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二○一号室の住人、岩壁美千代

「美千代おばあちゃん」

 買い物から帰ってきた岩壁美千代の姿を見つけ、保が手を振っている。美千代が「保くん、こんにちは」と手を振り返すと、保は恥ずかしそうに母親である桐生由梨の後ろに隠れてしまった。

 そんな保の態度に由梨は「まあ、この子ったら」と呆れ、美千代に「すみません」と言ったが、美千代は「いいのよ。いいのよ」と笑って返した。

「保くん、今いくつだっけ?」

 由梨の背中に顔を埋めたまま、保は指だけで三歳だと教えてくれた。

「もう三歳かぁ。早いものね」

 保は相変わらず人見知りではあるが、由梨にしがみついたまま不安げに美千代の様子を伺っていた以前と比べれば、いくらか美千代に懐くようになったと思う。

「暑くなってきたから親子ともども身体には気をつけてね」

「ええ。岩壁さんも」

「保くん、またね」と美千代が手を振ると、保は「バイバイ」と笑いながら手を振り返してきた。由梨に「それじゃあ」と挨拶して、ショッピングカートを引き始めると「あの。お二階まで運びましょうか?」と由梨が気遣ってくれた。美千代の居室は二階にある。二階建ての裏野ハイツにはエレベーターなどない。

「ううん、大丈夫。ありがとう。もう慣れっこだから。それに今日のは軽いし」

 美千代はショッピングカートを軽々と持ち上げてみせ、笑いかけた。

 しかし実際に二階にあがるときには少々難儀した。このところ、妙に膝の古傷が痛む。年齢的に二階に住むのは難しくなってきていた。だが引っ越そうとは思わなかった。保の成長を見守りたかった。保は少しずつ美千代に心を開き始めている。それが嬉しかったが、どこかで悲しさを感じていた。幼くして亡くなった孫の勇輝の姿が保に重なるのだ。勇輝は保くらいの年の頃に亡くなった。

 不運な事故だった。もしも猫が車道へ飛び出したりしなければ、そこに車が走ってこなければ、美千代達があと一分遅く家を出ていれば、勇輝はきっと今も生きていた。現実は、猫を避けようとしてハンドルを切った車は縁石に乗り上げ、制御を失ったまま、散歩中の美千代達を撥ねた。美千代は左脚の骨を折っただけで済んだが、弾き飛ばされた勇輝は人家のブロック塀に頭をぶつけて死んでしまった。

 事故後、嫁の夕子は「猫を轢くべきだった。教習所ではそう習った」と泣き叫んだらしいが、咄嗟に判断して意識的に生き物の命を奪うことがそう簡単ではないだろうことを夕子だって頭では理解していたと思う。勇輝も美千代も運転手もみんな運がなかったのだ。だが夕子の心はそれを受け入れられなかった。美千代だって、運がなかっただけと割り切れたわけではなかった。何日も眠れない夜を過ごしたし、何度もあの事故の夢を見たが、それでも脚の怪我が癒えていくにつれ、少しずつ現実と向き合えるようになった。

 ギプスが取れ、退院の目処がつきはじめた頃、息子の智久に住居を探して欲しいと頼んだ。息子家族の元に身を寄せていたのは、勇輝の面倒を見る手伝いをするためだった。息子夫婦は、出て行くことはないと言ってくれた。美千代はその勧めに従った。

 退院して勇輝の仏壇に手を合わせた。「ごめんね、勇輝。守ってあげられなくて」と呟くと、「そうですよ。お義母さんのせいで勇輝は」と夕子に言われた。このときのやつれた夕子の表情は、今も美千代の脳裏に焼き付いている。言ってはっとしたのか、夕子はすぐに謝った。そんなことが続いた。事あるごとに夕子は美千代をなじり、取り憑かれたように勇輝が死んだのは美千代のせいだと責めた。そして我に返ると夕子は泣いて美千代に謝った。家事の大半は美千代がするようになっていたが、痩せ細っていく夕子の姿に美千代は同居を解消することを決めた。元凶である美千代が姿を消せば、夕子は元気を取り戻すだろうと考えたのだ。

 以来、美千代は裏野ハイツに住んでいる。智久は毎月一万円の仕送りをしてくれるが、それ以上のやり取りはない。何度か電話をしようと思ったことや手紙を書こうと思ったことはあったが、夕子を気遣ってやめた。夕子の心が休まり、また新たな子を設けたとき、そして美千代のことを許せるようになったときに連絡をもらえればいいと思っていた。そうして何の連絡もないままに二十年が過ぎた。息子夫婦が今どうしているのか、美千代は知らない。三日前、現金書留を受け取ったが、今月も手紙は入っていなかった。

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