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「氷結」カルテット番外編  作者: 椎堂かおる
1/3

前編

 族長に拝謁するため訪れた広間(ダロワージ)は、懐かしい華やかさに満たされていた。気安い楽の音が漂う赤い広間に、王族と廷臣たちが居並び、進み出て跪く者たちに族長は玉座から労う声をかける。

 族長リューズ・スィノニムは、人を誉めるのがうまい。宮廷はいつも功を争い、神殿に詣でるように玉座にそれを捧げ、リューズが微笑んで、よくやったと言うのを待った。

 今日は自分もそういう一人だ。

 エル・ジェレフは拝謁の順序が回ってくるのを待ちながら、見るともなく王族の席を眺めた。いつも空白だった末席に、座っている者がいた。

 驚きの声を漏らそうと、唇が薄く開いたが、結局声は出なかった。

 帰ってきたのか、と、ジェレフは頭の中でだけ呟いていた。

 人質としてタンジールを発ったスィグル・レイラスが、玉座に連なる血族の席にいた。父親と話す人々の姿をじっと興味深げに見守っている彼の姿は、ジェレフが見知っていたものより、ずいぶん成長したように見えた。

 震えながら出ていった幼子は、自信ありげな少年の面構えで戻ってきた。

 同盟の子供たちか。彼らの異名をジェレフが心の中に反芻したとき、玉座に侍る侍従が呼ばわり、ジェレフに自分たちの順番が来たことを告げた。

 進み出て、定められた位置に跪き、エル・ジェレフは族長に平伏した。顔をあげると、族長リューズはいつものように、淡く微笑んでいる。しかし、いつもより格段に機嫌がいいようだった。

 それはそうだろう。息子が帰ってきたのだから。

「領境からの長旅、ご苦労だった。活躍は王都まで聞こえていた」

 同盟による平和で、暇にまみれている竜の涙たちを、族長は頻繁に地方に派遣した。なにかと役目は言いつけられたが、それは結局、気晴らしの物見遊山の旅だった。

 辺境の町や村を巡り、必要があれば癒やせと命じられ、治癒者を集めてジェレフはこれまで戦場のほかに見たこともなかった部族領のそこかしこへ出かけていった。どの土地の者も、英雄譚(ダージ)に聞こえる竜の涙たちの訪れを、心から喜んでくれた。タンジールで憂さを囲っていた英雄たちにとっては、気の晴れる日々だった。

「久々のタンジールで寛ぐがいい、我が英雄たちよ」

 そなたらは王宮の至宝。そう囁くこの人の声はいつも甘い。

 糖蜜で飼われる虫のように、王族も廷臣も、この人の言葉に群がっている。竜の涙もそうだ。少なくともこの自分は、今この瞬間の栄誉に心底酔っている。

「戻られたのですね」

 スィグルのことを、ジェレフは小声で手短に尋ねた。

 族長はうっすらと笑った。

 日頃あまり愉しむことがなく、美しい作り笑いを浮かべているのが常の顔に、今ばかりは本心からの笑みのように見えた。

 早く行け、というように、侍従が次の者たちの名を読み上げた。朝儀はまだまだ続く。ジェレフは去り際の平伏をして、その場を辞した。



「エル・ジェレフ」

 回廊で行き合ったスィグルは、満面の笑みだった。

「お帰り」

 どちらも同じ挨拶をして、ジェレフはスィグルと握手をした。子供の頃のように、頭を撫でてやるにしては、スィグルは育ちすぎていた。

「いつ戻ったんだ」

 よくぞ無事で戻ったと褒め称える調子で尋ねると、スィグルはどこか恥ずかしそうに、結い上げた黒髪の生え際あたりを指で掻いた。

「ひと月前だよ。ジェレフは留守だった」

 そこはかとない非難を感じて、エル・ジェレフは苦笑した。スィグルにすれば、長い苦難のあと、やっと戻った故郷には、自分を懐かしむ人々がこぞって待ち受けているものと信じていたのだろう。

