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夜が明けてからも、王宮は内乱の混乱を引き摺ったままだった。首謀者である軻遇智は、未だ逃亡。綿津見の一族は悉く身元を捕らえられ、海理も那岐王からの謹慎を命じられている。
だが、何よりも臣下たちを戸惑わせたのは、那岐王の惑乱ぶりであった。
伊那美の傷は思った以上に深く、元々、体調を崩し、体力を著しく失っていたため、その容態は芳しくなかった。恐らく、今夜が山場だろう……それが薬師たちの見立てだった。
沫那美はすぐさま叔母の看病に当たった。
しかし、すでに国内随一の薬師たちが手を尽くしたあとであり、素人の彼女に出来ることはなかった。ただ、額に浮かぶ汗を拭うことしか出来ない。
「兄王、は……王は、どちらに?」
苦しげな呼吸を繰り返しながらも、彼女が気にかけるのは那岐王の安否であった。
「王は職務室に。大老たちと共に、乱の後処理をなさっておりますわ」
その言葉に、大后は「そう……」と息を零した。安堵の表情を浮かべようとしたのか、その口許が緩やかに弧を描く。しかし、それは激しい咳遣いによって掻き消されてしまった。
「っ、伊那美さま! 伊那美さま!!」
叔母の手を握り締め、沫那美は懸命に声を上げた。離れていこうとする魂の名を、この世に留めんと呼ばう。
「誰か、王を! 大后さまの容態が!!」
女官頭の命令に、年若い女官が慌てて宮殿へと走る。沫那美は、叔母の背を何度もさすり続けた。彼女の呼吸が少しだけ穏やかさを取り戻す。
「っ、大后!!」
間もなくして、報せを受けた那岐王が部屋へと飛び込んだ。その容貌には隠しきれない老いと疲労が浮かび上がり、刻み込まれた皺の陰影をより濃く見せた。宮殿から駆けて来たのだろう。その息はみっともないほどに乱れ、角髪は解けて頬に張りついていた。
「あに、おう……」
彼の姿に、彼女は血の気を失った目許を綻ばせた。
ご無事で、と吐息のような声で微笑んだ。
「何が無事なものか。そなたの、このような姿を前にして……」
彼女の傍らに膝をつき、那岐王は床に落ちたままの手を取る。男の手は目に分かるほどに震えていた。
「わたしは、また、そなたを守ってやれなかった……」
後悔に滲んだ声が、部屋に落ちる。
伊那美の苦しげな呼吸音が、男の心を責め立てる。握り締める手にも力が籠った。
「王……」
ひゅう……と、彼女の声帯が鳴る。
「どうか……だれも、責めないで……」
彼女の言葉に、那岐王は顔を歪めた。それは、あまりにも残酷な言葉のように思えた。
たとえ最愛の后から産まれた御子であろうと、彼女を害した軻遇智をそう簡単に許すことは出来なかった。この事態を引き起こした綿津見に対しても、そうだ。憎しみを消すことは出来なかった。
けれど、その無言の眼差しに、伊那美はゆっくりと首を振った。まるで、幼子の間違いを諭すように。
「ご自身を、責めないで、くだ、さぃ……」
女の細い指が、男の手を離れ、頬を撫でる。
慈愛に満ちた微笑みが、那岐王へと向けられた。
「伊那美……」
「わたくし、は、……しあわせ、でした。あの子たちの、母となれたことも……兄王さまの、后に、なれたことも……」
遠い日々を懐かしむように、彼女は吐息で笑った。
霞んでいく意識の中、残された力を振り絞り、想いを伝える。
「愛しています、兄王。……やさしい、あなたを……」
罪の子を産んだと咎められ、娘と共に軟禁されていた彼女を救い出してくれた。
曰くつきの伊那美を妃として迎え、ニギの後宮で負った傷が癒えるまで、待ち続けてくれた。
そんな彼の力になりたいと、彼女は自ら望み大后となった。そして軻遇智を、彼との御子を産んだ。
「だから、こんどは……わたくしが、……まつ……ばん、で……――」
だが、その言葉を最期に、頬から掌が滑り落ちた。
瞼は閉じられ、鼓動を刻むことはない。その白い指先が、彼に再び伸ばされることもなかった。ぬくもりは失われた……永遠に。
「伊那美! 逝くな、伊那美っ!!」
那岐王は叫んだ。力の限り、叫んだ。けれど、どれだけ名を呼び続けても、彼女からの応えが返ってくることはなかった。
「っ、誰でも良い、大后を呼び戻せ! 黄泉路になど行かせるな! 行かせてなど、なるものか……っ」
男は、儚くなった女を抱きながら、咆哮した。軻遇智の内乱にすら動じなかった王の様相に、女官たちも堪らず啜り泣いた。
大后の魂を取り戻そうと、薬師が、祈祷の巫女たちが急いで呼び集められる。
しかし、彼らの健闘も虚しく、伊那美はひとり黄泉国へと旅だった。




