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星が瞬き、冴え冴えとした月がいつまでも空に横たわる冬は終わりを告げ、少しずつではあるが、夜の時間が短くなっていく。
部屋に差し込む朝の気配に、海理も季節の移ろいを感じていた。だが、その余韻に浸る暇もなく、水を張った桶や櫛箱を携えた侍女たちによって、少年は慌ただしく身支度を整えられる。
すっかり夏の様相をした装束に帯を締め、最後に金の釧を両腕にはめると、海理は書簡を手に主祭殿へと急いだ。
宮殿からやや離れた北方に、那岐王の主祭殿はあった。
ここでは専ら、王族と国内の有力者たちによる政が行われている。主「祭殿」という名前の通り、かつてはイザ一族の長たちによる朝夕の祭祀も行われていたが、今ではその役割は、先代の王女であり、現王の大后でもある伊那美が、後宮に設けられた仮宮で執り行っていた。
朝陽差し込む主祭殿には、既に多くの重鎮たちが肩を並べていた。
王の後宮に妃を置く山津見、綿津見をはじめとした有力豪族。
那岐王の異母妹であり、大后・伊那美を実妹として持つ姫族の長と、その娘・沫那美。
他にも、代々、王の補佐官を多く輩出するタカミムスヒの一族、七代と呼ばれる古い一族の長たち。鏡氏の石凝姥、楽師の鈿女と言った技術者集団をまとめる女族長に、国内の村々を治める各首長と、大勢の為政者で賑わっている。
他の兄王たちと共に大広間へと足を踏み入れた海理は、素早く周囲に目をやると、自らに与えられた席へと腰かけた。
丁度、向かいに座る軻遇智と視線が合い、互いに軽い会釈を交わす。彼は周りの談笑など気に留めず、携えた書簡に黙々と目を通していた。
「……はっ。相変わらず、軻遇智はお堅いなぁ。海理も、そう思うだろう?」
軻遇智の様子に、隣の席に座った九の兄が囁いた。
その言葉の端々には、隠しきれない妬みがちらついている。大后唯一の王子であり、武人として優れた功績を持つ彼の存在を快く思わない者は、何も海理の母だけではないのだ。
そんな兄たちの会話に適当に相槌を打っていると、開始を告げる鐘の音が響いた。それと時をほぼ同じくして、那岐王が玉座に現れる。しかし、いつもであればその傍らにいるはずの大后の姿が、今日は見当たらなかった。
「――大后は、体調不良のため、しばらく大事を取って療養することとなった」
沈んだ声色に、議会の席から同情を匂わせた溜息が零れた。海理も、他の御子に分け隔てなく接してくれる優しい義母に想いを馳せ、その眉間に皺を寄せた。
だが、王が次に告げた言葉は議会にざわめきを引き起こした。
「故に、大老たちとの話し合いの結果、大后の代役として、姫族の沫那美がしばらくの間、イザの祭事を執り行うこととなった」
「!」
はっきりとした否定こそ出なかったが、彼らの目には隠し切れない困惑が窺えた。
けれど、この場ではっきりとした反論を試みる猛者は、ひとりもいなかった。
「異論は、ないな。……沫那美よ、急ではあるが宜しく頼むぞ」
「はい。大事なお役目、精一杯勤めさせて頂きます……」
王の言葉に、沫那美は美しい容貌を緊張で強張らせながら平伏した。
「姫長も、暫し大事な跡取りをお借りする」
「まだまだ未熟な娘ではありますが、王の助けとなるならば。……どうぞ、わたくしからも、皆さまに宜しくお願い申し上げます」
上座にゆったりと腰を下ろした姫長が、指をつき、落ち着いた声で頭を垂れる。
邪馬台屈指の美女と名高い沫那美の実母らしく、涼やかな神職服をまとった姿は、目尻の皺こそあれ若き日の美しさを損なってはいない。白髪交じりの髪さえ、まるで絹糸を編み込んだように見えた。
「では、本日の朝議を始めると致しましょう。まずは、各国の報告から……」
