5
荒い息遣いが、深い森の中にこだまする。
項垂れた右腕に、もはや感覚はなかった。もう、きっと使い物にはならないだろう……そう、軻遇智は思った。
味方を失い、当初の目的も果たせず、実母を手にかけた大罪人は、ひとりの従者だけを従え逃げ惑う。
上を見上げても鬱蒼とした木々が空を覆い、下を見てもぬかるんだ土が足元を掬う。僅かな月光ばかりが照らし出す道程に、果てはなかった。
(……わたしがやって来たことの意味は、何処にあるのだろう)
軻遇智は、ずっと実父を恨んできた。
母は他の妃たちの嫉妬の対象に追い込まれ、異父姉の存在を隠され、そして、その生い立ち故に軻遇智は訳も分からぬまま、他の異母兄たちに虐げられてきた。
守りたいと願った少女の幸せすら、軻遇智から奪った。自らの保身のため、罪もない女たちが苦渋を舐めさせられる。軻遇智には、もう耐えられなかった。父の弱さも、そして――己の無力さにも。
(……泣かせるはずじゃ、なかった)
最後に見た少女の泣き顔が、脳裏を離れない。
軻遇智は、そっと髪結いに触れた。桜色の、髪結いと呼ぶには不格好な端切れは、軻遇智が初めて彼女に与えられたものだった。
(沫花……)
幼い頃、傷ついた軻遇智を救ってくれたのは、当時、出仕する母親と共に王宮に上がっていた彼女だった。
小さな少女は自分の衣が汚れるのも構わず、傷だらけになった少年に手当てを施してくれた。淡い桜色の袖を千切り、血の匂いに顔を青ざめさせながらも懸命に止血をしてくれた。
その礼だと言って、軻遇智は名を贈った。
沫花、と。その名で呼ぶたびに彼女は嬉しそうに……そして、微かに恥じらうように微笑んだ。それだけで、軻遇智の心は束の間、恨みを忘れた。
その笑みを、失いたくなかった。彼女にはただ笑っていて欲しかった。それなのに、軻遇智は彼女を傷つけてばかりだ……あんな顔を、させたい訳ではなかったのに。
「っ、王子……」
それまで無言を貫いていた菊池比古が、突如、声を上げる。
緊張を孕んだ声色に、軻遇智は足を止めた。
「……あれは……」
ふたりの退路を断つように、のっそりと、大きな影が草陰から現れる。それは、人間よりも一回り以上大きな体躯を誇る、一匹の狼であった。金色に光る鋭い双眸が、軻遇智たちを睨みつける。
(獣道に、入ってしまったか?)
辺りを見回し、軻遇智は考える。彼らの縄張りを侵してしまったのなら、まだ他に仲間がいるはずだ。しかし、耳を澄ましてもその気配はない。
そのうちに、青年は奇妙なことに気がついた。
その狼の背中には、ひとりの少女が器用に腰かけていたのだ。
年の頃は十七、八ほど。身にまとう装束は華美さには欠けたが、それでも良く見ると質の良さが伺えた。
頭上で無造作にひとくくりにされた黒髪には、真っ赤な大輪の花が咲き匂う。目許を縁取る真紅の艶やかさ、つんと上を向いた形の良い唇。女特有の色香が、腰にまいた毛皮の野性味さえ打ち消した。
「っ」
その容貌に、軻遇智は息を呑んだ。
少女の顔に概視感を覚える。彼は、国境を守る将軍として彼女と対峙したことがあった。
警戒と共に腰の太刀に手を添えれば、途端、獣が低い唸り声を発する。
「黒百合……?」
その反応に、少女が首を傾げた。
手甲をした手が毛並みを撫で、可憐な声が獣の愛称であろう名を呟く。彼女の眼差しが、つ……と男たちへと向けられる。
「……ほぅ」
軻遇智の姿を認め、少女の瞳は瞬く間に色を変えた。僅かな月光をまとい、雲母のように輝き出す。
眠たげだった表情は赤味を取り戻し、口角は上機嫌に弧を描いた。そして。
「――わたくしは、お前が欲しい!」
その少女は、無邪気な声で軻遇智を欲した。




