇ。」
「えぇ。私もですわ。かの有名な佐原家の永久子様がこんなに美しい方だったなんて。初五郎様も素敵な方に嫁いでいらしもらった事。」
「おぉ、おぉ、褒められとるぞ初五郎。よがったな。永久子さん、こっちゃの女はさくと言ってな。この宿の女将じゃ。富田とは深い馴染みでな。よう知っとるけ、気軽に何でも聞いたらええ。」
「初めまして永久子様。菅野桜と申します。宿「朱雀」を仕切っております。何なりとお申し付けくださぁね。」
人の良さそうな顔で桜はにっこり永久子にお辞儀した。
口元にある黒子がほんのり色気を出していてとても美しかった。
「富田永久子です。まだ、富田に嫁いで日の浅い人間ですが、これからどうぞよろしくお願いします。」
そう言って、永久子は深くお辞儀を返した。
初五郎はと言うと、少しお辞儀をして後は我関せずさっさと宿の奥に入ってしまった。
お互いの紹介も済み、永久子達は宿の置くにある広間へと通された。
通された広間は特別広いわけではなかったが薄い金と銀の細かい線の入った美しい壁には幾つもの高価な絵画が飾られ所々に置かれた足が細く丸い形をしたテーブルには大きくゆったりとしたワイングラスが人数分置かれていた。
こんな田舎な場所で良くここまで洒落た空間を用意出来たものだ、と永久子は感心した。
これも桜が用意したものだろうか?
座敷でなく椅子も用意されていない所を見るとどうやら今日の催しは立ち通しの様だ。
昨夜散々初五郎にいたぶられた永久子には少々きついものがある。
「おぉ、おぉ、豪勢じゃなぁか。良くここまで飾りつかつけおったものお。」
重造は入るなり満足した様子でそう言った。
「だがちいとばかしあれだな。俺は体が重いから。あまりなごぉ時間立っているんはしんどい。椅子はないんか?」
さっきこの店に来てからまだ少ししか経っていないと言うのに重造はもう疲れたらしい。
確かに栄養を蓄えた過ぎたその体では疲れやすいのも無理はないが、それにしてもあまりに早いと永久子は驚きとおかしさで顔が歪んだ。
「あらあらごめんなさいね、私ったら。重造様は疲れやすいんでしたものね。申し訳ありません。」
そう言うと、桜はすぐにいくつか椅子を持ってこさせた。
持ってくるなり、重造はすぐに椅子にどかっと座り込み息をつきながら扇ではたはたと自分の顔を扇いだ。
「やぁ、もう来ていたんですかおじさん。初五郎も。」
後ろからそう声が聞こえたので振り替えるとすらりと紺の背広を着こなした男性が立っていた。
鼻の下に少し生やした髭は小綺麗に整えられ左右対称にぴんと伸びている。
少しだけ白髪の入った髪の毛はきっちりと七三に分けられていた。
身なりを見ただけでは染めないその髪が初老の様な雰囲気をかもしだしているが肌の艶や顔立ちを見れば恐らく永久子より少し年上と言った所だろう。
「やぁ、この方が君の奥さんかい?かの有名な佐原家の。初めまして。野本八夜と言います。今は学者をしていますが、学生時代は初五郎の先輩だったんですよ。」
すらすらと自己紹介してきたその男こそが今日永久子が密かに会うのを楽しみにしていた野本八夜だった。
「初めまして。富田永久子です。主人がお世話になりまして・・・」
何が主人だと心の中で悪態をつきながら永久子は澄ましてお辞儀をした。
「とても美しい方でびっくりしました。初五郎は本当に良い方に嫁いでもらったものだ。感謝しなければね。」
そう言うと八夜は初五郎の方を向き相槌を求めた。
初五郎はふん、と鼻息でその求めを払った。
「はは、相変わらず無愛想だね君は。全然変わってない。貴方も苦労なされてるんじゃありませんか?あれじゃあ会話が持たないでしょう?」
「いえ、主人はとても真面目に毎日働いておりますから。とても良い夫ですの。」
吐き気がした。
永久子は猫を被ったりごまかす能力には長けているが嘘をつくこと自体あまり好きではない。
