二○一号室の住人、岩壁美千代
日付が変わる少し前に美千代は自室を出た。
二○二号室の前に立つと本当に鍵は掛かっていないのか少し不安になったが、その不安を笑うようにドアノブはすんなりと回った。
「どうぞ中へ」
佐多の声が中から聞こえた。目を凝らすと人影が見えた。
壁に手を這わせ、明かりを点けようとすると佐多に止められた。人口の光はよくないのだと言う。
目が暗闇に慣れてくると、部屋ががらんどうではないことに気づいた。棚のようなものが見えるし、テーブルらしきものもある。
「お孫さんが蘇ったら、ここで生活するんですよ」
だから、もう家具やら何やらが設置してあるらしい。
美千代は三歳のままの勇輝を想像していたが、そうではなくて相応の年月が過ぎた状態で勇輝はこの世に帰ってくるそうだ。二十三歳。息子の智久がそのくらいの年の頃はどんなだったろうかと想い出す。勇輝はその頃の智久にそっくりだろうか。
「はじめましょうか」
そう言った佐多を制して、美千代は訊いた。
「佐多さんって、悪魔なのよね」
佐多が美千代にそう告げたわけではなかったが、美千代にはわかっていた。天使だと思わなかったのは、先刻、佐多が美千代の部屋を訪れたときに佐多の微笑みを見ていたからだ。邪悪な微笑だとは感じなかったが、愉快で堪らないといった感情を隠しきれていなかった。
「私は何かを捧げなきゃいけないの?」
十年くらい前から美千代はもう余生を過ごしているつもりだった。何も惜しむものはなかった。だが勇輝が生き返るのだとすると話は違う。少しでも長く生きていたい。
「岩壁さんは、面白いことを言いますね。皆が皆、代償を求めるわけではないんですよ。むしろ代償を求める悪魔のほうが稀なんです」
大半の悪魔は自己満足のために人間に手を貸すらしい。人間がプラモデルを作るのと同じだと佐多は言って、「悪魔って意外と人間くさいんですよ」と笑ったが、プラモデルを作ったことのない美千代にはよくわからない例えだった。
「でも強いて言うなら、血ですかね」
これから毎夜、満月の夜までの二週間、美千代の血が必要なのだそうだ。ほんの一滴、二週間で十四滴でいいらしい。
「じゃあ、今度こそ始めますよ」
佐多が大きく息を吸う音が聞こえた。そして、ゆっくり佐多は口から綿あめ状の青白くほのかに光る物質を吐き出し続け、それを両腕で束ねていった。佐多の両腕には収まらない大きさになると佐多はそれを床に降ろし、その後もしばらく吐き出しては集めていた。塊はやがて成人男性くらいの大きさの楕円体になった。
「繭みたいね」
「お孫さんの素です」
血を垂らすように、佐多に針を渡された。針の頭の部分には球体がついていた。普通のまち針のようだった。
「消毒はしてます。どの指でもいいです」
美千代は左手の人差し指の腹にプツリと刺し、親指で押し出すようにして、勇輝の素に血を一滴垂らした。劇的な変化を期待したが、勇輝の素は特に反応を示さなかった。まだ初日だと焦る自分に言い聞かせた。佐多が勇輝の素を薄い布で覆った。ドアを開けたときに射し込む人工の光に触れないようにするためなのだそうだ。
「ではまた明日、同じ時間にこの部屋で」
佐多に促され、ドアノブに手をかけた。ドアを開ける前に美千代は振り返った。布の中で勇輝の素が青白くほのかに光っている。