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八十二秒の紅茶

作者: 大熊猫


 ――きみの冷ました温度が好きだった。


*


 少し錆びれた自販機から出た紅茶を彼は冷ましてくれる。

 私は猫舌なので、出てきてすぐの缶を飲めないのだ。暑いのも苦手だ。

 夏は嫌いなの。だってじめじめするし虫だってたくさん出るし、とにかく嫌い。

 冬はその分心地良い。からりとした空気、しんと冷たい風。そして冷えた体を温かくする缶の紅茶。

 そのままでは飲めないほど熱い紅茶を彼は冷ましてくれるようになった。

 私がお金を入れちょっと背伸びをしてボタンを押す。ガタリと音がして、甘い甘い紅茶は転がり出てくるのだ。そして彼が缶を取り出し、両手でふんわりと包む。

 私の視線はついつい缶へと向いてしまう。安っぽくて甘ったるい紅茶。彼がゆっくり八十二秒間かけて冷ましてくれる紅茶が、私は好きなんだ。彼が数えて七十八秒、私にとっては八十二秒の紅茶。

 私と彼は紅茶が冷めるのを待つ間全く話さない。私は紅茶と彼を見つめ、彼は私を見つめている。そんなときに何を話す必要があるというのか。

 缶が冷めるとともに、心の温度は上昇していく。飲まずともあたたかい。

 葉のない木から差し込む光は彼を彩っていた。元々白い彼の肌をいっそう白くしている。むつのはなが艶やかに咲いているようで、私はそれから目を話せなかったんだ。

 私の肌は彼ほど白くないからたまに羨ましくなってしまう。いつだったか、それを彼に愚痴ったら困ったように笑いこう返されたことがある。


 ――僕はきみの色が好き。


 あぁ、思い出すだけで全身が熱くなってしまいそうだ。熱いのは嫌いなのに、嫌じゃない。

 アンビバレントな感情が私の心を占める。高揚感は体を宙に浮かせるようで、ふわふわとわたがしのように甘い。意識は過去に返り、また戻る。

 そう、もうすぐ八十二。

 とくりとはねる心音は早鐘を打った。

 そうして八十二秒が過ぎ彼から紅茶を受け取る。

 熱いけれど気持ちが良い温度は彼の手みたいだった。

 じんわりと手から腕へ、胸へ全身へと温もりは伝わっていく。

 プルタブをあけると、甘い甘い香りが漂う。

 ――いただきます。

 そう心で呟いて一口。

 唇から舌先へと熱さが伝わっていく。

 熱さとともに砂糖の強い甘味を感じる。どこにでもありそうなこの味、けれどここにしかない味なのだ。

 彼は微笑みながら私を見ている。ところどころ色の剥げたベンチに私たちは座っていた。ベンチの色は剥げているけれど、自販機は少し錆びれているけれど。想いはきっと新鮮なままで、開けたばかりの缶のようで。きっときっと、甘いままなのだろう。

 特に何も話さない。紅茶を飲む合間に、彼を数秒見つめるだけ。何も話さないからこそこんなにも幸福を感じるのだろう。幸せを凝縮した液体は私に広がっていく。

 彼を見ると彼もまた私を見ていた。

 体温が上がるのを感じる。もう少し見ていたい。

 ……でも、やっぱり恥ずかしいから私は紅茶を飲む。まだまだ温かいそれは私と同じだった。

 ゆっくりと大切に飲む。こぼさないように、幸せが長く続くように。

 それでもいつか物事には終わりの瞬間がやってくるように、缶は空っぽになってしまった。

 ふぅっと溜め息を一つついて頷いた。


 ――帰ろっか。


 私が飲み終えた缶をさっと取り、自販機横のごみ捨てに捨てた彼はそう言った。そしてまだベンチに座る私にそっと左手を差し出す。

 いつも通りの自然な動作だから、私もいつも通り右手で彼の手を握り立ち上がった。

 帰宅するまでの十数分、部活だとか学校の勉強だとかクラスメイトの恋愛事情なんてどうでもいい話をする。でも、そんな他愛も無い話をするだけで満たされていた。

 手袋をしている左手よりもしていない右手の方があたたかい。

 なんで面白くない授業は長く辛いのに、彼との時間は瞬きのようなのだろうか。もっと彼と話していたいのに、私の家までつくと彼はすぐに帰ってしまうんだ。引き留めてしまうのは良くないような気がするから、私は一抹の寂しさとともに言うんだ。


 ――また、あした。


 そう言えば明日もきっと送ってくれるだろうから。わがままだとは思うけれど、言うのだ。もっと一緒に話したいって伝えられるように。約束を一方的に押し付けるように。

 だから私は毎日言いたかった


 ――また、あした。


*


 今年もまた、一人の冬がやってきた。

 真新しい自販機で缶の紅茶を買う。熱い熱いそれを握りしめる。火傷しそうなほどだけど、かまうものか。ゆっくり数えて八十二秒が過ぎるまで。

 かじかんだ手指はあたたまるけれど、どこかむなしいままだった。どれだけ紅茶を飲んでもまったく満たされることはなくて、むしろどんどん渇いていくばかり。容器にいくら紅茶を注ぎ込もうとも、そこには見えない穴があいていた。

 無駄な行為だとわかっていても、やめられないのだ。

 ――さぁ、ゆっくり数えて八十二秒。

 自販機そばの公園のベンチに座り、カチリとプルタブをあけた。

 こくりと一口。渋い紅茶が口中に広まる。

 私が飲みたかったのはこんなのじゃない。私が飲みたかったのは甘ったるくてあたたかい紅茶で、こんな渋い紅茶じゃないの。


「……苦い」


 そう言っても目の前に彼が現れるわけなんかない。ずっとずっと遠くにいるのだから。届くはずのない、掠れた叫びは伝わるわけがない。


「だから、苦いんだってば」



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