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「ああ、どうしましょう、沫那美さま……」
「軻遇智の兄上さまが、謀反だなんて……恐ろしい……!」
「落ち着いて頂戴。ひとりで行動しては駄目よ……皆、逃げるのに必死で押し倒されてしまうわ」
泣きじゃくる王女たちを宥めながら、沫那美は彼女らを安全な場所へと誘導する。
比較的身分の低い王女たちは、宴の場へ伴う守り人の数も限られている。それぞれが持つ僅かな兵を寄せ集め、女たちは共に外を目指した。同様に、逃げ遅れた那岐王の妃嬪たちは、沫那美の実母である姫長が誘導役を買って出ている。
(陽衣奈さまたちは、大丈夫かしら)
少女たちを励ましながら沫那美が考えるのは、那岐王の後宮でも最も身分の低い王女のことだった。平民出身の母妃を持つ彼女は、自身の守り人を持っていない。それに加えて幼い弟を抱えた彼女の無事が、ひどく気がかりだった。
けれど、たったひとりの少女のために、ここにいる大勢の王女たちを放り出すことは出来ない。未練を残しながらも、沫那美は前へ突き進むしかなかった。
「ひ……っ」
その足を、ひとりの王女が漏らした悲鳴が留める。
少女の視線を追えば、血の匂いをまとった男がふたり、彼女たちの方へと駆けて来るのが見えた。
「っ、軻遇智さま……!?」
その姿に沫那美は思わず声を上げた。
軻遇智が、はっと面を上げる。
「あわ、はな……」
縋りつくように、彼だけの名で呼ばれる。嗚呼、と、彼女の胸が切なく焦がれた。
互いの眼差しが、交じり合う。
「――っ!」
求めたのは、どちらが先か。
ふたりの掌がほんの一瞬だけ、結ばれる。
「沫那美さまっ!」
「姫さまっ!!」
だが、その瞬間、王女や侍女たちが甲高い悲鳴を上げた。
その声に、沫那美は反射的に手を放す。
「ぁ」
後悔したときには、遅かった。
軻遇智の面差しがくしゃりと歪む。漆黒の双眸は深い哀しみに沈み、きつく引き結んだ唇が彼女への懺悔を告げた。――許せ、と。
その一言だけを置いて、彼は沫那美へと背を向ける。
「軻遇智さまを追え!」
「王命だ、決して逃がすな!!」
罪人を追う甲冑の音が、警鐘のように鳴り響く。怒号と悲鳴が、揉み合いながら戦場を駆け抜けていく。
「ひ、姫様!?」
緊張の糸が切れたように、沫那美はその場に蹲った。
彼女の細い四肢が小刻みに震え出す。けれど、それは恐怖のためではなかった。深い後悔と葛藤が、彼女の身体を苛むのだ。
(軻遇智さま、どうして……っ)
何故、謀反など起こしたのか。何故、そんな切なげな目をするのか。どうして――許しを、乞うのか。
けれど、答えてくれる人は遠い彼方。彼女が、彼女自身がその手を放してしまった。握り返すことを、拒んでしまった。
「軻遇智、さま……っ!!」
次期姫長として、己に課していたものが脆く崩れる。彼の存在が、一言が、すべてを壊していく。
「どうして、あなたは――っ」
沫那美はただ、遠ざかっていく朱色の背中に問いかけることしか出来なかった。
◇
深い森の木々が、生ぬるい風に嬲られ、低い唸り声を上げる。
奥宮に設けられた祭壇の前、少女は瞑想したまま、その風の音を聴いていた。そこへ、ふと聞きなれた足音が彼女の耳朶を撫でた。
「……いらっしゃい、軻遇智」
被いた薄絹を揺らし、彼女は訪問者を振り仰ぐ。
燈明が照らし出す男の長身からは、隠しきれない血の匂いが立ち昇った。王宮から離れた奥宮にも、謀反の報せは届いていた……それが、誰の首謀であるのかも。
それでも、ひるこはいつもと変わらぬ笑みを浮かべて、異父弟を出迎えた。
「ひるこ」
乾いた唇が、彼が与えた名を呟く。青年は、負傷していない方の手を差し出し、異父姉に願った。
「わたしと一緒に、行かないか?」
緊張と、恐れとが混ざり合った黒い瞳を見つめ、ひるこは嬉しそうに微笑んだ。
「有難う、軻遇智」
彼女の言葉に、軻遇智の表情が一瞬、明るく綻ぶ。
「……でも、ごめんね。わたしは、ここから出られないの」
けれど、それはすぐに翳った。
ひるこの静かな双眸に、小さな身体に、彼は必死に縋りつく。
「脚のことなら、心配いらない。わたしが背負ってやる、だから」
「そうじゃ、ないのよ」
だが、ひるこはただ静かに首を振るだけだった。赤い瞳が、遠い日々を思い出すように細められる。
「昔ね、那岐も外に連れて行こうとしてくれた。でも、駄目なの。わたしには、外は眩しすぎて……行けないの」
白い髪と赤い瞳を持って産まれたひるこは、生来、光に弱かった。部屋の中でも紗が必要であり、ましてや晴れた空の下を歩くことなど、夢のまた夢だった。
「伊都國でも、同じだよ。わたしは、暗い社の奥でしか生きられなかった」
ニギ一族は、異形の姿をして産まれたひるこを厭い、宮殿の奥深くへと閉じ込めた。しかし、それは皮肉にも彼女を救うことにもなったのだった。
それでも、義父はひるこを外へ連れて行こうと言ってくれた。そのせいで、先代から厳しい罰を受けたとしても、もう二度と来ては駄目だと諭しても。王となってからも、時折、ひるこの様子を見に訪ねてくれた。あの逃避行の罰として折られてしまった左脚への、せめてもの贖罪だとでも言うように。
「だから代わりに、軻遇智が外の世界を見てきて」
幼子をあやすように、男の頭を小さく撫で、ひるこはその耳元へそっと囁きかける。
「奥宮の裏手に広がる森を、真っ直ぐ進んで。そうすれば、きっと逃げ切れるわ」
「……嫌だ。ひとりでは行けない。ひるこ、頼むから、共に来てくれ……お前は、もっと自由になるべきだ」
人と違う見た目をしていたというだけで、不自由を強いられてきた小さな異父姉。
彼女こそ、この歪んだ檻から放たれるべきだ。こんな狭い世界ではなく、もっと広い、大空の下へ。もう二度と、大人になりたくなんかないと、嘆く必要のない世界へ。
けれど、ひるこは決して頷いてはくれなかった。
「軻遇智こそ、ここにいてはいけないよ。あなたは、もっと、広い世界を知ることが出来る……いいえ、知って欲しいの。これまで、たくさん傷ついてきた、優しいあなただから」
小さな両掌が、軻遇智の頬に触れる。甘く、愛おしげな笑みを浮かべ、異形の少女はその幸せを希う。
「だから、逃げて。わたしの、可愛い弟」
その手を取る代わりに、ひるこは優しい異父弟の背中を押した。




