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火恋―カレン―  作者: 白藤宵霞
第二章 真白の娘
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 海理と裏門で別れ、陽衣奈は帰路に就く。

 楽しい時間は瞬く間に過ぎ行き、太陽は既に大きく傾いていた。

 迫り来る夕暮れに、少女の足も自然と早まる。あまり遅くなると、また真咲に怒られてしまう。それに、悠月との約束も待っていた。

「――そこにいらっしゃるのは、陽衣奈さま?」

「えっ?」

 だが、妃たちが住まう後宮を横切った瞬間、何処からか彼女を引き留める声が上がった。

 自分の名が呼ばれたことに驚きながら、陽衣奈はふと足を止め、辺りを見回す。

「……ふふ、こちらですよ、陽衣奈さま」

 見当違いの場所に視線を向ける少女に、先程の声の主は柔らかに笑った。

 陽衣奈の褐色に、赤と白の神職服が映る。後宮と、父の住まう宮殿とを結ぶ外廊にその人はいた。

伊那美(いなみ)さま」

「やっと、見つけて下さいましたね」

 そう言って微笑んだのは、父の異母妹であり、大后の位を戴く伊那美である。

 四十を越え、父との間に二十二となる王子がいるにも関わらず、その容貌は少女の頃の華やかさを留めていた。

 優しい眼差しを緩め、耳に心地好い声色で彼女はひらりひらりと陽衣奈を手招いた。

「こちらにいらっしゃい、陽衣奈さま」

「はい」

 呼ばれるまま駆け寄ると、伊那美がそっと腰を折る。

 そうすると、庭に立った陽衣奈と、高床式の廊に立つ伊那美との視線がぐっと近くなった。その何気ない仕種に、陽衣奈の胸の内があたたかくなる。

 彼女の後ろには、同じ神職服をまとった沫那美が控えていた。恐らく、夕の務めの帰りなのだろう。陽衣奈と目が合うと、沫那美がそっと笑みを返してくれた。

「沫那美から伺いましたよ。近頃、陽衣奈さまは張政殿の元に通っていらっしゃるとか」

「はい。先日は、筮竹について教わりました」

「まぁ、筮竹を?」

 陽衣奈の声に耳を傾けながら、伊那美は楽しげに微笑んだ。

「新しいことを知るのは、素敵なことですね。菊理さまに似て、陽衣奈さまは利発でいらっしゃるから……わたくしも、あなたの成長が楽しみなのですよ」

 彼女の口から零れた名に、陽衣奈は懐かしさを覚えて目を細める。

 菊理(くくり)――それは、今ではほとんど耳にしなくなった、陽衣奈の母の名前だった。巫女として多くの知恵を持ち、村人たちに慕われた、誰よりも風が似合う大好きな人。

 だが、陽衣奈がその面影に浸るよりも早く、女たちの横に長い影が落ちた。


「――母上」


 低い声色に、陽衣奈は反射的に肩を強張らせる。

 喉の奥が乾き、僅かな緊張が走った。伊那美を「母」と呼ぶ人物を、陽衣奈はひとりしか知らなかった。

「あら、軻遇智。お勤めは、終わったのですか?」

 伊那美が、声の方へと首を傾げる。

 そこには、黒い衣をまとい、いくつかの書簡を脇に抱えた異母兄が立っていた。

「はい。母上たちは、今、お帰りですか? 宜しければ、部屋まで送りますよ」

「まぁ、嬉しいこと。……そうね、せっかくだからお願いしようかしら?」

 少女のように顔を綻ばせ、伊那美は息子が差し出した掌に己のそれを重ねた。

 そして、浮かべた柔らかな表情のまま陽衣奈を振り返る。

「引き留めてしまって、ごめんなさいね。陽衣奈さま。……夜道にお気をつけて」

「は、はいっ。伊那美さま、沫那美さま、お勤めご苦労さまです」

 軻遇智に手を引かれ、さらさらと遠ざかっていく足音を陽衣奈はひとり見送る。

 そして、彼らの姿が完全に消える頃、緊張の糸が途切れたようにその手足が震えた

(やっぱり、軻遇智の兄上は怖い……)

 昔から、彼女はどうしてもあの異母兄が苦手だった。

 軻遇智が陽衣奈に向ける眼差しは、他の兄弟の誰とも違う。そこに宿るのは、軽蔑でも、嫌悪でももなく――はっきりとした「無関心」だ。

 彼の黒い双眸に、陽衣奈の姿はまるで映っていなかった。それが、少女には何よりも恐ろしかった。

(どうして、沫那美さまは軻遇智の兄上が恐ろしくないのかしら……)

 まるで隙間風が入り込むみたいに、胸に寒々しさが広がる。

 その感覚がひどく厭わしくて、陽衣奈は逃げるように自分の宮へと走った。彼女の背を黄昏が追いかけた。


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