「君の父上の命令で、領境を見回りに行っていたんだよ」

「森があふれやしないかと父上は心配なさっている。でもそれは取り越し苦労だ。もしそんな恐れがあれば、事前にわかる」

 自信ありげにスィグルは言った。

 彼には領境の向こう側に友人がいるからだった。同盟の子供たちだ。

 四部族に和平をもたらした彼らのことを、人々はそう呼び習わしている。

 スィグルの口ぶりには、彼が他の同盟の子供たちと、個人的な友誼を持っていることが匂っていた。

 それは良いことだった。スィグルにはこれまで、友人といえるような相手がほとんどいなかったからだ。幼い頃は双子の弟とべったりと一緒に過ごし、その弟が病みついてからは、人を拒んで孤独に過ごしていた。

 あのころの顔と比べると、いま目の前にいるスィグルは、ただ成長したというだけでなく、何かから解放されて、前に進み始めたような気配をしていた。

 これからはこの王宮の中にも、親しい相手ができるだろう。元来、人懐こい性格だったのだから。

 将来のためにも、そうするべきだった。王宮内でのスィグルの序列は低く、彼を支える派閥は痩せ細っている。力のある者たちを一人でも多く味方につけて、継承争いに備えるべきだ。

「これからどうするんだ」

 ジェレフは暇そうに見えるスィグルに尋ねた。

「決めてないよ。部屋に戻ってスフィルの遊び相手でもするか」

 複雑そうに言うスィグルの顔を、ジェレフは作り笑いして見下ろした。彼の双子の弟は、結局回復しなかった。肉体は健康になっても、心はばらばらに砕けたままで、幼子のように過ごし、時々発作的に恐慌した。

 かつては頻繁だった恐怖の発作のたびに、スフィルは兄を呼んで泣き叫んだものだったが、近頃はそういうことは減っていた。今は父親とべったりだ。ここしばらくの不在の間に、その状況が変わったとは思えなかった。

 戻ってきたスィグルを、あの弟は、どのように迎えたのだろう。ジェレフにはそれが、少し心配だった。

「よかったら俺たちの部屋(サロン)に来るか。これから帰郷の祝いを兼ねて、みんなで飲むから」

「行っていいの」

 スィグルは一緒に付いて来たそうにしている。

 物見遊山にあぶれた者たちに小突かれながら、土産をばらまく約束になっていた。集まるのはジェレフと同じ派閥に属する竜の涙ばかりで、ほかの王族が来るとは思えなかったので、前触れなくスィグルを連れて行っても、さしたる不都合はなさそうだ。

 こういう機会にスィグルを、あるじを持たない連中と引き合わせておくのは、悪くない考えだった。スィグルには、ジェレフのほかに親しくしている竜の涙がいないからだ。かつて長老会の一人だったエル・イェズラムは、スィグルに目をかけていたが、彼ももう王宮から去って、墓所におさまってしまった。

「トルレッキオの話をしてくれよ」

 ジェレフは頼んだ。するとスィグルは、嬉しそうな顔をした。

 屠られる仔牛のように哀れに引っ立てられて行った先は、そう悪い場所ではなかったらしい。それに安堵しつつ、ジェレフは微笑み返した。



 世の中には様々な魔法があるが、スィグルが紙の上に描くものも、一種の魔法だった。

 床に寝そべっているスィグルが、鵞鳥の羽根をさらさらと紙の上に滑らせると、何もなかったところに、皆が見たことのない異国風の建物が精密に描きだされていった。

 部屋(サロン)に集まった連中は、床の円座から身を乗り出して、面白そうにそれをのぞき込み、あれはなんだとか、これはどうなっているのだという勝手な噂話にうち興じている。