ざわついた空気を引き締めるように、大老のひとり、タカミムスヒの思兼が首長たちを指名していく。その朗らかな声に、彼らも議会の内容に集中せざるを得なくなった。
北部から始まり、東部、西部の首長たちが、次々と自国領についての近状を報告していく。
「……では、次に南の国境は如何でしょう。軻遇智殿」
「はい。春の収穫物を狙って、二回ほど蛮族による襲撃ありましたが、既に退けております。そのため、田植えの時期が例年よりやや遅れましたが、苗の生育に問題はありません……」
報告書を手に、軻遇智は答えた。
普段は王が住まう中央に身を置き、政の場にも参加する軻遇智だったが、彼は邪馬台の南を治める領主でもあった。たとえ小さな小競り合いだったとしても、争いが起これば自ら最前線へ向かうという。
彼だけではなく、有力氏族の娘を母に持つ上の兄たちは、それぞれ領土を与えられていた。
(俺も、早く兄上たちのように自分の領土が欲しい……)
治める地を与えられるということは、自身の統治者としての力量を示す機会にも恵まれるということである。男兄弟の中では陽衣奈の実弟・悠月に次いで幼少である海理は、政へ参加した月日自体がまだ浅く、自国領は与えられていない。そのことも、母や綿津見の一族を焦らせる一因となっていた。
その後、いくつかの事案が挙げられたが、特に大きな混乱はなかった。豊穣祈願の祭事を終え、養蚕に用いる桑の生育も順調だということもあり、当初の緊張とは裏腹に、議会は穏やかな雰囲気のまま幕を閉じた。
「それでは、これにて本日の朝議を終了と致しましょう。――解散!」
思兼の声を合図に、那岐王が部屋を退出する。上座の重鎮たちも、順に重たい腰を上げた。
つい先程まで息が詰まるほどの人で埋め尽くされていた大広間は、あっという間に寂しさを漂わせた。兄王たちも早々に席を立ち、軻遇智の姿もいつの間にか消えていた。
(俺も、一度、部屋に戻るか)
仕方なく、海理も自分の書簡をまとめた。彼らの仕事はこれからが本番だ。
だが、主祭殿を出ようとした少年の耳に、押し殺すような囁き声が引っかかる。
「しかし、沫那美さまが代役とは……」
「いくら大后さまの姪御とは言え、イザ一族ではない娘に祭祀を任せるなど……前例がない」
それは、部屋の片隅で肩を寄せ合う豪族たちの声であった。綿津見よりも劣る、中流程度の力を持つ氏族たちの顔が集まっている。
「王の姫族贔屓には、困ったものだ……」
「では、やはり王太子は軻遇智さまが……?」
「だが、それでは綿津見が黙っていないだろう……」
朝議の中では一切、反論を示さなかったが、やはり今回の代役について不満を持つ臣下たちは多いらしい。それはやがて、彼ら最大の関心である那岐王の後継問題へと流れていった。
邪馬台国王となって二十一年、すでに五十を超えたというのに、彼は未だに王太子を明確にしてはいない。
母親の序列でいけば大后腹の軻遇智、血統を重視するならば綿津見の海理、年齢と能力を重視するならば、同じ那岐王の娘を正妃に持つ七の兄・秋津彦の三人が、現在、後継「候補」として有力視されているに過ぎなかった。
(王を目指すということは、兄上たちを超えなければならないということだ……)
彼らに気づかれぬよう、海理はそっと踵を返す。書簡を抱えた腕に、力が籠もった。
政の経験も浅く、兄たちのような目に見える功績もない、ただ母の一族が名門だというだけの海理にとって、それは果てない望みのように思えた。
陽衣奈や張政は少年の努力を認めてくれるが、力不足であることは、少年自身が誰よりも分かっていた。
「……それでも、俺は、王になりたい」
それでも、海理は力が欲しかった。
今度こそ大切なものを守れるように。この掌に、繋ぎとめるために。
そして、あの遠い約束を、果たすために。




