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火恋―カレン―  作者: 白藤宵霞
第五章 朱を灯す
23/33

 突如、目の前で起こった惨状に、海理は唖然とした。

 五の兄から流れ出た血が、神聖な舞殿を真っ赤に穢す。その光景に、奏者たちの間にも動揺が走った。

「かっ、軻遇智の内乱だぁ……」

 腰を抜かし、ガタガタと震える九の兄の言葉で、やっとその状況を理解する。

(軻遇智の兄上が、謀叛?)

 それは、俄には信じ難い出来事だった。

 若輩ながら、国境を統べる将軍としての功績を持つ、大后腹唯一の王子。異母兄たちを押し退け、王位継承候補として有力視される彼が、何故、このような暴挙に出たのか。

 何より、軻遇智は自ら王位を望むような人間ではなかった。それも、こんな危険を冒してまで……。

「どうして、軻遇智の兄上が……」

 だが、耳を劈く女たちの悲鳴に、海理ははっと顔を上げた。

 舞殿に程近い席、宴のために着飾った王女たちが、泣き叫びながら逃げ惑う。綾絹と宝玉ばかりを身に付けた彼女たちには、己を守る術がない。

「っ、陽衣奈……!」

 宴に参加しているはずの、最愛の少女の姿を探す。今宵は、幼い弟王も一緒のはずだ。他の王女たちとは異なり、侍女や守り人をほとんど持たない彼女は、果たして無事に逃げ切れるのだろうか。

(……陽衣奈を、守らなくては)

 少年の脳裏に浮かんだのは、少女よりも儚げな女の褐色の瞳。そして、彼女と交わした最後の約束。

(菊理さまとの約束を、守らなければ)

 腰に佩いていた剣を、抜き放つ。刀身に、決意を宿した双眸が映った。

「っ、海理……!?」

 異母兄たちの困惑を背に、少年は混乱の中心へと駆け出した。

 ぶつかり合う、銀の切っ先。椿花のように咲き乱れる血痕。敵味方も分からず、右往左往する華美な装束。暴力的な色彩の渦に抗い、海理は無我夢中で走った。

「っ、陽衣奈――!!」

 届け、届け、届け。全ての想いを込めて、少年は力の限り、叫ぶ。



――そのとき、炎よりも鮮やかな赤が視界を掠めた。



「っ、海理!!」

 弟の手を引いたまま、探し求めた少女もまた、彼に負けじと叫んだ。

 海理は、堪らず駆け寄った。彼女の褐色が、大きな安堵にくしゃりと歪む。

「陽衣奈、……怪我は、ないか?」

「……わたしは、大丈夫。海理こそ、怪我はしてない?」

 お互いの無事を確かめ、束の間の喜びを分かつ。

 しかし、激化する争いの火種がふたりを急き立てた。

「姫さま!!」

「っ、掖邪狗!!」

 そこへ、帯刀した掖邪狗も加わった。陽衣奈たちを心配し、駆けつけてくれたのだろう。頬にはいくつかの掠り傷があったものの、別状はなさそうだ。

「見つかって、良かった。大きな怪我は……心配、ないようですね」

 王女に寄り添う少年の姿を認め、彼は安堵の息を零した。だが、その表情はすぐに真剣なものへと変わる。

「先頭の守りは、俺が。海理さまは、後方をお願い致します」

「分かった」

「悠月さまは、こちらへ」

「うん」

 掖邪狗が幼い悠月を背負い、真唯と真咲がそれに続く。

「陽衣奈」

 差し出された手を、陽衣奈はぎゅっと握りしめる。それはまるで、縋りついているようだった。震える彼女を勇気づけるように、海理も掌に力を込める。

 その確かな熱は、最愛の少女の無事を、少年に一層、強く認識させた。一方で、彼の脳裏には拭いきれない疑問もまた、渦巻いていた。

(どういうことだ? 何故、綿津見の一族が、軻遇智の兄上に協力している?)

 反乱軍として武器を掲げた男たちには、見覚えがあった。

 だが、綿津見と言えば、海理が知る限り、どの有力氏族よりも姫族を嫌っているはずだった。彼らが、軻遇智に従うことなど有り得ない。

(おかしい。軻遇智の兄上のことと言い、何かが狂っている……)

 けれど、少年にそれ以上の追求は許されなかった。

 木の焼け焦げた臭いが、鼻をつく。灯台が倒れ、火が燃え移ったのだろう。視界の隅で狂暴な赤が躍り、彼らを嘲笑う。

「行こう。ここも、危ない」

「……えぇ」

 このときのふたりは、ただ、追われるように走ることしか出来なかった。

 見えない力から逃げるように。繋いだ掌が、遠く引き離されてしまわぬようにと……そう、強く願いながら。



 王女たちの悲鳴が、まるで張り詰めた弦のように恐怖を伝線させていく。

 人々は顔を蒼白に染め、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。たっぷりと肥えた身体を揺らし、か弱い女子供を押し退けてまで外へ逃げようとする豪族たちの姿に、その浅ましさと我が身可愛さに、反吐が出そうだった。

(何もかも、腐っている)

 早く壊さなくては、と軻遇智は思った。怒りが胸中を嬲り、憎しみを煽る。それは、軻遇智に力を与えた。

「王に従う者は、悉く殺せ! その息の根を止めろ!」

「応――!」

 軻遇智の声に、反乱軍の間から雄叫びが上がる。何処に身を潜めていたのか、甲冑と剣を携えた兵たちが大広間に溢れた。そのほとんどが、王宮内でも大きな力を持つ綿津見の兵だ。

 彼らを従え、軻遇智は混乱の中を突き進んでいく。南の国境を治める将軍として、自らも前線に立ち続けてきた彼にとって、平和馴れした邪馬台の兵など敵ではなかった。

 その得物は、彼を止めようとする兵士を容赦なく切り捨て、いっそ、優雅とさえ思えるような仕種で罪を塗り重ねた。だが、軻遇智にとって、それは過程にしか過ぎなかった。

「退け……邪魔だ」

 王を守る最後の兵を倒すと、軻遇智は静かな足取りで玉座へと迫った。父王は何処へ逃げるでもなく、ただ静かに叛逆者を待ち構えていた。

「……軻遇智」

 思わぬ叛乱にも、那岐王はそれほど動じなかった。憤然とした双眸を軻遇智へと向ける。

「……愚かな。血迷ったか」

 最愛の后から生まれた王子を、那岐王は静かに咎めた。その漆黒の眼差しは、年老いてもなお、鋭さを失ってはいなかった。

 そのことを、軻遇智は意外に思った。けれど、感慨に浸っている時間はない。

「……最初に道を違えたのは、父上の方です」

 異母兄と、数多の兵士たちの血に濡れた剣を彼はゆっくりと掲げた。炎を反射して、それは鈍く光る。その身を濡らす、新たな血を欲して。

「わたしは、腐敗したこの国を、壊さなければならない」

 多くの矛盾を抱え、か弱い少女たちを犠牲にして成り立つ国を。軻遇智は、許すことなど出来ない。

 母を、異父姉を、そして沫花を救いだすために。繋がれた鎖を断ち、檻から解放する。

「父上。そのために、あなたにはここで死んで頂く――!」

「っ」

 断罪が、振り落とされる。

 刃は咆哮し、暗い歓喜の声を上げて宙を切り裂く。

 しかし、様々な悲鳴が入り乱れる中、この場にはいないはずの声が全てを凌駕した。白と赤の神職服が揺れる。


「――兄王さまっ!!」


 男たちの視界に、鮮やかな朱が灯った。

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