「これが学寮で、となりには学棟がある。そこで半日は教授の講義を」

 学生たちが椅子に座って席についているのに囲まれて、壇上にいる大人がなにか話しているらしい絵を見せて、スィグルは説明した。

「こんな人数にいっぺんに教えるのか。野蛮な連中だ」

 あきれ果てたように、竜の涙の一人が言った。タンジールの王宮では、教師は精々が二、三人の子供を相手にして、じっくりと教育をほどこすのが普通だった。

「たいして教えることもないんだろ。山の連中が大人になるまでに学ぶべきことといったら、丸太の振り回し方と、それからなんだ、馬から落ちる時の叫び方か?」

 一人がそう言うと、皆、身をよじって笑った。

 皆、酒か麻薬(アスラ)に酔っていた。気晴らしの宴席だから仕方がないが、スィグルはぽかんとして、騒ぐ彼らを見上げている。

 まずかったか、と、ジェレフは内心でそう思った。いい機会だと思ったが、まさか自分を待たずに土産の酒樽が四割方飲まれているとは、思いも寄らなかった。こらえ性のない連中だ。

「ジェレフ、トルレッキオは皆が思っているほどには野蛮じゃないよ」

 筆を止めて、スィグルはどこか困ったように言い訳をした。ジェレフは彼の隣で、何度も頷いて見せた。

「向こうには向こうの文化があるのさ。タンジールには敵わないけど……」

「楽しかったか」

 尋ねると、スィグルは視線を部屋のあちこちに巡らせ、意外に長く答えを悩んでいた。やがて顔を歪めて、スィグルは言った。

「まあね。時々はね」

「どういう時が」

「どうって……なんとなくだよ、なんとなく時々」

 困ったように、スィグルは言葉を濁した。いい答えのように、ジェレフには思えた。いつということはなく、なんとなく常に楽しかったのだろう。そういう時間が必要だ。胸を張って生きていくためには。

「天使には会えたのかい」

 深く考えず、ジェレフは尋ねた。スィグルはぎょっとした表情をした。

「天使って、なんのことだよ」

「……天使に会いたくてトルレッキオに行く決心をしたんだと思ってた」

 そう教えると、スィグルはしばらく、あ然とした顔をして、それから渋面になった。何も答えず、空いていた紙になにか書き始めたスィグルを、ジェレフは戸惑いながら見下ろした。

 羽根ペンの先が紙に描き付けているのは、ひとりの少年の姿だった。山エルフのような(なり)をしているが、スィグルは正神官の髪型をした絵の少年の額に、小さく丸い点をつけた。

 神殿種だった。

 ジェレフは静かに驚いて、スィグルが差しだした紙を受け取り、ほかの誰も見ないようにしながら、絵を眺めた。

 神殿種の絵を描くことは反逆だとされている。

「天使ってこんなのだったよ、ジェレフ」

 絵の中の聖刻を持った少年は、うるさそうな顔でこちらを見ていた。今にも口を開いて、あっちにいけと言いそうだ。

「天使ブラン・アムリネス?」

 それ以外に考えられなかったが、ジェレフはスィグルに確かめた。

「そうだよ。シュレー・ライラル・ディア・フロンティエーナ・ブラン・アムリネス」

「呼び捨てるな。誰が聞いているか分からないんだから」

「でも本人が呼び捨てにしていいって言ってたよ」

 ため息をついて、ジェレフはスィグルが描いた絵を折れないように丸めた。折りたたむのも燃やすのも、細かく千切るのも、どれもまずい気がして、始末に困った。たとえ落書きでも、神聖なものの絵姿だ。

「こんなもの描くべきじゃないよ、スィグル」

 年長者の口調で説教をすると、スィグルはさも可笑しそうに小さく吹き出した。

「ジェレフってそんなに信心深いほうだったっけ?」

「そういう問題じゃないんだ。自分の身を守れという話だよ。不敬罪に問われたらどうするんだ」

「懺悔するよ、ブラン・アムリネス本人に」

 ジェレフの手から巻き紙をとりあげ、スィグルはあっと止める間もなく、それを粉々になるまで千切った。紙吹雪を撒きちらしながら、あっけにとられるジェレフを、スィグルは面白そうに眺めた。

 人は変われるものだということか。ジェレフは内心深く驚いていた。

 人質としてタンジールを出る前のスィグルには、とてもこんなことはできなかっただろう。

 笑っていたスィグルが、ふと気を引かれたように、部屋(サロン)のすみのほうへ目をやるのに、ジェレフは気づいた。不思議そうに瞬く目で、スィグルは眺めている。

 その視線が向けられたほうを振り返ってみて、ジェレフは思わず短く呻いた。

 すっかり酔っぱらい、出来上がった連中のうちの二人が、部屋を飾る円柱によりかかって座り、抱き合って口づけを交わしていた。享楽的にすぎる竜の涙たちが集まる場所では、特に珍しい光景ではなかったが、目を背けずに凝視するようなものでもなかった。

