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陽衣奈と別れた後、自身の部屋へと戻った海理は、早々、母親付きの侍女に急かされる羽目となった。
急ぎ部屋に参れ、という聞き飽きた言付けに、先程までの甘い気持ちも一気に冷めてしまう。
(あの人も、懲りないものだな……)
花の匂いの染み付いた衣を脱ぎ、真新しい深藍の袖に腕を通す。僅かに解れた角髪も直され、身支度を整えられると、また別の侍女に伴われて母の室へと向かった。
「海理さまを、お連れ致しました」
「中へ」
氷雨を思わせるような声に従い、女たちが海理を部屋の内へと誘う。
「……何処へ、行っていらしたのです。海理」
垂絹を潜ると、上座に控えた部屋の主が彼をじとりと見据えていた。
「何処だって良いでしょう。あなたには、関係のない話だ……母上」
数多くの侍女を侍らせた、自分とよく似たつり目がちの女を見つめ、海理は息を吐く。
その言葉に、女は柳眉を潜めた。
「はぐらかしても、話は既に聞いていますよ。……未だ、あのような下賤の娘と関わっているそうですね」
下賤の娘というのが、平民を母に持つ陽衣奈を指差していることは、誰にも明らかだった。
それに対し、海理は苛立ちを隠すことなく、片眉をつり上げる。彼女もまた、陽衣奈たち母子を疎薄するひとりだった。
「……良いですか、海理。あなたは、王の後継者なのですよ。いつまでも落ち着きがないのは困ります」
「務めなら、果たしているつもりですが。今回の末盧への視察も、祝宴の奏楽も、父上の補佐も……」
「それなら、何故、王は未だに王太子を定めては下さらない」
苛立たしげに、母は言った。
紅を塗った唇を噛み、責めるような眼差しを海理に向ける。
「王も高齢です。……早く、あなたが一人前となって、跡を継いで差し上げねばなりませんでしょう?」
それが正しいと言わんばかりの口調に、海理は口の端を歪めた。
「俺が王になるとは限りませんよ。他にも、後継候補の王子はいる。――たとえば、大后さまの御子である、軻遇智の兄上が」
彼女の言葉を、一人息子への期待と、母親としての愛情なのだと信じた時期もあった。
けれど、母の目に宿るその感情の名を知ったとき、海理は全てを理解した。
「……あの、姫族の息子が?」
大后の名が出た途端、女は陽衣奈に対する以上の嫌悪を滲ませながら短く笑った。
「馬鹿なこと。幽閉されるような罪を犯した女の子供が、どうして、あなたを差し置いて次期王になどなれましょうか……!!」
彼女の顔に浮かぶそれは、紛れもない嘲笑だった。
その姿は、実母ながら悍ましいほどに醜かった。
(この人はただ、不満なんだ。自分が、大后に選ばれなかったことが……)
彼女の生家・綿津見といえば、山津見の一族と並ぶ大豪族である。その歴史と血統は古く、かつて伊都國王室の后も数多く輩出してきた名門だ。
対して、現在、大后の地位を戴く伊那美は姫族の血筋である。主君であるニギ一族を滅ぼし、邪馬台の王に成り上がったイザ一族同様、元は祭祀を司る小豪族にしかすぎない。
綿津見の娘として、姫族が「后」であることは自尊心が許さないのだろう。
「――けれど、それを決めるのはあなたではない」
悪意と侮蔑に満ちた禍言を振り払うように、海理は勢い良く立ち上がる。
腕に巻いた金輪が擦れ、耳障りな音を立てた。
「待ちなさい、海理っ!」
「海理さま!!」
肩を怒らせたまま、海理は踵を返す。
母の感情的な声も、侍女たちの制止の声も、彼を留めることは出来なかった。ばさりと落ちた垂絹が、母子を永久に別つ。
――ねぇ、海理さま。わたしのお願いを、聞いて下さいますか。
その心に触れるのは、母とは異なる優しい声。遠い日に失われた褐色の記憶。
そして、彼女が残した約束と、それによって花開いた甘い感情。
(……誰が、なんと言おうと、俺は陽衣奈しか后として認めない)
たとえ、身分が低すぎると言われても。尊い血統を受け継いでいないとしても。
それでも、海理にとって己の妻に相応しいのは、傍にいて欲しいと願うのは、今も昔もあの異母妹だけだった。




