ゆく年くる年
「ちょっと待って。奥さんとはもう何ヶ月もしてないって」
「魔が差したんだよなあ。でもまあ、そんなことになっちゃって」
男は私の前で両手を合わせた。その形があまりに軽くて、ようやっと私は嘘を吐かれていたのだと知る。奥さんとはもう冷え切った仲で、離婚間近だって言った。何ヶ月も一緒になんて寝てない、おまえだけだなんて。
「嘘吐き」
男の顔が、ふと嘲りを浮かべた気がする。
「まさか一緒に住んでる女とナンニモナイなんて、本当に信じてた? 俺が妻帯者なのは言ってたんだし、騙されたなんて言わないよねえ。お互い楽しかったでしょ?」
泣きそうになった私に、相手を間違えたかななんてけろりと言い、男は席を立った。
「ま、悪く思わないでね。家に乗り込むなんて野暮なこともしないでよ。そんなことして訴えられても、金払うのは君なんだから」
離婚間近だとは言ったけど、離婚するなんて確かに言ってなかった。おまえだけだとは言ったけど、その日は私だけって受け取り方もできた。泊まったりすれば自分が不利になるなんて、毎回きちんと帰っていた人。それは有利に離婚して、私の負担にならないようにだと思い込んでた御目出度い私。
「嘘吐きーっ!」
歩道橋の上から、走る車に向かって叫ぶ。嘘吐き嘘吐き、最低男。最低男に騙された、ろくでもない私。不倫の恋なんてヒロインぶって、恋でもなかったじゃないの。気持ちも身体もいいように遊ばれちゃって、自分だけ気がつかなかったっていうね。
出入り業者との不倫なんて誰にも言えなかったから、こんな関係は誰も知らない。
違う。あいつはそうやって、誰にも知られない相手として私を選んだんだ。後腐れしない相手として。
「私のばかーっ!」
ショックと悔しさと情けなさで、涙が噴き出した。二十代半ばの女が泣きながら歩いてるなんて、あんまりだ。さすがに電車には乗れずに、タクシーを使う。運転手さんは異様な緊張感で、私を窺っていた。
酔っぱらってもラリってもいません。ここで吐いたりもしませんから、ミラー越しに見ないで欲しい。持っていたポケットティッシュでは足りなくて、バッグを漁ってハンカチを出して鼻をかんだ。激しく恥ずかしい音がした。
顔中浮腫んでても、年末の小売業は休めない。大掃除用品を売りながら、私の部屋は掃除って単語すら記憶にございません状態だ。消費者の立場に立て? 私も消費者だよ消費者! 同じ消費者なのに、消費するものを買いに行く暇がないっ! しかも昨晩男にふられたばっかりだっつーのに、しっとり落ち着いて泣かせてよ。
まあ、本当はこの方がいいのかも知れない。ヘトヘトに疲れて何も考えないで眠れた方が。
「お疲れさーん。良いお年をー」
「ったって、明日も会うよね。良いお年をー」
勤勉な日本の小売業は、国民の祝日の元旦だって働いちゃうのだ。しかも初売りとかって八時出勤で。そして出勤してくるパートさんたちだって家庭の主婦で、じゃあ正月ってのは誰のためのもんだ。お母さんがお仕事に出て、お年玉を握った子供はヒマを持て余して買い物に出る。そこで働くのは、やっぱりどこかのお父さんかお母さん。
お正月には炬燵でおせち料理いただいて、家族揃って初詣! それが正しいっ!
