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その日、久方ぶりに出迎えた訪問者の姿に張政は相好を崩した。
「お久し、ぶり、です。陽衣奈殿。あれから、お加減は如何、ですか?」
「はい、お蔭さまで。張政さまも、お変わりはありませんか?」
出迎えた香草の匂いに懐かしさを覚えながら、陽衣奈もまた、彼に倣うように目許を綻ばせた。
積み上がった書簡の山を退け、張政は少女に座るようにと促した。腰を下ろしたところで、すかさず蓉がふたり分の白湯を置く。目でお礼を伝えれば、女は嬉しそうに微笑み返した。
それを啜りながら、陽衣奈は張政と久方ぶりの談笑を交わし合う。
「……ところで、陽衣奈、殿」
しばらくして、張政は少女に向かって首を傾げた。
「わたしへの、相談、とは?」
その言葉に、陽衣奈はコクリと息を飲み込んだ。
居ずまいを正し、真剣な眼差しで張政と対峙する。陽衣奈は、あらかじめ彼に言伝てをしていた。
「お尋ねします。この国に、女王が立つことは可能でしょうか」
「……それ、は……」
張政は、思わず顔を顰めた。
彼は、少女の問いかけが意味することを正確に読み取った。それは、満足な後ろ楯もない、たった十五歳の少女が決断するにはあまりにも過酷な選択だった。
そして、賢い少女が選び取るには、最も愚かな道とも言えた。
「……わたしの、祖国では、代々、男児が王位を継ぐのが当たり前、です。ですが、倭国はそうとも、限らない……」
それでも、彼は決して話を逸らそうとはしなかった。
一音、一音を絞り出すように、或いはその間違いを正そうとするかのように彼女の問いに答えていく。
「女王国も存在すること、は、確かです。たとえば、宇佐が、そうでしょう。けれど、この邪馬台で……というのなら、安易なことでは、ない」
現在、邪馬台國を治めるイザ一族も、その主君であったニギ一族も、代々、男王が政を行ってきた。亡き大后をはじめとする巫王はいたが、あくまでも、それは男王を頂点とした政治体制の中での存在に過ぎなかった。
この国で、男王と同等の絶対的権力を持つ「女王」が立つには、それまでの歴史を塗り替えるだけの実力を示さなくてはならなかった。
「荊の、道です。――それでも、あなたは、女王になりたいと、望むのですか?」
「はい」
しかし、張政の言葉に陽衣奈は迷わず頷いた。
「わたしは、この国を守りたい。……そのためには、女王になるしかないのです」
それは、義兄が追放されてからずっと考えてきたことへの、答えだった。
いくら政に参加する権利を得ても、その実力を認められ、父に目をかけられても、臣下としての彼女が出来ることは限られていた。たとえば、父王から巫王になれと勅命が下れば、王女のひとりとして同盟国に嫁ぐことを求められれば、彼女はそれを受け入れなくてはならない。義兄の帰りを待つことも、この国を守り通すことも、出来なくなってしまう。
あの約束のためには、自らが女王として立つしか道はなかった。
「だから、張政さま。どうか、わたしに力を貸して下さい」
「陽衣奈殿」
「お願いします。……お願いします、張政さま」
額を床に擦りつけ、陽衣奈は懇願した。
張政が顔を上げさせようと、肩を掴む。その痛みさえ振り払い、彼女はただ乞い続けた。
「陽衣奈、殿……」
彼女の決意が固いことを知り、張政は観念したように項垂れた。
長い沈黙のあと、分かりました、と苦しげな一言が彼の口から漏れる。
(海理……)
陽衣奈は声帯を震わせた。僅かな不安と、それを凌駕する大きな喜びが、彼女の小さな身体を駆け巡る。
(わたしは、女王になります……あなたとの約束を。楽園を、守るために)
兄が再び、邪馬台の地を踏むまで。
この国を守り、待ち続けよう。どんなに辛い、荊の道だったとしても。
――いつか、ふたりの楽園を。
約束が果たされる、その日まで。
◇
それから三年の後、張政より帝王学を学んだ陽衣奈は、父王の退位を以って玉座を継いだ。
邪馬台で初めての女王擁立の知らせは、瞬く間に近隣諸国を駆け巡った。
そのときは、誰も想像すらしなかっただろう。北九州の小国が、それも二十歳にも満たない年若い女王の治めるこの国が、やがて三十以上の国を従え、倭國に君臨することになろうとは……。
――これより後、女王「卑弥呼」の名が大陸の書に刻まれることとなる。