 ジェレフはそばにあった絹のクッションを、柱のほうへ思いきり投げつけた。

「よそでやれ」

 予想もしないことだったのか、抱き合っていた二人はぽかんとしてこちらを見つめ返した。

「そうだ昼間っからなにしてるんだ」

 ジェレフの声で事に気づいたらしい他の連中が、面白がって、そこらじゅうにあったクッションやら酒杯やらを、彼らに投げつけはじめた。

「破廉恥なやつらだ」

「お前らだけ楽しむな、酒を飲め」

 笑いながら物を投げ合う連中を、ジェレフは額を押さえて眺め、おそるおそる隣に目を戻した。

 スィグルはまだ、ぽかんとしていた。

「あれなに」

「枕投げか」

「その前のやつ」

 なぜか自分にまで飛んで来たクッションをとりあえず受け止めて、ジェレフは困った。

「やつらは、できてるんだ」

「それどういう意味」

(デン)(ジョット)なんだ」

 竜の涙たちには序列はないが、先にいたものが後から来た者の世話をしてやる習わしがあり、先輩のほうは兄で、後輩のほうは弟だった。それは単純に世話役を意味する呼び名だったが、時にはそれ以上の関係を示して使われることもあった。

 竜の涙には、男も女もいたが、みな同等に扱われたし、男でも女でも兄は兄で、弟は弟だった。王宮に仕える者たちや、時には王族に手を出しても、竜の涙ならば、ちょっと気の利いた恋愛物(ロマンス)として宮廷詩人たちを喜ばせるばかりで、非難されることはない。それをいいことに、魔法戦士たちはみな頻繁に享楽に耽ったし、時には仲間どうしに唾を付けることもあった。でも長続きはしない。いっときの遊びだ。

「誰か詩人を呼んでこい。やつらを玉座の(ダロワージ)に晒してやれ」

 酔っぱらった誰かが、ふざけてそう言った。冗談ではなかった。その場に居合わせれば巻き込まれる。勝手に名前を使われて、宮廷となく市井となく、とんでもない話を伴奏つきで撒きちらされでもしたら、目も当てられない。

「よそへ行こう」

 ジェレフは寝そべったままのスィグルの腕をつかんで立たせた。

 宮廷詩人たちは王族でも遠慮なく名前を使う。スィグルは異国から戻ったばかりで、話題も多く、詩人たちにとって面白い名前のはずだった。

 人脈をつながせるつもりが、とんだ醜聞がくっついてきたら、目もあてられない。

 泥酔したものの体を踏み越えて、ジェレフは興味深げに振り返っているスィグルを、部屋(サロン)から連れ出した。



 天使か。

 スィグルを連れて聖堂の前を通り抜けながら、ジェレフは反芻した。

 礼拝の時間ではない聖堂の近辺には、ほとんど人の気配もしない。近道のために通り抜けていく者がちらほらいるくらいで、がらんと幅広な通路は静まりかえっていた。

 高い天井に、足音だけが響いている。

 スィグルはなにか考え込むふうに押し黙り、おとなしく半歩遅れてついてきた。

 行く宛がなかったので、ジェレフはやむなく、広間(ダロワージ)に向かっていた。王宮のちょうど中心に位置する玉座の間は、そこを経由すると、どこへ行くにも都合が良かったし、広間自体が、この王宮で最大の社交場(サロン)だった。誰彼となく人恋しくなれば、皆そこへ行く。

