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海理と裏門で別れ、陽衣奈は帰路に就く。
楽しい時間は瞬く間に過ぎ行き、太陽は既に大きく傾いていた。
迫り来る夕暮れに、少女の足も自然と早まる。あまり遅くなると、また真咲に怒られてしまう。それに、悠月との約束も待っていた。
「――そこにいらっしゃるのは、陽衣奈さま?」
「えっ?」
だが、妃たちが住まう後宮を横切った瞬間、何処からか彼女を引き留める声が上がった。
自分の名が呼ばれたことに驚きながら、陽衣奈はふと足を止め、辺りを見回す。
「……ふふ、こちらですよ、陽衣奈さま」
見当違いの場所に視線を向ける少女に、先程の声の主は柔らかに笑った。
陽衣奈の褐色に、赤と白の神職服が映る。後宮と、父の住まう宮殿とを結ぶ外廊にその人はいた。
「伊那美さま」
「やっと、見つけて下さいましたね」
そう言って微笑んだのは、父の異母妹であり、大后の位を戴く伊那美である。
四十を越え、父との間に二十二となる王子がいるにも関わらず、その容貌は少女の頃の華やかさを留めていた。
優しい眼差しを緩め、耳に心地好い声色で彼女はひらりひらりと陽衣奈を手招いた。
「こちらにいらっしゃい、陽衣奈さま」
「はい」
呼ばれるまま駆け寄ると、伊那美がそっと腰を折る。
そうすると、庭に立った陽衣奈と、高床式の廊に立つ伊那美との視線がぐっと近くなった。その何気ない仕種に、陽衣奈の胸の内があたたかくなる。
彼女の後ろには、同じ神職服をまとった沫那美が控えていた。恐らく、夕の務めの帰りなのだろう。陽衣奈と目が合うと、沫那美がそっと笑みを返してくれた。
「沫那美から伺いましたよ。近頃、陽衣奈さまは張政殿の元に通っていらっしゃるとか」
「はい。先日は、筮竹について教わりました」
「まぁ、筮竹を?」
陽衣奈の声に耳を傾けながら、伊那美は楽しげに微笑んだ。
「新しいことを知るのは、素敵なことですね。菊理さまに似て、陽衣奈さまは利発でいらっしゃるから……わたくしも、あなたの成長が楽しみなのですよ」
彼女の口から零れた名に、陽衣奈は懐かしさを覚えて目を細める。
菊理――それは、今ではほとんど耳にしなくなった、陽衣奈の母の名前だった。巫女として多くの知恵を持ち、村人たちに慕われた、誰よりも風が似合う大好きな人。
だが、陽衣奈がその面影に浸るよりも早く、女たちの横に長い影が落ちた。
「――母上」
低い声色に、陽衣奈は反射的に肩を強張らせる。
喉の奥が乾き、僅かな緊張が走った。伊那美を「母」と呼ぶ人物を、陽衣奈はひとりしか知らなかった。
「あら、軻遇智。お勤めは、終わったのですか?」
伊那美が、声の方へと首を傾げる。
そこには、黒い衣をまとい、いくつかの書簡を脇に抱えた異母兄が立っていた。
「はい。母上たちは、今、お帰りですか? 宜しければ、部屋まで送りますよ」
「まぁ、嬉しいこと。……そうね、せっかくだからお願いしようかしら?」
少女のように顔を綻ばせ、伊那美は息子が差し出した掌に己のそれを重ねた。
そして、浮かべた柔らかな表情のまま陽衣奈を振り返る。
「引き留めてしまって、ごめんなさいね。陽衣奈さま。……夜道にお気をつけて」
「は、はいっ。伊那美さま、沫那美さま、お勤めご苦労さまです」
軻遇智に手を引かれ、さらさらと遠ざかっていく足音を陽衣奈はひとり見送る。
そして、彼らの姿が完全に消える頃、緊張の糸が途切れたようにその手足が震えた
(やっぱり、軻遇智の兄上は怖い……)
昔から、彼女はどうしてもあの異母兄が苦手だった。
軻遇智が陽衣奈に向ける眼差しは、他の兄弟の誰とも違う。そこに宿るのは、軽蔑でも、嫌悪でももなく――はっきりとした「無関心」だ。
彼の黒い双眸に、陽衣奈の姿はまるで映っていなかった。それが、少女には何よりも恐ろしかった。
(どうして、沫那美さまは軻遇智の兄上が恐ろしくないのかしら……)
まるで隙間風が入り込むみたいに、胸に寒々しさが広がる。
その感覚がひどく厭わしくて、陽衣奈は逃げるように自分の宮へと走った。彼女の背を黄昏が追いかけた。




