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※物語の設定上、邪馬台国北州説を採用しております。近畿説をはじめとする、九州説以外の意見への批判・中傷の意などは一切ありません。
かつて、この地を伊都という国が治めていた。
九州北部に突き出た糸島半島周辺に居を構えた彼らは、海を越えた大陸との貿易と、国内で採取された豊富な資源とその加工技術によって栄え、その絶大な力を示した。
初代の王であるニニギを頂点とした一族は、山津見や綿津見を始めとする豪族たちを重鎮に据え、婚姻関係を結んだ。彼らには豊かな財があり、一国の王と並ぶ土地への影響力があった。その娘たちを次々と娶ることで、玄界灘を臨む小さな国は瞬く間に大国へと伸し上がって行った。
しかし、三代目の王の死後、そのふたりの御子の王位争いが勃発した。兄弟の争いは一進一退を繰り返し、その間にたくさんの民や兵が死んだ。豊かだった土地も瞬く間に戦火に呑まれ、災いの声が国内に満ち満ちた。
その五年にも及ぶ争いは、弟御子による勝利で幕を閉じた。兄御子は処刑され、その妻子たちもあとにつづいた。刑を逃れた者、或いは行方知らずとなった妃と御子もいたが、弟御子がその根を絶やすことは出来なかった。
倭國大乱――王家に仕えていたイザ一族が、民と臣下の支持を受け、反旗を翻したのだ。
内部からの裏切りと、兄弟争いによって極限まで削がれた兵力では、到底、勝ち目などなかった。幽閉という屈辱的な処置により、伊都國王室はイザ一族の配下に降った。
だが、その大乱も陽衣奈が生まれる前の話だ。
乱の首謀者である先代は既に他界し、現在、邪馬台を治めるのはその嫡子・那岐王である。
即位から二十一年、隣国との小競り合いこそあれ、国内には平和な時が流れていた。
◇
春色に染まる野を抜け、陽衣奈は帰路を急ぐ。
息を弾ませた頬は僅かに上気し、飛び跳ねる足取りも何処か楽しげだ。胸に抱き締めた書簡が、彼女の心情を真似るようにカチャカチャと軽い音を立てる。
(邪馬台も、すっかり春ね……)
脚をくすぐる若草の柔らかさ、目に鮮やかな八重山吹の黄金色。
恋を語らう娘たちの明るい笑い声が、川辺に響く。ぶかぶかの貫頭衣をまとった幼子たちは駆け回り、田畑の土に塗れた老若男女は大口を開けて新しい季節を謳った。
王の治世を表すような民の声に、陽衣奈は口の端に笑みを乗せる。それは、少女にとって、とても懐かしい光景だった。
陽衣奈は、邪馬台の王・那岐王の娘である。
だが、母親は決して豊かとはいえない、小さな集落の村巫女だった。
村巫女である母の元には、連日のように大勢の人が訪れた。怪我をした幼子や病人を抱える家族には、彼女は気前良く薬草を分け与えた。農作業の時期や、祭りの前日になると、わざわざ村長が出向いて母に天候を聞いた。彼女は、風読みに優れた女性だった。
だが、そんな貧しくも穏やかな生活は、ある日、一変した。
陽衣奈が五つのとき、彼女は母と共に父の宮に引き取られることになった。そのとき初めて、少女は自身の父親がこの国の王であることを知った。
那岐王の居館は、下戸(平民)たちが住まう集落群から、やや離れた小高い丘の上にあった。
周囲には堀が巡らされ、さらにその内側に柵が建てられた環濠集落は、使用人たちを含め、千人以上の人口を内包していた。邪馬台の中心地に相応しく、その賑わいは村とは違う雰囲気を醸し出している。
少女の口から、重たい溜め息が漏れた。
(いつ見ても、慣れないものね……)
初めて宮に足を踏み入れたときなど、その大きさに怯え、母の裾をいつまでも握りしめたものだった。あれから十年、あの日縋りついた母は既にいないけれど、それでも陽衣奈は小さな子供のようにその感触を求めたくなるときがあった。あの懐かしくも哀しい夢見のあとでは、その心細さは更に積もった。
立ち並ぶ竪穴住居の横を抜けて外濠を越えると、盛り土の高台を濠と柵で囲んだ「内郭」が現れる。
人為的に作られた見晴らしのよい内郭には、王やその妻子たちが住まう宮殿の他、政や祭事を行う主祭殿が軒を連ねている。それらの建物を守るように巡らされた濠の更に内には、背の高い物見櫓が影を落としていた。
「――やぁ、姫さま。また張政さまのところですか?」
陽衣奈が内郭部へ足を踏み入れると、親しげな声が降ってくる。
その声は少女が良く聞き慣れたものでもあった。
「こんにちは、掖邪狗」
櫓からひょっこりと顔を出した青年に、陽衣奈は安堵したように笑顔を向ける。
けれど。
「……また、お酒を呑んでいたの?」
楽しげな足取りで降りてきた彼から漂う匂いに、陽衣奈はちょっぴり眉を寄せた。
「良いじゃないですか。何たって、今日は祝宴ですよ?」
「……でも、宴は夜からよ。まだ、明るい時間だわ」
「はは、存外、姫さまは手厳しい……そこは、まぁ、無礼講ということで」
見張り番をしていた他の男たちが、陽衣奈と掖邪狗のやり取りを見て、そうだ、そうだと楽しげに笑う。口笛を鳴らし、囃し立てる彼らも、僅かではあったが顔が赤らんでいた。
門番としてはあまり褒められた言動ではなかったが、ある意味、これも平和の一片なのかもしれない。
「そんなことを言って……お父上やご兄弟に怒られてしまうわよ?」
「どうでしょうねぇ…姉上たちなどは、今日の宴のために、粧し込むのに忙しそうだったけどなぁ」
頬を掻きながら、掖邪狗は面倒そうに呟いた。
掖邪狗とよく似た人懐っこい顔立ちをした三人の姉たちが、弟が辟易するほど熱を上げて支度をしている様子を思うと、なんだか笑みが零れた。と同時に、待ち望んでいた日がやって来たのだという実感が、じんわりと胸に広がっていく。
今日は、父の那岐王と異母兄たちが末盧國の視察から帰ってくる日だった。
夜にはその帰還を祝い、宴が行われる。王女である陽衣奈も出席することになっていた。
「姫さまも、これから粧し込むのでしょう? 真唯さんや真咲さんが、張り切りそうだ」
「そうね。確かに張り切っていたわ」
掖邪狗のいう通り、五つの頃から仕えてくれている同年代の侍女たちは、十日も前から、あれでもない、これでもないと頭を悩ませながら、少女の装束を揃えていた。
そのことを陽衣奈が思い出していると、目の前の青年がぴくりと肩を揺らした。
ふたつの双眸が、面白そうに細められる。嫌な予感がした。
「……おやおや、噂をすれば」
「え?」
彼の言葉に、陽衣奈は驚いて背後を振り返った。
途端、声にならない悲鳴が上がる。
「――姫さまっ! 一体、何処まで道草をなさっていたんですっ!?」
腕を組み、鬼のような形相をした女がそこに立っていた。