 通り過ぎる聖堂の大扉を、ジェレフは顔を向けて見送った。

 スィグルが虜囚の身から救い出されすぐ、まだ頻繁に治療が必要だったころ、せがまれてよくここへ連れてきた。

 弱っていた体が、治癒の魔法で回復し、一時的に気が大きくなるせいか、普段は王宮の自室から出ることも恐れていたスィグルは、聖堂へ連れて行けと求めた。

 あんまり真剣にそう頼むので、可哀想になって、ジェレフは敷布でくるんだスィグルを抱きかかえて、この聖堂まで何度か通った。あのとき自分に縋り付いていた、痩せ細っているが、異様に力強かったスィグルの腕の感触を、今でも思い出せる。

 何をするのかと危ぶんでいると、聖堂の薄暗がりに降り立ったスィグルは、よろめく足取りで、聖像のひとつに寄りすがり、いつまでも飽きもせず、なにか祈り続けていた。

 天使ブラン・アムリネスの像だった。

 守護天使に祈っているのだろうとジェレフは思っていた。

 確かにあの頃は、スィグルにしろスフィルにしろ、大きな救いの手が必要だった。

 ジェレフ自身には、実のところあまり信心がなく、慣習に従って型どおりの礼拝をするだけだったので、いつまでも祈り続けるスィグルは異様に思えた。

 体調に障らないよう、いつもくどくどと説得して連れ帰らなければならなかった。

 あの時。胸を射抜かれた姿をした巨大な白磁の像の足に縋り、スィグルはなにを祈っていたのだろう。祈りの言葉は聞こえなかったが、赦しを乞うているように見えた。

 そんなことが、たびたびだったので、人質に行くことを承知したのは、トルレッキオに天使ブラン・アムリネスがいることを知ったせいだと信じていた。像に祈るのはやめて、生きて動いている本物のほうに、会うことにしたのではないかと。

 ジェレフはスィグルが先程描いていた、天使の姿だという、聖刻を持った少年の絵姿を思い返した。

 あれがブラン・アムリネス?

 今まで深く考えたことがなかったせいか、神殿種の天使が少年の姿をしているということに、ジェレフはしっくりこなかった。神殿種は転生を繰り返しているというから、時期によっては子供の姿でいるのかもしれないが、それにしてもあれがブラン・アムリネスとは。

「ジェレフ」

 唐突にスィグルに呼び止められ、ジェレフははっとした。

 振り返ると、少し前から立ち止まっていたらしいスィグルが、いくらか後ろに佇んでいた。

「聖堂に寄ってみてもいいかい」

「ひとりが良ければ、俺は先にダロワージに行っておくよ」

 尋ねると、スィグルは小さく首を横に振ってみせた。一緒に来いという意味らしかった。

 大扉を開くと、中は薄暗がりだった。白い磁器のタイルで装飾された丸天井の室内は、だだっ広く、礼拝のときには大勢が集まって跪けるように、鈍い赤の絨毯が敷かれているだけで、中央の祭壇と、壁際を丸くとりかこむ天使像の他は、がらんとして何もなかった。

 丸天井には室内の明かりを星のように輝かせるため、小さな鏡が沢山はめ込まれており、天使像の背後にある壁にも、広い聖堂をさらに無限の広さに見せかけるために、継ぎ目のない巨大な一枚鏡がはめ込まれている。

 ここに来ると、ふとした瞬間、自分の位置がつかめなくなり酔うような感覚がする。部屋の明るさは、暗視にならないぎりぎりの薄明かりで、それも視覚を混乱させた。

 そのように設計されている建物なのだろう。

 スィグルは迷うわけもなく、以前通い詰めていた、天使像の前に歩み寄った。静謐なる調停者は、いつもと変わらず、胸を射抜かれて(くずお)れる直前のような姿で、壁のそばに建っている。その足に触れ、スィグルはじっと、自分の背丈よりずっと上にある、天使の白い顔を見上げた。

「ぜんぜん似てない。どうしてこんなもんに祈っていたんだろう」

 呆れたような声で言い、スィグルはこちらに戻ってきた。彼が以前のように額ずいて祈るのかと思っていたので、ジェレフは拍子抜けした。

「ジェレフ」

 すぐ目の前に立って、スィグルは折りいった話のように、話し始めた。

「さっきのだけど」

「さっきの?」

(デン)(ジョット)

