第十章 「親戚」
雨の中詩を詠む永久子。
梅に瑠璃の事について聞くが・・・
雨の音で目を覚ます。先程まで熱心に詩を詠んでいた永久子は一息ついたまま少し眠ってしまったらしい。
遠くから味噌汁や煮物の薫りが漂ってくる。もうそろそろ夕食だろうか…
雨の湿気のせいで気だるい空気が部屋に流れ、永久子はまだうつらうつらと目が覚めない。
そこに梅の声がした。
「永久子さん、夕飯支度整いましたけども…」
「…有難う、梅。」
寝惚けた声を出すと、梅がすぐに襖を開けた。
「お加減どうなさぁました?具合でも悪いんでは…」
心配そうな顔で梅が傍に来る。
「何でもないわ。少し眠っていただけなの。」
「ほんつに大丈夫ですか?何かお薬お持ち致した方が…」
梅は本当に私を大事に思っているのだな、と永久子はくすりと薄く笑った。
「気にしないで頂戴。本当に眠っていただけだから。それよりお腹が空いたわ。おいしいご飯でも頂こうかしら。」
その顔を見て梅は安心したように安堵の笑みを浮かべる。
「すぐ用意しますけぇ、お待ちくだしぁね。」
そういってちょこちょこと部屋を出ていく梅の姿はやはり瑠璃に似ていた。
初五郎のいない部屋での食事に永久子はふうと安堵の息が漏れる。
こんなにゆっくり夕飯に箸を動かすのは久しぶりだ。
初五郎は永久子のする事全てが気に入らないとでも言うように色々難癖をつけてくるので、心休まる時などあったものではない。
「お茶のおかわり用意しますけぇ。」
梅が隣でせっせと働いている。
初五郎の件を我慢すれば、この生活も中々かもしれない。
雨の湿気のせいか梅の首にうっすらと汗が見える。
そのうなじをみて永久子はふとある事を思い出した。瑠璃の事だ。
「…ねぇ、梅。」
「はい、何でしょ?」
くるりと振り返った姿が更にあのくりくりした目の少女・瑠璃にそっくりだ。
「今日用事があってあなたを呼んだのよ。そしたら、新しく来た瑠璃と言う子が来てね。大きな目の綺麗な髪の子よ。その子がどことなくあなたに似てたの。仕草なんか特にだったわ。」
「あぁ、瑠璃ですか。」
梅はにっこり笑った。
「あの子は一昨日からこちらに勤める事になりまして。私の姪なんですぁ。姉の娘でとにかく器量が良くて。向こうで良い学校出たっちぃのにどこにも嫁に行きたくねぇとだだこねまして。東京なんかより田舎が良いというんでしょうがねぇとこちらに勤めさせる事にしたんでぁす。ほんつに変わった子ですぁ。」
二人は親戚だったのか―それならばどこか似ている顔立ちや仕草にも合点がいく。
「私が重様に話ししんたらぁ、こっち来させたらどうかといってくだすったんですぁ。」
梅の顔はすごく幸せそうだ。
本当に重造を慕っているのが分かる。
「あなたは本当にお義父様の事を好きなのね。」
梅が顔を真っ赤にする。
「はっ・・・はぁ、とんでもござぁ・・・い、いえ。確かにお慕いしておりゃす。で、ですが、そのぉ・・・」
取り乱した梅はわけの分からない言い訳を並べている。
素直にはいと言えない初々しさに、永久子は梅を自分より年が下の娘子にしか思えない。
そんな梅の様子が永久子は可笑しくて堪らない。
「梅ったら耳まで真っ赤だわ。そんなに慌てなくても良いのに。」
「はぁ、すいません・・・」
梅はまだ恥ずかしそうだ。
こんなにもうきうきとした恋の一面を見せる梅を可愛らしいと見る自分と、少し羨ましいと思う自分がいる事に永久子はふと気付く。永久子は少し動揺した。
瞳に僅かに暗い色が広がる。
(もう自分には必要のない感情なのだ。この感情によってどれだけ自分が傷つけられたことか・・・)
永久子はその思いを振り払った。今の自分にとっては煩わしい感情だ。
恋など・・・愛など、今の私には無縁であり必要のない感情なのだ。
恋は女を輝かせる素晴らしいものだと、愛は人を豊かにさせる尊いものだと心の中では分かっている。だが、今の自分にそのような単純であり、だが扱いの難しい感情を支配できる力があるようには思えない。恐いのだ・・・恐れている。愛を。恋を。
まして、初五郎相手にそんな感情を出せという方が難しい。
永久子は何事もなかったかのように、明るく振舞う。
「そうなの。だからかしら?あなた達二人と言ったら本当にそっくりなのよ?何が似てると言ったら分からないけど・・・そうね、やっぱり目と仕草だわ。他の女中にも聞いて御覧なさい。きっとそう言うわ。」
「はぁ、実はもう何人かに言われてまして。そんなに似てるでしょうか?」
「えぇ。あの娘を見てすぐにあなたが思い浮かんだもの。」
永久子はふふっと笑った。
部屋からは珍しく永久子の笑いが漏れている。
永久子にとって久しぶりの楽しい食事だった。
だが、永久子の笑いの後ろに影が近づいている―
明日には初五郎が帰ってくるのだ。
ようやく十章です。
中々話の進まない所です・・・