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火恋―カレン―  作者: 白藤宵霞
第三章 火種
12/33

 春は慌しく過ぎ行き、次の季節を謳う。

 内郭を囲む柵を越え、一歩、集落群へと踏み込めば、目に鮮やかな若苗の青が一面に広がった。

 村の女たちは大きな洗濯籠を抱え、川原に降り立ち、じゃぶじゃぶと豪快に手を動かしながら世間話に花を咲かせた。おろしたての衣に、朱や青といった夏らしい色合いの帯が眩しく光る。

 見上げた空は緑に濡れ、はっきりとした晴天の兆しが見えた。

「……ふぅ」

 額に浮かぶ汗を拭い、陽衣奈は息を吐く。

 その視界では、初夏の太陽と風をたっぷりとまとった白妙が、楽しげにはためいていた。

「お疲れ様、です。陽衣奈殿」

「張政さま」

 陽衣奈が振り返ると、そこには優しい笑みを浮かべた青年の姿があった。彼の衣に染み付いた、薬草と花の香りが少女の鼻を撫でる。

「有難う、ございます。(よう)だけでは、手が、足りなくて……」

 その言葉を受け、張政の後ろに控えるように立っていた女が、静かに頭を垂れた。

 蓉、と呼ばれた女は、彼が大陸から連れてきた侍女であった。主人とは違って倭國の言葉はほとんど分からないようだったが、陽衣奈に向ける笑みはいつも優しい。

 高く結い上げた異国風の髪と、艶めいた朱唇。しっとりと汗ばんだ白い項には、後れ毛が数本張り付いていた。

「気にしないで下さい。張政さまには、いつも講義のために貴重な時間を割いて頂いていますから!」

 申し訳なさそうに眉を寄せるふたりに、陽衣奈は慌てて手を振る。

 その様子に、張政も蓉も嬉しそうに口の端を綻ばせた。血の繋がりはないはずだが、少女を気遣う優しい眼差しは少しだけ似通っていた。

「さぁ、陽衣奈殿も、一休みと致しましょう。……蓉、準備を」

 張政が大陸の言葉で話しかけると、蓉が薄青の裳を翻す。その後姿を追うように、陽衣奈も屋敷の戸を潜った。



 開け放たれた戸口の隙間から、眩い光が部屋へと差し込む。陽衣奈が足を踏み入れると、中にいた少年が書簡から顔を上げた。

「衣更えは済んだのか、陽衣奈」

「はい。……義兄さまも、講義は終わりました?」

「うん」

 傍へ駆け寄った異母妹に、海理は普段よりも柔らかな表情で微笑んだ。

「今日は、何を教わっていたのですか」

 彼を取り囲むように広がった書簡のひとつを手に取りながら、陽衣奈は首を傾げた。

「以前、末盧國で水田を見たと言っただろう?」

 その言葉に、陽衣奈は頷いた。

 先日、義兄が父王らと共に視察へ行ったときの話を思い出す。海に囲まれた末盧國は、大陸との交易で得た技術と知識を生かし、決して恵まれているとは言い難い土地での農耕に成功しているという。

「幸い、邪馬台は豊かな土壌に恵まれている……だが、今後、伊都のように他国を支配下に置くようになれば、そうではない土地を治める必要も出て来るかもしれない。実際、国内でも地域による収穫量の差はある」

「それで、治水……ですか」

 海理の手元の書簡に目をやり、陽衣奈は呟いた。

 そこには荒れた河川への対策や、地下から水を掘り出す技術が大陸の言葉で記されていた。他の書簡に目を通せば、治水のみならず、様々な土地に適した農耕方法が同様に書かれている。