 こんなところで蒸し返す話題と思えず、ジェレフは情けない顔で頷いた。神官がいなくてよかった。

「ジェレフにもいるの」

「どういう意味で」

 ますます情けなくなり、ジェレフは尋ねた。同じ派閥に属していたり、同じ治癒者であったりという理由で、面倒を見ている(ジョット)たちは何人かいた。そういう意味では、ある程度の年齢に達している竜の涙で、(ジョット)のいない者などいなかった。

 でもスィグルが聞きたいのは、そちらの弟のことではないのだろう。分かっているが、興味本位で聞かれると、答えにくかった。

「ジェレフも柱の陰でああいったことをする相手がいるのかという意味だよ」

「ああいうのは普通は人前でするようなことじゃないよ」

「人前でないところでする相手ならいるの」

 逃げようとしたが回り込まれた。ジェレフは観念して、気まずさを紛らわせようと、自分の顎に指をやった。

「今はいないよ。長い旅から戻ったばかりだし」

「……それってどういう意味? 旅に出ると、どうしていなくなるのさ」

 失言だった。ジェレフは、不可解そうに顔をしかめるスィグルから、仰向いて目をそらした。聖堂の薄暗い天井には、灯火を映した鏡が星のように瞬いている。

「うぅん……(デン)(ジョット)の関係は、タンジールにいる間だけだから」

「どうして?」

「待ってられないからだよ、帰ってくるかどうか分からないんだし」

 同盟の今はともかく、竜の涙が王宮を辞すのは、戦場へ赴くためだった。死んで帰ってこない者もいるし、ひとたび出征すれば、何ヶ月も戻らないのが普通だ。その間、王宮に残される片方がいれば、普通は関係を解消して、別の相手を求めるものだった。

 それでなくとも、広間(ダロワージ)で生まれた恋は、翌朝までのものというのが、竜の涙たちの普段の暮らしだ。

 その話を、幼髪を落としたばかりのスィグルにするのは面はゆかった。いずれ自然に分かればいいことだ。そういうことにして欲しかった。

「じゃあ、ジェレフは今、(デン)でも(ジョット)でもないわけだ」

「そうだけど、とにかくダロワージまで行かないか」

 話をそらそうとして歩き出し始めたジェレフの髪を、スィグルが思い切り引っ張った。

「いたたたたた」

 結っていなかった垂れ髪を、手綱のように容赦なく引き寄せられて、ジェレフは思わず屈んだ。その(くび)をとらえて縋り付き、スィグルが奪い取るような口付けをしてきた。

 ジェレフは困ったが、驚きはしなかった。ここに来るだいぶ前から、そんなような事を狙っている気配がしていたからだ。たぶん自分もしてみたかったのだろう。

「やめとけ、いくらなんでもここはまずい」

 言い訳をして、ジェレフはスィグルを引き剥がそうとした。

 そうすると、スィグルはまだまだ細身の腕に力をこめ、がっちりと抱きついてくる。

 その感触は、以前ここへ運んできた、弱り切った子供だったころのスィグルをジェレフに思い出させた。獲物を掴む猛禽のように、容赦のない力で縋り付いてくる子供。

 治癒の力を使うためには、相手の体に触れなければならず、人を恐れて逃げまどう双子を捕まえるのに、随分苦労した。泣き叫ばれると気が咎めて(くじ)け、情けなくて止めてしまおうかと度々思った。やがて彼らの信頼は得られたが、そうなると今度は、命綱にしがみつくように、強く抱きついてくる痩せた体を、無理矢理引き剥がして去らねばならないのに、毎度気が滅入った。

 ダロワージの恋は一瞬の華よ。皆そんなことを言っている。実際そうだとジェレフも思っていた。自分と抱き合った腕が、これほど強く求めてくることはない。竜の涙が求めるのは、一時の情欲を満たせる相手か、死の恐怖をまぎらわす一瞬の夢かだ。