暮れの残骸を片付けて、夜の道をとぼとぼと歩く。パンプスの中の足は浮腫んじゃって、今朝の顔とどっちが浮腫んでるだろうって状態だ。すれ違う人はカップルか親子連れか、でなければカウントダウンか何かに出かけるために浮き立っている人。
なんで、私だけがこんな。一生懸命働いて親にだって心配かけないように、誰の迷惑にもならないように生きてるじゃないの。男にあんなひどいふられ方されたって、今日だって仕事に穴をあけないように出勤したよ。健気な子だって褒められることはあっても、こんな目に遭う道理なんてないじゃない。
じわじわと浮き上がってくる自己憐憫。人気のなくなった夜道で、また涙腺が決壊した。誰もいないことを幸いに、泣きながら歩く。
もうとうに成人した女が。男と寝ることだって知っている女が。派手にしゃくりあげながら、大晦日の道を蛇行して歩いた。
アパートの前は、さすがに明るかった。外階段を上がろうとしたら、一階のドアが開いてモモが顔を出した。黒っぽい綿入れ袢纏にジャージ姿だ。木造アパートの薄暗い入り口と相俟って、なんだかいきなり昭和トリップしたみたい。
「……おかえり」
もごもごと口を動かして、そんなことを言う。クリアでない発音がモモをすっごく鈍いヤツに見せてるけど、本職は塾講師なのだ。明晰な声とか適切な助言とかはきっと仕事道具で、教室に全部置いてきてるに違いない。帰宅してるのはモモ本体、つまり百田利信だけなので、これが混り気無しのモモってわけだ。
泣いた後の顔を見せたくなくて、そちらに顔を向けないまま帰宅の挨拶をする。アパートは森閑と静まってて、漏れ出てくる灯りもない。
「帰んなかったの?」
普段ならそのまま通り過ぎるモモが、私の横顔に声をかけた。
「明日も仕事だもん。モモは帰んないの?」
「明日は休みだけど、そのあと二月が終わるまで、ほぼ休みナシだ」
ああそうか、受験シーズンだもんなあ。
「ま、お互いお疲れさんだよね。良いお年を」
そう言って鍵を開け、部屋の中に入る。部屋は冷え切っていて、慌ててファンヒーターのスイッチを入れた。テレビを点けると大晦日の特番ははしゃぎまくりで、私のささくれ立った神経を逆撫でしてくれる。あと一時間程度で、今年も終わっちゃうのに。私の二十七歳の半分くらいの休日は、あの男に潰したっていうのに。
いや、潰してくれと頼まれたわけじゃない。私が自発的にあの男とのための時間を空けたんだけど。
こんな寒い部屋に一人で、仕事で疲れ切って。恋人や家族と暖かい部屋で年越し蕎麦を食べてる人だっているのに、私はこれからストックの乾麺を自分で茹でて、冷凍のかき揚げ暖めて。
着替える気力もなく、ヒーターの前にぺたんと座る。あんまりな大晦日。可哀想な私。またじわりと涙が湧きそうになる。声出して泣きたい。そんなことしたら自分が惨めになるだけだって知ってるけど、でも。
玄関からインターフォンの、少し間の抜けた音がした。大晦日のこんな夜中の人気のないアパートに、誰が来るって言うの?やだやだ怖い、お金持ってないです。人並み以上の容姿じゃないから、売っても価値はないです。そんな使い道のない女だからって殺されたりしたら……そこまで一気に考えて、涙どころじゃなくなった。110を入力したスマホを握りしめたときに、今度はノックが聞こえた。
「どなたですか?」
「蕎麦、食いに行かないか?」
誰何の答えとしては、間違っている。とても間違っているけれど、緊張は一気に切れてドアを開けた。モモだって男なんだから、信用しきってはいけないのかも知れない。今までそんなことにならなかったのは、アパートの中に誰かしらいて大きな音をたてられなかったからかも。
いや、そんな男じゃないでしょ。疲れたと面倒くさいが口癖の、反芻動物男なんだから。草食とか肉食とかじゃなくて、反芻動物。牛とか羊とかが始終胃の中のものを口に戻して噛んでるじゃない、あれ。狩りをするわけでも牧草地を探して山を飛び回るわけでもなく、広がる草原の草を食んではゆっくり移動するやつ。モモはそんなイメージだ。
「こんな時間に蕎麦屋が空いてるっての?」
言いながら、モモのスタイルを見る。先刻と変わらないジャージと綿入れ袢纏だ。
「今日は日が変わるまで営業してるって。メシ、まだだろ」
「でも、外出る気力が」
「まだだろ」
玄関先で押し問答しても仕方ないし、自分で作るよりも他人様から供される暖かい蕎麦が欲しくなった。一人で部屋で泣いてるより、少しは気が紛れるかも知れない。帰ってきた格好のまま、コートを羽織るだけ。モモ相手で近所の蕎麦屋なんだから、顔のチェックも必要ない。どうせ化粧なんて全部剥げてる。浮腫んでいたからアイメイクはできなかったし、だからこのまま。
猫背気味のモモの後ろを歩いた。横に並んでバカ話するほど、陽気な気分にはなれない。ただ大晦日の晩をひとりで過ごすのが自分だけでないってだけで、救われた気分になる。
