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火恋―カレン―  作者: 白藤宵霞
第四章 檻と花
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 そっと瞼を上げると、辺りはすっかり暗くなっていた。手元を照らしていた灯明の影が、じりりと音を立てて揺れ動く。

 土の器で作られた燭台の芯は残り僅かとなり、部屋に射し込む銀色が既に夜が深いことを告げていた。

(いけない、いつの間に寝てしまったのかしら……)

 白い頬にかかる髪を気だるげに払い、沫那美は溜め息をついた。俯せて寝ていたせいで少し肩が痛い。

 軋む身体を解し、小さく伸びをすると彼女はそっと立ち上がった。

「……姫さま?」

 戸口を開けると、外に控えていた侍女が眠たげに瞼を擦った。ずっと主が出てくるのを待っていたのだろう。艶やかな黒髪を撫でると、夜風の冷たさが掌に伝わった。

「少し、外の空気を吸ったら戻るわ。もうすぐ仕事も終わるから、あなたは中で床の準備をお願い」

 沫那美がそう告げると、彼女はふるふると首を横に振った。

「おひとりでは、危ないですわ。今、他の者を……」

「大丈夫よ、本当にすぐ戻るから。……それに、ここなら夜更けでも衛士が控えているもの」

 優しい声で諌めれば、少し不服そうではあったが侍女はこくりと頷いた。燭台に新たな火を灯し、手際よく寝所を整えていく。その姿を見届けると、沫那美はそっと踵を返した。


 夏の空には満天の星が煌々と輝き、深い群青を照らし出す。月は明るく地上に降り注ぎ、草木に優しく語りかけた。うたた寝の間に俄雨でも降ったのだろう。濡れた芳香が、ぬるい闇の中に漂っていた。

 一年のうちで最も日照時間の長くなる夏至の日は、古代人にとって重要な祭祀を執り行う日でもあった。

 邪馬台の祭祀では、巫王自ら雨乞いの舞を奉納する。巫女の力が劣れば国は日照りに襲われ、田畑の実りは望めない。その責任は、今までの儀式とは比べ物にならないほど重たいものだった。

 さらに、沫那美にとっては代役となって初めて対峙する大きな仕事でもある。緊張も一入だった。

(それでも、わたしがやらなければ……)

 顔を覆った右手の下、彼女はそっと重たい息を吐く。悩んでいる暇などない。夜が明ければ、次期姫長としても、伊那美の代役としても、やらなけらばならない責務は山ほどあった。

 弱音を打ち払うように、沫那美はゆるりと頭を振る。もう、自室に戻ろう――そう考えた、そのときだった。耳朶を、静かな足音が掠めた。

(だれ……?)

 しかし、沫那美が疲労した頭で考えるよりも早く、その人影は彼女の腕を捕らえた。

 辛うじて悲鳴を上げなかったのは、鼻腔をあまりにも慣れ親しんだ香りが掠めたからだった。

「っ、軻遇智さま、どうして……」

 そろりと顔を上げると、月影の下、深い漆黒が沫那美を見下ろしていた。

「お前の部屋から灯りが見えた。……まだ、起きていたのか」

「……軻遇智さまこそ、今までお仕事をなされていたのでしょう? 人のことは、言えませんわ」

 早鐘を打つ心音を誤魔化すように、沫那美は悪戯っぽく笑ってみせる。だが、そんな彼女に応えたのは、軻遇智の何処か思い詰めた表情であった。

「沫花……」

 疲労の影を宿した目許を、彼の、見た目よりもずっと武骨な指がなぞる。まるで自身が傷ついたかのように、その瞳が歪んだ。

「姫長さまが仰っていた。お前が、全てを承知で……他の氏族たちの不満を被ると知りながら、代役を引き受けたと」

「……もちろん、知っておりました。伊那美さまには、心身ともに休養が必要ですから」

 その眼差しに耐えきれず、沫那美はそっと目を逸らした。

 正しいことをしているはずなのに、後ろめたさが彼女を苛む。そんな迷いを見通すように、彼の眼差しが鋭くなった。

「だからと言って、お前が全てを引き受ける必要などないだろう」

「っ、それは……」

 その言葉は、彼女の最も弱い部分を揺さぶった。それでも、彼女は頑なに首を振り続けた。

「……いいえ。そんなことは、ありません。……これは、わたしの役目です」

 胸を締め付ける苦さも、見えないふりをして。彼の姿を追い出すように、沫那美は瞼を閉じた。

「……軻遇智さまには、関係のないことですわ」

 噛み締めた唇が、漏れそうになる嗚咽を堪えて戦慄く。無言の重たさが、沫那美を責め立てた。

「――それなら、見てみぬふりをしろと?」

 その沈黙を破ったのは、感情を圧し殺したような彼の低い声だった。と同時に、腕を掴む力が強くなる。

「お前が、目の前で苦しんでいるのに。わたしに、傍観者でいろと言うのか……っ!?」

「っ!」

 烈火を散らし、彼の激情が爆ぜる。

 反射的に後退った彼女の細い四肢は、一瞬にして腕の中に捕らえられた。

 鼻先に、焚き染められた彼の香が直接触れる。それは、普段のような遠慮がちな温度ではなかった。

「は、放して……っ」

 けれど、沫那美が逃げ場を求めて身じろぐほど、その檻は更に強く彼女の自由を搦め捕った。

「沫花」

「ぃ、ゃ……っ」

「沫花、どうか……」

 抵抗を奪い去るように、深く引き寄せられた耳朶を熱い吐息が掠める。

「ただ、一言で良い。……だから、わたしに救いを求めろ」

 その泣き出しそうな声に、沫那美は驚いたように青年を見上げた。

 漆黒に濡れた瞳が、激情を孕ながらも、切実に彼女の姿を映し出す。

「もしも、お前が望むのなら。……わたしは、……わたしは……っ!」

「軻遇智、さま……」

 込み上げる熱に声は掠れ、しかし、眦には苦い滴が浮かぶ。

 軻遇智を見上げた眼差しが、刹那の迷いを、声にならぬ悲鳴を翳し……そして、首を振った。

「放して、下さい……」

「沫花」

「痛い、です……だから、……お願い…………」

 涙に滲んだ懇願に、軻遇智ははっと手を放す。

「……すまない」

 その声に、沫那美は唇を噛む。そうでなくては、我侭が口から零れてしまいそうだった。

 彼の熱に全てを委ね、辛い、と叫んでしまいそうだった。

「仕方、ないのです……」

 込み上げる苦悩を圧し殺し、彼女は自分自身に言い聞かせるように呟いた。

「仕方ないのです、軻遇智さま。――わたしは、姫族の女ですから」

「っ、待て、沫花!!」

 目を合わせられないまま、今度こそ沫那美は逃げるように背を向けた。軻遇智の指の間から、彼女の黒髪と涼やかな花の香が零れていく。

(優しい、優しい軻遇智さま。だからこそ、わたしはあなたの手を取ることは出来ない……)

 胸を詰まらす切なさを紛らわし、沫那美は瞼を閉じる。その眼裏を、ちらりと赤い光がちらついた。

 それはまるで、燻る炎に似ていた。


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