第十一章 「帰宅」
とうとう初五郎が家に帰る日となった。
重造に会えるのを心待ちにしている梅と違い、永久子は初五郎に会うのが嫌で仕方がない。
仕方なく玄関に迎えに出るが・・・
永久子は渋く色の入った橙色の帯に手をやり、きつく締め直す。
帯の色に合わせて淡い黄色の着物もしっかりと皺を伸ばし鏡の方を振り返る。
鮮やかな温色でまとめた永久子はぱっと華やかに見える。
きっちり結った髪も崩れてはいない。
この格好ならどこに行っても恥をかかず、誉めそやされるはずだ。
だが、永久子の顔は暗い。
今日は久し振りに天気も良くなったというのに永久子の白い顔には影が見える。
永久子は鏡の中の自分と目が合った。
鏡の中に映る自分は何という顔をしているのだろう―
まるでこれから冥土に行くような表情だ―
永久子の憂鬱の原因はもうじき訪れる初五郎だった。
東京での仕事を追え、昼までには重造と一緒に帰ってくることになっている。
今か今かとそわそわ落ち着きのない梅と違い、永久子は嫌で仕方がない。
「またあの男に会うのか・・・」
永久子はぼそりとつぶやく。
この数日の間、永久子は幸せだった。
夕時にどやされることもなければ、嫌味をつらつらと垂らされる事もない。
気分によって叩かれたり、あの鋭く嫌味な目つきで睨まれる事もない。
あぁ、何故後もう少しそのままの生活でいさせてくれなかったのだろう。
誰を恨むでもないが、恨めしい。
永久子はふぅと息をつき、また息を大きく吸い込む。
背筋をしゃんと伸ばし、襖を開けた。
すぐそこには梅が立っている。
早く迎えに出たくて溜まらないという表情が全面にでていて永久子はくすりと笑う。
「先に玄関に行っていて良かったのに。早くお出迎えの準備して頂戴。」
「は・・・はぁ、でも永久子さんが・・・」
「私の事はいいから。さ、早く。」
「はい、では失礼・・・」
最後まで言い終わるかどうかの内に梅はばたばたと行ってしまった。
永久子にとっては憂鬱でたまらない出迎えも、梅にとっては待ちに待った恋人に再会できる日なのだ。
それに比べて自分はどうだろう。
夫に会うというのにこの顔だ。
しかし、そんな事を言っている暇はない。
初五郎が帰ってくる。
もし機嫌が悪ければ、梅か自分にあたるだろう。
だが、梅は重造を心待ちにしていたのだ。
そんな梅が初五郎に手をあげられるのは可哀想だ。
今日は代わりに自分が初五郎の相手をしなければ。
足が急に重くなった様に感じる。
だが行かねばならない。
何事もなかった様に玄関に出ると、そこには汗だくになった重造が帰ってきていた。
「いやぁ〜、蒸す蒸す!!たまらん!!
こっちゃ雨が降ったんか?空気が湿っちょる!!」
今すぐにでも着物を脱ぎたいと喚く重造を梅は嬉しそうに迎える。
「よぅお帰りなさいました。お疲れでそう。
お湯沸かしておりますけぇ。それとも何かお食べになります?」
「うん、風呂だ風呂。風呂と飯だ。どっちもだ。」
「はい、今すぐ用意しますけぇ。」
重造はにこにこしながら梅に鞄を預ける。
「よう守ってくれたな梅。お前がこの家にいると安心して仕事ができるなぁ。」
「有難うございますぁ。」
あぁ、と永久子は息を漏らした。
何と幸せそうな二人だろう。
お互い慕い合っているとこうも柔らかい空気が流れるのか。
自分にはこんな相手がいただろうか・・・
わからない。忘れてしまった。
いいや・・・いなかったかもしれない。
「・・・お帰りなさいませ。お義父様。」
「おぉ!永久子さんか!!相変わらず美しいのぅ。
初五郎はもうすぐ着くぞ。」
「そうですか。」
初五郎はまだ着いてなかったのか。
だが、もうすぐ帰ってくるのかと思うと、また気分が悪くなる。
「顔色が悪いぞ永久子さん。どうかしたんかねぇ?」
「・・・いいえ、何もありませんわお義父様。
それよりせっかく我が家に帰って来たんですからどうぞゆっくりなさってください。」
「そうさせてもおうかね。今日はいやに疲れたからこのままぐっすりだろう。」
「そうですね。私はこのまま初五郎さんを待ちますから。どうぞごゆっくり。」
永久子はにっこり作り笑いをする。
この顔をすれば大抵の人間はころっと騙されてたちまち上機嫌になる。
「おぅ、すぐ来るから待っちょってくれ。もう少しじゃ。」
そう言うと重造は汗だくでふうふうと息切れしながら梅の後についていった。
重造を目で見送ると、永久子はふいと玄関の方を向く。
本当だったら自分も部屋に戻りたいぐらいだが、そうはいかない。
今日は初五郎の機嫌を取らなければならないのだから。梅の為に。
視線を落としながらそんな事を考えているとじゃりっと砂をにじる音がした。
「あぁ、待っていたのか。これは意外だったな。」
そこには、重造とは逆に涼しそうに立つ初五郎がいた。
同じ道を通ってきたとは思えないぐらい汗一つかいていない。
いつも通りに視線を見下すようにこちらに向け、やややつれたようにこけた頬は、めったに上がらない口角と繋がっている。
着物で帰ってきた重造と違い初五郎は深い紺色のスーツを着ていた。
ただでさえ細い初五郎の身体がますます細く見える。
「どういう風の吹き回しか知らないが・・・鞄でも持ってもらおうか。」
数日振りに会った妻にこんな事を言うのだからこの男もまた相当自分に興味がないのだな、と永久子は実感する。
暫く初五郎といてわかった事だが、初五郎は永久子のような女を大層嫌いなようだった。
初五郎は人を見下す事を好む。まして女など、どんな優れた才を持っていようと自分の上に立つなど許さないと言った扱いだ。
だが、永久子はそれをはいはいと言って従うような女ではない。
それでもその内側にある勝気な一面は隠しているつもりだった。
現に永久子は初五郎と話しているときに一度だって歯向かうような態度を見せたことはなかったし、良く回るその頭でやつれて気味の悪い初五郎の顔に青筋を立てるような挑発や言い負かしなどをしたこともなかった。
だが、初五郎は嗅ぎ付けたのだ。
この女は寡黙で従順な女などではない―
見た目こそしとやかそうに見えるが、何か自分に対して企んでいるに違いない―
そう嗅ぎ付けた初五郎はすぐさま横柄な態度に変わり永久子をいびるようになった。
永久子にとってそれはたまらなく屈辱であったが、どうする事もできない。
自分の堪忍袋の緒を切ってしまう事は簡単だ。
だが、それでどれだけの人間に迷惑をかけるか永久子は知っている。
それを思うと、まだ踏み止まれる自分がいた。
「承知いたしました。お疲れでしょう?食事の用意がしてありますわ。先にそちらになさいますか?」
そう言って永久子は先程と同じようににっこりと作り笑いを浮かべ、初五郎を座敷へ連れて行った。
2ヶ月近く更新せずに誠に申し訳ありませんでした↓↓
8月いっぱい海外にいっていたのと、試験期間だったのでお休みさせて頂きました。
連絡する暇がなくて本当にすいません。
今度また間が空く時はちゃんと連絡しますので今後もよろしくお願いします。
話は自分の頭の中でぼちぼち進んでおります。。。
見捨てずにたまに見ていただけたら嬉しいです!