 理屈抜きの保護を求めて、自分を強く抱くスィグルの腕に、一瞬ジェレフは酔い痴れそうになった。

 抱いてもいいのではないか、王族でも構わないのだから。英雄たちにはそれが許されている。拒む者はいない。まして本人がそうしろと求めているのだから。

 ふと目を向けると、聖堂の壁面を覆う鏡に、抱き合っている自分たちの姿が亡霊のように映されていた。

 滑稽な姿だった。ジェレフはその有様を、しばらく横目に眺めた。自分の中で酔いかけていたものが、急激に萎えていくのが感じられた。

 竜の涙にはそうでも、石を持たない者たちにとって、ダロワージの恋は一瞬のできごとでは収まらなかった。情事の挙げ句の醜いごたごたはいくらでもあった。

 ジェレフはそのようなものに身を浸したくなかった。そして、今まで守ってきたものを、そんな泥沼に付き合わせるのもご免だ。

 ジェレフはスィグルの性格をよく把握しているつもりだった。いったん崩れ落ちると、歯止めがきかない。無限に自分を受け入れる相手を、この子は求めるだろう。その相手をするのは、ジェレフには恐ろしかった。

 いずれ死なねばならない。英雄らしく。そのとき諦めきれるのか?

 どうだろうなあ、とぼんやり呟く自分の声が、内奥から聞こえた気がした。

 受け入れるでも、突き放すでもないジェレフを不思議に思ったのか、やがてスィグルが顔を上げて、じっとこちらを見た。天使像を見上げる時と、同じ視線だった。

「もうダロワージに行っていいかな」

 静かに問いただすと、スィグルは急に我に返ったように、ぱっと体を離して、一、二歩後ずさった。

「行ってどうするのさ」

 スィグルの顔は真剣な無表情だったが、その声は拗ねていた。

「さあ。ほかに行く宛がないからさ」

「じゃあもう僕は帰るよ」

 スィグルは尊大に告げた。頭に来ているらしかった。

 ジェレフは苦笑した。

 勘のいい性分だから、まったく脈がなかったわけではないことは、気付いたのだろう。それで余計に怒っている。

 足早に聖堂を出ていくスィグルを、ジェレフは仕方なく、ゆっくりと遅れて追った。

 玉座の(ダロワージ)に行って、誰か、同じ派閥にいる者と、顔を繋がせようと思っていたが、このぶんでは今日は無理だろう。

 急ぐことはない。よっぽど嫌われたのでなければ、タンジールにいる限り、また機会はあるだろう。

 そう思った矢先、スィグルが引こうとした聖堂の大扉が、外から勢いよく開かれた。驚いて、スィグルが体を退くのが見えた。

 廊下の明かりの中に、ジェレフの見知った顔が突っ立っていた。

 体重をかけて扉を押し開いたらしい、その人物は、いくぶん前屈みになった姿勢から、無遠慮に目の前にいるスィグルの顔を見上げていた。

英雄(エル)・ギリス」

 彼と睨み合うスィグルの背後から、ジェレフは年若い仲間に挨拶をした。

英雄(エル)・ジェレフ」

 上目遣いのまま、ギリスは応えた。

 いいところに来たというか、まずいところで会ったというか、だった。

 ギリスはスィグルよりふたつ年上の十六才で、ジェレフと同じ派閥に属している竜の涙だった。

 氷のような薄青い蛇眼と、額の石を持っており、彼がその石から授かった魔法も、氷結の技だった。

 仲間たちは彼のことを、悪党(ヴァン)・ギリスとあだ名していた。変わり者だったからだ。彼は氷の蛇で、生きているものの血を凍らせることができる。

 停戦に阻まれて、ギリスの戦歴はごく僅かだったが、その内容は際だったものだった。彼は戦陣に立つと頼りなげな少年兵だったが、たったひとりで森の守護生物(トゥラシェ)を殺すことができた。一瞬でその場に凍り付く怪物の姿は、見る者に決して忘却をゆるさない強い印象を持っていた。戦いが続いていれば、間違いなく押しも押されぬ大英雄になれただろう。

 しかし戦いは終わった。

 ギリスは不機嫌そうにしているスィグルの顔をじっと見つめ、そして聞こえよがしな声で、こう言った。

「人食いスィグルだ」

 まずいところで会った。ジェレフはそう結論した。


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