ましてこんな白々しい嘘をついたのは初めてだ。
初五郎の反応を見るのが恐い永久子は急いで話を切り替えた。
「私、野本さんの本を愛読しましたの。とっても素晴らしい本でしたわ。
あまり、理学に触れたことはないんですけれど、そんな私でもとても読みやすくて。そう、この前出版なされた本、確かあれは・・・」
「あぁ、遺伝学について書いたあの本ですね。驚いたな。女性の方があの本を読みやすいなんて。とても頭の良い方と見える。この前東京でその本の内容について学会で講義してきましたが、ついてこれたのは半分くらいでしたかね。」
永久子の想像以上に野本八夜という男は堂々とした立派な人間だった。
きっと有名な学会で幾つも発表して慣れっこになっているのだろう。
自分の意見、主張を綺麗にまとめて次々に発してくる。
「生物学・・・でしたかしら、確かに少し難しい所はありましたけれど、とても面白くて私すぐに詠み終わってしまいました。」
学の心に火がついた永久子は饒舌になり八夜に負けない位話した。
気がつけば、招待された客が少しずつ集まり、「あれが八夜だ」「あれが噂の佐原家の・・・」とひそひそ自分達の話題に花を咲かせている事に永久子は気付いた。
その渦の中で学の交換をしている自分に永久子は久しぶりに胸の熱くなる思いがした。
八夜も熱が入ってきたのか、遺伝学について本に載ってない事まで話を切り出してきた。
「メンデルと言う方を本で紹介しましたね?私はその人に強い尊敬の念を抱いていましてね。何と言っても見つけた法則が素晴らしい。初めて彼を知った時には衝撃が走りましたよ。彼こそが遺伝学の祖だ。唯一つ彼の偉大な功績を彼自身が知らずに一生を終えた事だけ無念ですよ。」
「メンデル・・・本の中にたくさん出てきてましたわね。とても素晴らしい方ですって。」
「えぇ、そうなんです。本の中では論点がずれるのであまり詳しくは書きませんでしたが、彼は・・・」
永久子は真剣に話す八夜の目をまっすぐに見つめた。
もう既に何人もの人に囲まれているのにも関わらず、それに一切気付かないくらい自分の研究を一生懸命説明しようとする八夜に永久子は久しぶりに男の熱を見たのだ。
野本八夜・・・この人は・・・
「八夜さん、貴方また周りが見えなくなってらっしゃるのね?しょうのない方!自分の周りにどれだけ人が集まってらっしゃるかよく見てみなさいな。ご婦人まで付き合せて。」
二人の間に入ってきたのは永久子と同じくらいの年の女性であった。
美しくはないが整った顔立ちできりっとした眉毛が我の強さを表してる。
この時代にこれだけはっきり夫をたしなめる妻がいたのに永久子は驚いた。
ただ、細い目をしたその女性は、育ちが上流でないのか着物を着ているにも関わらず大きな歩幅でずかずかと二人の間に割って入ってきた。
「貴方の悪い所はそこなんだわ。学問になると何も見えなくなるとこ!本当にあきれてしまうったら。」
永久子は察した。この女性は・・・
「すまない静枝。また悪い癖が出た。あー、永久子さん、失礼。妻の静枝です。」
そう言って八夜はけじめ悪そうにその女性に手を向けて紹介してきた。
紹介された女は永久子の表の顔とは全く逆に、溌剌と自信のある態度で永久子の方にその細い目を向けて挨拶をした。
「初めまして。野本八夜の妻の静枝です。八夜の話に付き合っていただいてありがとうございました。」
静枝が持つお転婆で天真爛漫な小娘といった雰囲気は永久子が時々欲する人格そのものだった。
中々文が繋がらなくてこのままだと短いなぁと一生懸命話を練っていたら過去最高ぐらい字数が多くなってしまいました(汗)
八夜はイメージ的には若い夏目漱石みたいな感じですかね。
あんまりイメージつけちゃいけないのかな??
後どうでも良いけど作者は旧千円札のデザインの方が好きでした。(本当どうでも良い。