1
日の出から日の入りまでの時間が、最長となる日。つまり、一年の内で最も太陽の力が強まる夏至は、秋の収穫儀礼に次ぐ重要な祭祀を執り行う日だった。夏至の祭では、代々、歴代の巫王が自ら舞を奉納する。今回は、姫族の沫那美がその代役を担うとあって、臣下たちの関心は例年よりも高まっていた。
夕刻の宴に備え、王宮は朝から華やかな雰囲気に包まれている。例のごとく、侍女たちから盛大な「おめかし」を施された陽衣奈は、頭に乗せた簪の重さに溜め息を吐いた。
その様子に、呑気な男の笑い声が向けられる。
「姫さまも、毎度、大変ですねぇ」
「……笑いごとではないわ、掖邪狗」
何処までもお気楽な青年に、陽衣奈は小さく唇を尖らせた。男である掖邪狗には分からないかもしれないが、着飾るのも案外、重労働なのだ。
「それより、こんなところにいて良いの? 姉君たちが、探しているのではないかしら」
いじけた表情のまま、少女は上目がちに尋ねる。だが、返ってきた答えは、随分あっけらかんとしたものだった。
「それなら、逃げて来ましたよ。決まってるじゃないですか」
「……もう。そんな風だから、怒られてしまうのよ」
少女の口から、思わず嘆息が漏れる。そこへ、幼い笑い声が重なった。
「やくやくは、逃げ足がはやいから」
そう言って、くすくすと肩を震わせるのは、陽衣奈の実弟・悠月である。
「悠月は、見倣わないで頂戴ね」
「ぼくは、にげないよ。だって、姉上が大好きだもの」
少年は行儀よく座ったまま、何処か得意気に頷いた。
「まぁ、嬉しい」
唯一、同じ血を分けた弟の答えに陽衣奈は思わず破顔した。純粋な好意に、疲労感さえ吹き飛ぶ。
悠月もまた、陽衣奈と同じように色鮮やかな装束に身を包んでいた。夏らしい薄青の上衣に、姉と揃いの梔子色の帯。胸元には、翡翠の首飾りを下げ、腰には小さいながらも立派な短刀を佩いている。幼少を理由に普段はほとんど夜の宴には出席しない悠月だったが、今年の夏至は特別だ。大好きな姉と共に宴に出られるとあって、少年は朝からはしゃいでいた。
「この分だと、夕刻には疲れてしまうんじゃないですかね……」
「そうね。あまりにも辛そうだったら、早めに退出させて頂くことにするわ」
掖邪狗の言葉に、陽衣奈は微苦笑を零した。談笑が長閑に響き渡る。
「――姫さま、失礼致します」
そのとき、戸口の向こうから遠慮がちな声がかかった。
少女が視線を向ければ、淡い浅葱色の装束をまとった真唯が、申し訳なさそうに顔を覗かせている。
「どうしたの、真唯。もしかして、まだ準備で足りないものが……――」
だが、彼女の後ろから現れた人物に、陽衣奈は言葉を失った。目を瞠り、幻でも見たかのようにただ呆けることしか出来ない。
代わりに、その様子を眺めていた掖邪狗が口を開いた。
「……さーて。悠月さまは、俺と一緒に外にでも行きましょうかね」
「えー……」
不満げな悠月を脇に抱え、掖邪狗は部屋をあとにする。
彼なりに気を聞かせたらしい。ただ、最後にちらりと見せた意味深な笑みに、陽衣奈は「もうっ」と小さく声を上げた。
「それでは、姫さま。何かありましたら、お呼び下さいね」
そうしている間にも、真唯は辺りを手早く片付け、ふたり分の白湯まで用意してしまう。彼女が退出すると、あとには陽衣奈と、そして戸口に立ったままの海理だけが取り残された。煌めく陽射しの中、甘い湯気が沈黙を撫でる。
「陽衣奈。傍に、行っても良いか?」
「……はい」
彼の言葉に、頷く。
久方ぶりに顔を合わせる義兄の眼差しに、陽衣奈は頬が赤らむのを抑えることが出来なかった。衣擦れと共に寄り添う慕わしい香りに、胸は否応なしに高鳴る。
「……真咲から、熱を出していたと聞いた。もう、体調は大丈夫なのか?」
「はい、大丈夫です。張政さまにも、薬湯を煎じて頂きましたから」
「……そうか」
彼女の言葉に小さく息を吐き出し、海理は躊躇いがちに少女へと手を伸ばした。ふたりの掌が、そっと重なる。
「……傍にいてあげられなくて、ごめん」
本気で悔いる少年に、陽衣奈は首を真横に振った。
「そんなこと、気にしないで下さい。夏至も近かったのだし……海理も、政で忙しかったのでしょう?」
「俺自身が、傍にいたかったんだ。昔はよく、そうしていただろう?」
彼の言葉に、陽衣奈は微かに目を瞬いた。
熱に浮かされながら抱いた我侭を、見透かされたような気がして戸惑う。と同時に、彼が陽衣奈と同じ願いを抱いていたと知り……嬉しかった。
「心配してくれて、嬉しい……でも、抜け出して来て良かったの?」
今宵は、宴である。王子である海理も、今頃は支度に追われているはずだった。
「別に、良いんだ。……正直に言うと、母上たちとは少し仲違いをしたから、部屋に居づらくて」
そのせいもあって、余計に忙しかったのだと彼は苦笑と共に白状した。
「仲違い?」
「昔から、綿津見は俺こそを王太子にするようにと、周囲に憚らない。……でも、俺は兄上たちのように、自分の力で、王になりたいんだ」
綿津見という有力豪族出身の母を持ち、その恩恵を受ける一方で、海理は己の「実力」に対して、大きな劣等感を抱いていた。
異母兄たちとは年齢差があり、一番年の近い軻遇智とすら、七つも離れている。その分、差が表れるのは仕方のないことだったが、少年はそれを言い訳にするつもりはないらしい。
己の力で王位継承者となり、陽衣奈を大后として迎える――それが、彼の夢だった。
「だから、今は母上とも距離を取っているんだ。元々、あの人と顔を合わせれば、口喧嘩ばかりだったから、丁度良い」
「でも、……」
けれど、王子たちにとって母親は政治的にも重要な存在だった。実母、或いは養母の実家は彼らの強力な後見となる。
王位継承候補の三人も、それぞれ有力氏族の娘から産まれた御子であった。逆に、他の王女たちと比べて聡明であるにも関わらず、陽衣奈が王宮内で日陰の立場に追いやられているのも、実母が力を持たない平民だったからに他ならない。
(……本当に、大丈夫なの?)
不安が、漏れそうになる。しかし、そんな異母妹から視線を逸らし、彼は思わずと言った体で庭先へと視線を向けた。
「もう、姫百合の時期なんだな。ずっと、書物とばかり睨み合ってたから気づかなかった」
「……えぇ、栴檀の花も今が見頃よ」
だが、少年の態度に、陽衣奈はそれ以上、問いかけることが出来なかった。
触れられたくない話題なのだと、はっきりと分かった。その証拠に、彼女がさりげなく話題に乗じれば、安心したように彼は笑う。
「夏になったら、また遠乗りに行こう。草原で遊ぶのも良いし、少し遠いけど海に行くのも良いな……陽衣奈は?」
「わたしは、港を見てみたいです。末廬國の話を聞いてから、ずっと気になっていたんです……」
少年少女の明るい声が、午後の光の中で楽しげに弾ける。
微かな不安を抱えながらも、宴までの間、久方ぶりに過ごす義兄との甘い時間に陽衣奈は身を委ねた。