「稲に限らず、その土地に適した農耕や政策を施せば、国力はさらに強まりますものね」

「それに、国内の生産物が潤えば、大陸への朝貢としても役に立つ……近隣諸国との交渉も、有利になるからな」

「まぁ」

 義兄の話に、陽衣奈は目を輝かせた。柔らかな丸みを帯びた頬が、興奮に染まる。

「熱心ですね、おふたりとも」

 だが、果てない好奇心をむくりと起こした彼女に、張政の苦笑が響いた。

 蓉がふたりの前に冷たい水を置く。

「ですが、何事も、程々になさるのが宜しい。……さぁ、こちらも、どうぞ」

 彼が指差す丸い器の中には、ころりとした形の枇杷が盛り付けられ、部屋に甘ったるい匂いを漂わせた。滴る果汁が指を濡らす。

「……美味しい」

「……美味い、な」

 口の中いっぱいに広がる瑞々しさに、陽衣奈と海理は、年相応の無邪気な笑顔を浮かべた。



「それにしても、陽衣奈は凄いな。毎日のように、こんなことを習っているのか」

 宮へと続く長い道程を、ふたりは肩を並べて歩いていく。

 右脇に張政からもらった書簡を抱えた海理は、感嘆したように陽衣奈へと視線を移した。少女もまた、大事そうにその胸に書簡を抱えている。

「海理だって、凄いです。張政さまが感心なさっていたもの……海理殿は呑み込みが早い、って」

 まるで自分が褒められたように、陽衣奈は頬を上気させた。

 海理が、少しくすぐったそうに笑う。

「陽衣奈は、どうして張政さまに勉学を教わろうと思ったんだ?」

 代々、女子が当主の座を継ぐ姫族などは例外として、王女である彼女は政の世界とは全くと言って良いほど縁が薄い。元々、母親に似て好奇心旺盛な少女であったが、彼女が王子である海理も顔負けの知識――所謂、薬草学や天文学だけに留まらず、政治学や占術を学ぶ意義は、正直、ほとんどなかった。

 それでも、同盟の象徴として要人の元へ輿入れする可能性のある異母姉妹たちよりも、彼女は貪欲にそれらの知識を欲した。

「単純に、知識を得るのが好きだと言うのもありますけど……」

 そこで言葉を切ると、少し躊躇うように陽衣奈は答えた。

 白い頬は先程とは別の意味で、赤く熟れる。

「……少しでも、海理に近づきたいと、思って」

 他の兄王たちと同じように、海理も十三になる頃には、政に関わるようになった。陽衣奈の元へ訪れる時間もめっきり少なくなり、幼心にも彼が遠い存在になっていくような恐怖を覚えた。

 どれほど義兄が陽衣奈に優しくとも、彼女は幼いながらに自分たちの身分の差を理解していた。それでも、彼を恋い慕う気持ちを消し去ることは出来ず、せめて、義兄が身を置く世界のことを知りたいと望んだのだ。何処かで繋がっていたいという、愚かで幼い恋心が少女の身体を突き動かした。

 丁度、その頃、父が積極的に呼び寄せていた大陸の知識人たちに教えを請い、そして張政と出逢った。

「全ては、海理の傍にいるために。そして……今は、あなたとの楽園のために。あまり崇高な理由じゃないんです」

 生まれついた身分は決して覆せないけれど、それでも、もしも願いが叶うのならば、これからも彼の傍にいたい。いつか王となる彼の隣に恥じない人物でありたいと、陽衣奈は願った。

「……呆れられて、しまいましたか?」

「呆れるはずがない」

 恥ずかしさに目を伏せれば、すかさず、少年の手が彼女の空いた右手を捕らえた。

「むしろ嬉しい。……俺も、同じだから」

 互いの想いを重ね合わせるように、少女のそれを、一回り大きな掌が包み込む。触れた熱に、陽衣奈は思わず顔を上げた。

 義兄と、視線が交じり合う。

「海理……も……?」

「あぁ。俺も、陽衣奈の傍にいたい。そのためにも、今は力が、知識が欲しい。……そう言ったら、陽衣奈は呆れるか?」

 ほの甘い言の葉が、少女の耳朶をくすぐる。

 凪いだ瞳は静かな激情を孕んで、彼女の姿を映し出した。一途な眼差しが、彼の言葉の強さを伝える。

「そんなことは、ありません。……わたしも、嬉しい」

 心地好い静寂を噛み締めるように、ふたりはゆっくりと歩幅を合わせて歩き出す。

 けれど、どれだけ時を惜しんでも、永遠の時を望んでも、終わりはやがてやって来る。集落の喧騒は遠退き、彼らの前に(そび)え立つ城柵が現れた。地面に横たわる大きな門の影に、陽衣奈は表情を曇らせる。

 今は固く握り合った掌も、この境界を潜れば離れ離れになってしまう。そう思うと、自然と足取りは重くなった。

「陽衣奈……」

 そんな少女の不安を汲み取るように、少年が歩みを止めた。その真剣な横顔に、陽衣奈は暫し見惚れる。

「俺は、今よりもっと励んで、きっと王になってみせる」

「海理……」

 決意を宿した瞳が、少女の褐色を射抜く。

 まるで永遠の別れを惜しむように、長く伸びたふたりの黒い影がひとつに重なった。

「だから、それまで待っていてくれ。俺は必ずお前を……陽衣奈を、大后として迎える」

 夏の風と共に、義兄の匂いが陽衣奈を包み込む。と同時に、彼女の額に密やかな熱が、こつんと落とされた。

 暮れなずむ夕陽の下、陽衣奈は落陽よりも赤く頬を染め上げた。




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