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火恋―カレン―  作者: 白藤宵霞
第七章 約束
29/33

1

 夜が明けてからも、王宮は内乱の混乱を引き摺ったままだった。首謀者である軻遇智は、未だ逃亡。綿津見の一族は悉く身元を捕らえられ、海理も那岐王からの謹慎を命じられている。

 だが、何よりも臣下たちを戸惑わせたのは、那岐王の惑乱ぶりであった。

 伊那美の傷は思った以上に深く、元々、体調を崩し、体力を著しく失っていたため、その容態は芳しくなかった。恐らく、今夜が山場だろう……それが薬師たちの見立てだった。

 

 沫那美はすぐさま叔母の看病に当たった。

 しかし、すでに国内随一の薬師たちが手を尽くしたあとであり、素人の彼女に出来ることはなかった。ただ、額に浮かぶ汗を拭うことしか出来ない。

「兄王、は……王は、どちらに?」

 苦しげな呼吸を繰り返しながらも、彼女が気にかけるのは那岐王の安否であった。

「王は職務室に。大老たちと共に、乱の後処理をなさっておりますわ」

 その言葉に、大后は「そう……」と息を零した。安堵の表情を浮かべようとしたのか、その口許が緩やかに弧を描く。しかし、それは激しい咳遣いによって掻き消されてしまった。

「っ、伊那美さま! 伊那美さま!!」

 叔母の手を握り締め、沫那美は懸命に声を上げた。離れていこうとする魂の名を、この世に留めんと呼ばう。

「誰か、王を! 大后さまの容態が!!」

 女官頭の命令に、年若い女官が慌てて宮殿へと走る。沫那美は、叔母の背を何度もさすり続けた。彼女の呼吸が少しだけ穏やかさを取り戻す。

「っ、大后!!」

 間もなくして、報せを受けた那岐王が部屋へと飛び込んだ。その容貌には隠しきれない老いと疲労が浮かび上がり、刻み込まれた皺の陰影をより濃く見せた。宮殿から駆けて来たのだろう。その息はみっともないほどに乱れ、角髪(みずら)は解けて頬に張りついていた。

「あに、おう……」

 彼の姿に、彼女は血の気を失った目許を綻ばせた。

 ご無事で、と吐息のような声で微笑んだ。

「何が無事なものか。そなたの、このような姿を前にして……」

 彼女の傍らに膝をつき、那岐王は床に落ちたままの手を取る。男の手は目に分かるほどに震えていた。

「わたしは、また、そなたを守ってやれなかった……」

 後悔に滲んだ声が、部屋に落ちる。

 伊那美の苦しげな呼吸音が、男の心を責め立てる。握り締める手にも力が籠った。

「王……」

 ひゅう……と、彼女の声帯が鳴る。

「どうか……だれも、責めないで……」

 彼女の言葉に、那岐王は顔を歪めた。それは、あまりにも残酷な言葉のように思えた。

 たとえ最愛の后から産まれた御子であろうと、彼女を害した軻遇智をそう簡単に許すことは出来なかった。この事態を引き起こした綿津見に対しても、そうだ。憎しみを消すことは出来なかった。

 けれど、その無言の眼差しに、伊那美はゆっくりと首を振った。まるで、幼子の間違いを諭すように。

「ご自身を、責めないで、くだ、さぃ……」

 女の細い指が、男の手を離れ、頬を撫でる。

 慈愛に満ちた微笑みが、那岐王へと向けられた。

「伊那美……」

「わたくし、は、……しあわせ、でした。あの子たちの、母となれたことも……兄王さまの、后に、なれたことも……」

 遠い日々を懐かしむように、彼女は吐息で笑った。

 霞んでいく意識の中、残された力を振り絞り、想いを伝える。

「愛しています、兄王。……やさしい、あなたを……」

 罪の子を産んだと咎められ、娘と共に軟禁されていた彼女を救い出してくれた。

 曰くつきの伊那美を妃として迎え、ニギの後宮で負った傷が癒えるまで、待ち続けてくれた。

 そんな彼の力になりたいと、彼女は自ら望み大后となった。そして軻遇智を、彼との御子を産んだ。

「だから、こんどは……わたくしが、……まつ……ばん、で……――」

 だが、その言葉を最期に、頬から掌が滑り落ちた。

 瞼は閉じられ、鼓動を刻むことはない。その白い指先が、彼に再び伸ばされることもなかった。ぬくもりは失われた……永遠に。

「伊那美! 逝くな、伊那美っ!!」

 那岐王は叫んだ。力の限り、叫んだ。けれど、どれだけ名を呼び続けても、彼女からの応えが返ってくることはなかった。

「っ、誰でも良い、大后を呼び戻せ! 黄泉路になど行かせるな! 行かせてなど、なるものか……っ」

 男は、儚くなった女を抱きながら、咆哮した。軻遇智の内乱にすら動じなかった王の様相に、女官たちも堪らず啜り泣いた。

 大后の魂を取り戻そうと、薬師が、祈祷の巫女たちが急いで呼び集められる。

 


 しかし、彼らの健闘も虚しく、伊那美はひとり黄泉国へと旅だった。





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