第十三章 「奈落」
梅のために初五郎の機嫌を取る永久子。
夜―激しく犯される永久子が落ちていった「奈落」では―
夜―
永久子の息がその動きと合わさり激しくなる。
「・・・あっ」
永久子が昼間きつく結った髪は既にほどかれ絹の様な光を放ちながら畳に広がっている。
隙のない程鮮やかに着付けられたはずの淡い黄色の着物は部屋の隅に放られたままだ。
暗い部屋の中で月明かりによって白く照らされた永久子の肌にはうっすらと汗が滲んでいた。
初五郎の容赦のない責めが永久子の体を貫く。もうどのくらいこうしてこの男の一部を受け入れている事だろう―
服を脱いだ初五郎の体は思ったよりも随分細い。
肋骨が浮かびくっきりとした筋はどこに力を入れているか容易に分かる。
初五郎は夢中で永久子を組強いている。
だがその目線の先はほとんど永久子には向かない。
永久子もそうだ。
ただひたすら苦痛に耐える。
時折目が合うと永久子の心を読んだようににやっと笑う。
「気持ちの悪い男・・・」
永久子は抱かれながら吐きそうな程不快な気持ちに陥る。
性欲の処理の為だけに私の体を欲っしているのだろうか。
その為だけにこの儀式に耐えなければならないのか。
この男といる間は一生・・・
このまま行けばいずれこの男との間に子を成さねばならない時が来るだろう。
産まなければならないのか?育てなければならないのか?
この男との子供を一生?
何と汚らわしいのだろう。
お互い愛もないのに。この男はこんなにも私を忌み嫌っていると言うのに。これではまるで凌辱だ。
そう思った瞬間永久子は急に泣き叫びたい気持ちに襲われた。
誰かにすがりたい。誰かに助けて欲しい。
誰か・・・誰か・・・!
いない。そんなものは。
私をこの奈落に突き落とす人間は山程いても手を差し延べてくれる人間など誰一人いはしない。
永久子は自分の一生を思い浮かべた。頬に一筋涙が伝う。
いつまでも続く激しい責めに永久子は次第に意識が遠のいていく。
「・・・いやっ・・・」
永久子は辛うじて聞こえる位の小さな声で叫び、気を失った。
目を覚ました永久子の視界は奈落の底のように暗かった。
暗い・・・暗く寒い・・・どうして私はここに?何故?
誰もいないのだろうか?助けを呼びたい。
だが何の気配もない。一人だ・・・この暗闇の中で。
「私はどうなるの・・・?このまま死んでしまうの!?」
叫んでみるが返事はない。
「嫌・・・嫌よ、こんな・・・こんな孤独な場所で。酷い、酷いわ!!」
こだましない暗闇の中で永久子の意識はまた遠のいていく。死ぬのか?何故?
そう、私の生きている日々は余りに孤独過ぎる・・・
また意識が遠のいていく中誰かの気配がした。
誰か・・・いたのだ。
永久子は体に力が入らない。
ただうつ伏せて倒れてしまっている。起きたくても起き上がれない。
立ち上がる力を抑えるように体が重い。この金縛りの様な感覚は何なのだろう。
永久子が懸命に頭を上げようとしているとその誰かはゆっくりと永久子に近付いた。
そして永久子の手を優しく握った。
暖かい・・・男の手だ。
その男は永久子の体をゆっくりと持ち上げ、どこかに運ばうとしている。
この男は誰なのだろう?誰だかわからない・・・初五郎ではない。
私の知らない男だ。
まだ会った事のない誰かが私を運んでいる。
「貴方は・・・」
誰?と問いかけようとした瞬間目を覚ました。
「奥様・・・奥様っ!!」
目を開けるとそこには顔面蒼白の梅と瑠璃がいた。
「大丈夫ですか!?何だかとても魘されてらっしゃいました。」
瑠璃が心配そうに永久子に話し掛ける。
「・・・大丈夫よ」
永久子はやっとの事で返事をする。
やはりあれは夢だったか。
先程は混乱していたからわからなかったがあんな事が現実であるはずがない。
とするとさっき運ばれたのも夢だったのだろうか?
「瑠璃!!何しつる!!はよ奥様に羽織り!!」
必死の形相の梅が瑠璃を叱咤した。
永久子は自分の体を見た。服を来ていない。裸のままだ。
だから夢の中であんなに寒かったのか?
「本当に酷い・・・初五郎様は・・・!」
梅は涙を滲ませている。
どうやら初五郎は昨日散々永久子を犯した後裸の永久子をそのままにして出掛けていったらしい。
「寒いわ・・・」
永久子の体が震える。
「今暖かいお茶をお持ち致しますけぇ、辛抱なさってくだしぁ。瑠璃、はよ!!」
梅が瑠璃を急かすと瑠璃は慌ててお茶を沸かしに母屋の方へ走って行った。
「明け方頃に初五郎様が部屋から出てきたんで、不思議だと思ったんでしぁ。でも永久子さん起こしてしまうから確かめなかったらこんな・・・永久子さんは大切な富田家の奥様なんにあんな仕打ち酷いこつです。」
梅は本当に悲しそうだ。自分のせいで永久子がこんな寒い思いをしてしまい申し訳ないと何度も謝ってきた。
「梅、貴方は関係ないのだからそんな事やめて頂戴。」
「でも・・・」
「良いのよ。ただあの人が私の事を気に入らないだけなのだから。」
あの男・・・私が死ねば良いとでも思ったのだろうか?
いくら梅雨の残った蒸し暑い夏と言えど裸で放っておけば風邪を引く事くらいわからないのだろうか。
まして永久子の体はそこまで丈夫には出来ていない。
ふざけた男だ。
永久子は梅が用意した着物の袖に腕を通した。
一方梅にお茶を頼まれた瑠璃はまだ母屋に留まりお茶を煎れるのに手こずっていた。
「あつっ!!」
沸かしたお湯を入れてすぐの急須の蓋を思いっきり掴んでしまった瑠璃は慌てて手を放した。
ガチャンッ
落ちた急須の蓋がけたたましい音を立てて床に飛び散る。
「あぁ・・・」
瑠璃は慌ててしゃがみ急須の欠片を拾い集める。
集められた欠片はかちゃかちゃと音を立てている。
「おい、お前。」
瑠璃が振り向くとそこには初五郎が立っていた。
「は、はい・・・」
足音もなく忍び寄った初五郎に急に話かけられて瑠璃は飛び上がらんばかりに驚きながら返事をした。
「あ、あの・・・すいません。急須が熱くて・・・」
瑠璃は初五郎に急須を割った所を見られて怒られると思ったのだろう。
しどろもどろになりながら事情を説明する。その様子を眺めながら初五郎は目を光らせた。
「お前・・・瑠璃とか言ったな。」
「はっはい、先月東京から参りました。萩野瑠璃と申します。ここに長く勤めている叔母の萩野梅の縁で働かせて頂いております。」
初五郎は何も言わない。
ただ、瑠璃をじっと見るだけだ。
舐め回すような視線に瑠璃の小さい体は更に小さくなる。
「あ・・・あの・・・」
初五郎が一歩ずつ瑠璃に近付いていく。
「・・・初五郎様?」
怯える瑠璃の大きく丸い瞳には不敵に笑う初五郎が写っていた。
今回は永久子の中にある永久子自身が気付いていない心の闇を少し書いてみました。
孤独でない人間は一人もいないと思います。
ただ、その孤独の度合いが違うだけなんです。きっと。