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※物語の都合上、弥生時代の日本には存在しない文化が登場することがあります。時代考証は雰囲気程度となります。
※時代上、未成年の飲酒や差別を含む描写、又は軽い暴力描写、ぼやかし程度の性描写などが描かれる場合があります。R12程度を予想していますが、苦手な方はご注意下さい。
以上の点を踏まえた上で、お楽しみ頂ければ幸いです。
夢の始まりは、いつも闇に閉ざされていた。
どれだけ天を仰いでみても、視界に映るのは同じ色ばかり。
蒼空に輝く太陽もなければ、夜空を照らす月もない。そこに、光はなかった。
カラーン……カラーーン……。
果てない闇の中、不規則な音律に陽衣奈はそっと瞼を開いた。
ぼんやりと漂う意識が、ゆっくりと点を結ぶ。ほぅ……と、短い溜息が零れた。
まず、彼女の目が捉えたのは、記憶よりも幼いふたつの掌だった。それは、丁度、この夢を見始めた頃と同じ――たった七つにしか満たない、幼い少女のものだった。
胸元に抱いた赤瑪瑙の勾玉に照らされて、己の未発達な身体が淡く浮かび上がる。
カラーン……カラーーン……。
乾いた音は絶えず鳴り響き、いつもと変わらず少女を手招く。
その正体を、陽衣奈は知らない。それなのに、彼女は一度としてそれを「怖い」と感じたことはなかった。
ただ哀しくて、切なくて、苦しくて。
それでいて優しく、あたたかく、愛おしい。
様々な感情を綯い交ぜにして少女が強く思うのは、ただ「懐かしい」という言葉だけ。
けれど、いつ、何処で、それを聞いたのか、どれだけ記憶の糸を手繰り寄せてみても思い出すことは出来なかった。なのに、心は叫ぶのだ。――逢わなくては、と。
(だれに?)
――彼に。
問いかける疑問に、そう応えるもうひとりの自分がいる。
それが決して偽りではなく、真実だということを少女は知っていた。
(……でも、どうして、わたしはそれをしっているの?)
だが、どれだけ首を傾げてみても、声は二度と応えてはくれなかった。
代わりに、反響する乾いた音だけがそんな彼女を慰めてくれた。
カラーン、カラーン……。
それは、確実に近づいていた。その事実に、少女の心は甘く熟れる。
高鳴る鼓動に、自然、足取りも早まった。
逢いたい、逢いたい、逢いたい。
身を焼き尽くすほどの激情に息が詰まり、呼吸さえ満足に出来ない。
その息苦しさに、彼女はとうとう走り出した。押さえ込まれた感情が、ひとつ、またひとつと花開く。
耳朶に触れる音は、彼もまた、陽衣奈に「逢いたい」のだと教えてくれた。
(わたしも、あいたい。いますぐにでも、あなたに)
伸びやかな四肢は闇を駆け抜け、ただ一目散に彼を求めた。
たったひとつの道標であるかのように、小さな赤が揺れて煌めく。
その色よりも激しい想いを、もう止めることなど出来なかった。そのときは、すぐそこまでやって来ていた。
――カラン……ッ。
短い音に、弾かれたように陽衣奈は足を止めた。
声帯が、堪えきれない愛しさで戦慄く。そこに、待ち望んだ「彼」の姿があった。
それは少女と同じくらいの歳の、男の子。
漆黒の髪と、浮かび上がる眩しい純白の衣。腰に佩いた一振りの太刀。
その胸元には、陽衣奈のものと良く似た瑪瑙の勾玉が輝いていた。青葉色の優しい光が零れる。
『逢いたかった……』
込上げる感情に、唇は勝手に言葉を紡ぎだす。
と、思ったときには既にそれは幼い自分自身ではなく、二十歳を越えたひとりの女のものへと変わっていた。
艶やかな声は細く、何処か淋しげに、涙の色を湛えて彼を射た。目の前の少年もまた、女と同じだけの年を重ねていた。
『逢いたかったです……ずっと、ずっと……』
伸びた花茎のような白い指が、男の輪郭を愛しげになぞる。
けれど、指先に触れた硬い感触に、少女の意識を宿したまま女は震えた。その意味を知り、彼女は嘆く。
未だ見えない男の面差しは、左半分が仮面で覆われていた。
『ごめんなさい、わたしが――を破らなければ……』
『……そうじゃない。俺が……俺が、――などしなければ……』
泣き濡れた女の頬を、伸びた手が不器用に触れる。
武人なのだろうか、肉刺の潰れた掌は硬く、落としきれない血の匂いが鼻を突いた。
それなのに、彼が向ける眼差しも、温もりもすべてが優しく、愛しくて……また、涙が零れた。
カラーーン……カラーーン……。
けれど、ふたりの逢瀬を遮るように、あの乾いた音が再び鳴り響く。
それと共に、女とひとつになった少女の意識もまた、遠い場所へと引き剥がされた。
カラーン……カラーン……。
視界がぼやけ、すべては深い霞の中に消える。
心と身体を切り裂く深い喪失感に、陽衣奈は聞き分けのない子供のように駄々を捏ねた。
伸ばした両腕は無様に虚空を彷徨い、待ってと叫んだ言葉も音となって響くことはない。彼女はただ無力だった。
(待って、待って。もう少しだけ、時間を頂戴……)
もっと、触れたい。
もっと、話したい。
伝えたいことは、たくさんあるのに。
そんな感情を嘲笑うかのように、何もかもが闇へと呑み込まれていく。
男の姿も、女の姿も、小さな掌は何も掴めない。それでも、陽衣奈は残酷な世界に抗い、水面へと手を伸ばした。
(せめて……せめて、あの子に、一目だけでも……)
ゆらゆらと、乾いた白が視界に揺れる。
その拙い指先に、赤が触れた。同時に、幼い泣き声が彼女の意識を掠める。胸が、つんと痛んだ。
(泣かないで、泣かないで。どうかそのまま、立ち止まらないで……)
しかし、陽衣奈には最早、想いを声にするだけの力も残されていなかった。
四肢の先端から熱は奪われ、全身へと圧し掛かる重石のような気だるさに瞼も閉じていく。
世界は再び、光のない暗闇へと引き戻される。それでも、声無き声で彼女は叫びつづけた。綻んだ口許に、涙の温度だけが熱く触れる。
(大丈夫よ、その先には、……きっと、あの人が…………)
――カラーン……。
数多の感情に塗れ、少女の意識は仄暗い夢の底へと沈んだ。