1
――カラン……ッ。
緩んだ右手から、筮が一本、音を立てて落ちる。
思ったよりも大きく響いたそれに、陽衣奈の意識は一気に引き上げられた。
夢の断章は、あまりにも唐突だった。
「――っ!」
それは、暗い水の底から、肺いっぱいの空気を求めて浮上する感覚によく似ていた。
汗ばんだ身体が風に晒され、ぞっと悪寒が走る。
こめかみを這う大粒の汗と、掻き乱された荒い呼吸音。
軽い眩暈に襲われ、陽衣奈は堪らず目を閉じる。瞼の裏を、ちらりと赤い光が掠めた。
(また、あの夢……)
闇の中に響く、乾いた音。そして、顔の半分を仮面で覆われた何処か懐かしさを覚える少年。
それは、母を亡くした頃から繰り返し見る、不思議な夢だった。
ゆっくりと息を吐きながら、陽衣奈は恐る恐る両手を胸の辺りまで持ち上げる。その目に映るのは、今年で十五を数えた娘の、あまりにも良く見慣れた掌だった。
(こんなに明るい時間から、夢を見るなんて……寝不足なのかしら)
鈍い頭痛を抱えながら呼吸を整えると、陽衣奈は気だるげに視線を巡らせた。自分の居場所を確認するように、褐色の瞳が四方を映し出す。
満ちる真新しい木の匂い、光に濡れた明るい板目。
壁に高く設けられた棚と、そこに並ぶ大小様々な壺。
ぷんと鼻を突く薬草の青さ。甘く、鼻腔をくすぐる梔子の匂い。そして。
「……大丈夫、ですか?」
ぼんやりとした意識の破片に触れる、穏やかな男の声。
だが、心配そうにこちらを覗く瞳を認めた瞬間、少女の顔色は青褪めた。
「張政、さま……」
忘れていた感覚が、熱を持って全身を駆け巡る。
嫌な汗が、その白い喉を伝った。
「も、申し訳ありません! わたし、い、居眠りを……っ!!」
思い出した。いや、それよりも、どうして忘れてなどいたのだろう。
自分を取り囲む書簡の山、散らばった筮竹の束。すべては、彼に教わるために訪れたのに。
けれど、慌てる少女とは対称的に、彼はゆったりとした笑みを零した。
「体調が、優れないのなら、無理をしては、いけませんよ」
少し訛った倭国の言葉で、張政は少女に語りかける。
そこに、彼女を咎める気配は微塵もなかった。それでも、陽衣奈としてはただ申し訳ないばかりで、自然、彼と目を合わせることさえ憚られる。その様子に、張政は苦笑を残したまま腰を上げた。
「一休みと、致しましょう。……どうぞ、お飲み下さい」
しばらくして戻った張政は、少女にあたたかな湯気を立てる器を差し出した。
項垂れた鼻先に、仄かな芳香が触れる。
「……良い香りですね」
「香草を、いくつか調合し、煎じたものです。落ち着きますよ?」
薦められるまま、琥珀色の液体を流し込む。
喉を潤す甘い花の香りに、陽衣奈はほんわりと表情を綻ばせた。
「お気に、召しましたか?」
「はい、とても美味しいです」
それは良かった、と彼もまた穏やかに微笑む。
その笑顔に、陽衣奈は自分が慰められていることに気付いた。
(……張政さまには、いつも敵わないわ)
それが何だか悔しくて、陽衣奈は小さく唇を尖らせた。そんな少女の反応に、青年は薄い色の眼差しを細めて笑った。
張政は、大陸から招かれた客人である。
丁寧に梳いた黒髪を、これまた丁寧に頭上で結い上げた髪型は、祖国の風習だという。まとう衣も上質で、襟元に施された花鳥の刺繍は、それだけで彼の国の技術の高さを示した。
陽衣奈の知るこの倭国の、更に小さな邪馬台の技術など足下にも及ばないだろう。
今日、彼女が教わっていた筮竹も、その知識のひとつだ。竹を細く削って作った五十本の棒を用いて行う、大陸の占いの一種である。
「ところで、陽衣奈殿」
陽衣奈が顔を上げると、張政は微かな笑みを浮かべたまま、首を傾げた。
「そろそろ、時間なのでは?」
「え」
その言葉に、少女の時が一瞬だけ止まる。
そして、次の瞬間、細い肩がびくりと跳ねた。張政の笑い声が、あとにつづく。
「あとは、わたしが、片付けておきますよ」
「も、申し訳ありません。今度は、今度はきちんと片付けますから……!」
びっしりと文字を書き留めた書簡を掻き集め、胸に抱き、陽衣奈は慌てて戸口へと駆けた。
が、ふと何かを思い出したように、振り返る。
「張政さま、今日の講義も有難うございました!」
部屋へと差し込んだ陽光が、貫頭衣の裾から伸びた四肢と、彼女の明るい笑顔を染め上げる。腰よりも少し長い黒髪が、焚き染められた甘い名残を落として行った。
その様子に、張政は思わず口の端を緩める。けれど。
「……おや?」
陽衣奈を見送ったあと、筮を片付けようと伸ばした手を、彼は中途半端に止めた。
琥珀の瞳は、その不規則な筮竹の並びを凝視する。穏やかな表情に、皺が寄った。
甘い花の香が、不気味な静寂の中、張政の首筋を撫でた。