月に何度か行く小さな居酒屋は女一人で入れるとても希少な店で、そこでモモと知り合った。カウンターで言葉少なにオーダーして、いつも文庫本を読んでいる人。何度か行き合わせて、店のオーナーが名前を教えてくれた。だけど同じアパートだと知ったのはずいぶん後だ。アパートの階段で森村芳美さんとフルネームで呼ばれ、驚いた顔を笑われた。部屋の行き来なんてすることはなかったけど、居酒屋で顔を合わせれば言葉を交わし、アパートまで一緒に帰るようになった。
そうだ、部屋まで呼びに来たのなんて、はじめてだ。フルネームも住まいも職業も知ってるけど、それ以上踏み込んだ友情は築いてない。
風が少し強い。深夜の蕎麦屋は結構混雑していて、入り口近くで少し待たされた。一人客がメインらしく、話し声は天井近くに設えてあるテレビだけ。暖簾が引き戸を打つ小さな音が、外は寒いぞと言っているみたいだ。私はコートを腕にかけ、モモは半纏を丸めて持った。ようやっと席に座ると、ちょうど番組が切り替わったところだった。
荘厳な寺が映し出され、重く静かな音が響く。参拝客の顔、年明けを待つ人々が並ぶ境内、そんなものが次々に画面に現れていく。余韻が美しく寂しげで、静かだった店の中が更に静けさを増す。そんな中で月見蕎麦が運ばれてきて、私とモモは揃って割り箸を割った。
煩悩の数と言われる音を聴きながら、第一の煩悩のような食欲を満たしている。その間にも音は続き、雪の降りしきる古い街並みが映し出される。この街にあの音が響いているのか。雪の上に音が這っているのだろうか。
ふと、何か月も帰っていない実家を思い出した。両親は炬燵で蕎麦を食べながら、この番組を見ているに違いない。娘がひどい失恋の末に、夜中の蕎麦屋で月見蕎麦を啜っていることなど想像もせずに、私が一緒にいたころと同じように、どこそこの寺の説法を聞いてみたいとか言っていることだろう。
「あのなぁ」
モモが唐突に口を開いた。
「つまんないヤツもいるから」
そう言ったきり、また口に蕎麦を運ぶ。もしかして、私を宥めるための。
違うの、モモ。つまんないヤツは私。いつ離婚するのかなあって期待してた。彼と一緒になったら夜までなんて働かず、盆と正月は休みをとっても所得は彼にもあるんだから生活レベルは落ちないなんて、都合のいいことばっかり考えて、離婚なんていう他人の不幸を願ってた。
見透かされてたんだ。つまんない女で、いろんなことにうんざりしてて、手を差し伸べれば何も考えないで掴まってしまうヤツだって、あの男はわかってた。わかってたから軽々と私を振り回して遊び、要らないと言って投げ捨てることができたんだ。
蕎麦をすすりながら悔し涙が流れ、呼吸困難になりながらも顔も上げられない。私の二十七歳が、本当にここまでつまんない年で。
テーブルの上にポケットティッシュが投げ出され、投げた手の主はどんぶりに顔を伏せたまま、塾の生徒の失敗話をはじめる。受講中に居眠りして椅子から転げ落ちた生徒がいてさ、なんてね。私の涙なんて見えないかのように、バカ話をいくつも続ける。
静かな店の中には、モモの訥弁とテレビの音と、店の人の声だけ。
テレビから百八目だとアナウンスされた音が、長い余韻を残して消えていく。終わりましたね、今年も。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔のまま、今年が終わっちゃいました。
途端に切り替わる元気の良い画面。
「あけましておめでとうございます!」
荘厳な画像とは打って変わった陽気なアナウンスの中、モモは席から立ち上がった。伝票を掴んで勘定を払い、私にも立てと合図をして綿入れ半纏を羽織る。こんなに濡れた顔のまま寒風に吹かれたら、さぞ肌が乾燥してしまうだろう。それでも、一晩中ここにいることはできないのだ。
行きと同じように、モモの半纏の後ろを歩いた。モモは何も言わないし、私も何も言えない。ただ、泣いたときに隣に人がいるって良いなあと、少しだけ思った。自分の部屋で泣いていたら、世界中に一人になった気分になって、明日も明後日も同じことを繰り返したろう。
アパートの前に着いたとき、モモは振り返ってやっとこう言った。
「あけまして、おめでとう。今年もよろしく」
「おめでとう。あと、ありがとう」
答えた私の肩を小さく叩いて、モモはほんの少し微笑んだ。反芻動物の優しい瞳が、新春をちゃんと告げてくれたのだ。
おやすみと挨拶して、ひとりの部屋に戻る。蕎麦と一緒に飲み込んでしまったのか、もう涙は流れなかった。
うん、明日も仕事だもん。つまんなくても健気な子でしょ?誰か褒めてよ!
それが去年の大晦日だと言ったら、納得していただけるだろうか。今年、私は二人分の蕎麦を茹でている。炬燵の天板を布巾で拭いている人は、綿入れ半纏に古いジャージ姿だ。
反芻動物でも草食動物でも、ちゃんと雌雄はあるのだとご存知ですか。そして動きの鈍そうな反芻動物は、意外と足が速いものです。
同じアパート内の引っ越しは、驚くほど簡単だったと言っておこう。
fin.