ー前ー
ずっと逃げていた。
目を背けていた。振り返るのが怖かった。何もかもを捨てて、遠くまで逃げていた。
この足で、ただひたすらにひたすらに走った。
でもいつかは止まってしまう。これ以上は逃げれない場所に着いたとき、足が止まるのだ。
そして、現実を振り返る。思い知る。この世界は苦しいことばかりだと。
どんなに走って走って走って逃げてもいつかは現実に捕まる。
それでも、俺は走るのを・・・・・・
いつもの朝が来る。いつもと同じ日常。変わらぬ地獄の1日がまた始まる。
のんびりと用意をして、朝飯を食い、学校へと向かう。
チャイムギリギリに登校、窓側の席に座り、脱力する。
無意味だと思う授業を受け流し、休み時間は寝たふりをする。
そうやって適当に過ごし、放課後になるまで待つ。
家に帰れば嫌な現実からちょっとだけでも逃げれる。
けれども、そんな簡単には帰れない。
「さぁ、今日も走ろう!!」
俺の左手は男子に掴まれ、右手は女性に掴まれる。
そしてズルズルとグラウンドまでひきづられるのだ。
「いい加減今日こそ走りましょう?」
右手を掴んでいた女性がにこやかな笑顔を向ける。
「嫌です」
はっきりと否定する。
「どうして?」
そんな事わかっているくせに・・・・・・
「遅いから」
「嘘だぁ」
「しかも長距離なんてしんどくて無理です」
「またまたぁ。ねっ、ちょっとでいいから走りましょう?」
「嫌です」
断固として拒否する。ってかこの人ほんと小学生の教師みたいなんだよなぁ。
そう、この女性は俺のクラス担任の水島先生なんだ。
40代にもうすぐなるというのに20代のような顔をしている。化粧しなくてもこの可愛さだろ?
そんなこと考えてると俺の鞄がいつの間にかあさられていた。
「てめぇ、寺井、何勝手に触ってんだよ!!」
「おぃぃぃ、何で体操服持ってきてないんだよぉ」
「帰宅部だから当たり前だろ、今日、体育あったわけじゃないし」
「お前走る気ないのかよぉ」
「走る気以前に帰宅部だ」
「まぁまぁ、なら今日は見学という形で」
「俺入る気さらさらないんすけど。そもそも3年の秋に何でこんなとこに連れてくるんですか?高校受験のために担任なら勉強させるべきだと思うんですけど」
中学3年の秋にグラウンドにたたずむ俺。長距離部員が走る姿を淡々と眺めているだけ。何してんだ一体。
「どうせ家帰ってもろくに勉強なんかしないでしょ?それに馬原君なら推薦取ろうと思えば取れるでしょ?
」
「それは、無理です」
「スポーツ推薦」
その言葉に唇を噛み締める。
「今から陸上部に入ったらまだ間に合うわ。来週の記録会は高校の先生たちも何人か来るわよ」
考えておいて。水島先生はそう言い、部員の元へと行った。
「駆流もさ。無茶しなくていいんだぜ?ただ、俺たちは来月の駅伝に出たいだけだからさ?お前が入ってくれれば人数なんとか揃うから・・・嫌ならいいんだ」
寺井も部員と合流し、アップを始める。
駅伝、か・・・・・・
グラウンドの片隅に立って、10月の風に吹かれながら5人しかいない長距離部員が走る姿をぼんやりと見ていた。
重ねてしまう。あの頃の姿と。
兄を無邪気に追いかけていたあの頃を。
追いつこうとしていた。必死になって走っていた。
あれだけ走ることが楽しかったあの頃を。
今はもう、あんな気持ちで走ることなんてできなくなった。
走るのは、辛くて怖い・・・・・・
苦しくなったらこの場所に何度も来た。
気が狂いそうになると丘の上にある墓地まで走ってくる。
そこからはどこまでも続く水平線を望むことができる。
その丘にある墓地の中に『馬原涼介』という文字が刻まれている。
「兄貴・・・・・・俺さぁ、どうしたらいいか分かんねぇよ」
小さい時からいつも背中を追いかけていた。
運動神経はあまり良くない兄貴は何故か走るのだけは速かった。
中学で陸上部長距離に入ってからはみるみる才能を発揮して、県大会はもちろん地方大会のレベルのランナーとなっていた。
高校は地元の名門校にスポーツ推薦で入った。
そんな兄貴と俺は毎日、夜のジョギングをしていた。
兄貴より速く走ってやるって!!まだ小学生だった俺は馬鹿みたいに走ってた。
それがいけなかった。
俺が調子にのってスピードをあげて走った。そして後ろを向きながら兄貴に挑発したんだ。
そしたら・・・・・・
血だらけの兄貴と散らばったガラスの破片が目の前にはあった。
目の前の兄貴は呼びかけても返事がない。
叫んでも泣き叫んでも何をしても兄貴は反応しなかった。
それがもう5年前。
相手の運転手はとっさにハンドルをきったものの、兄貴をよけきれず壁に激突したが軽傷だった。
俺は、5年前の事故という名の殺人を忘れてはいけない。だから、もう走ることをやめた。
走るのがトラウマだ。いやトラウマなんかじゃない。
俺は走ってはいけないんだ。
それが俺の被るべき罰だから。
「けどよぉ、最近ちょっとだけだけど、走りてぇなって思うんだ・・・・・・でも、ダメだよな」
この罰は一生だから。
「兄貴は俺を許さねぇよな?」
罰だからといって走ることから逃げてるのはとっくに気づいてる。
逃げることに恐れて逃げる。血を吐いてでも、呼吸が苦しくても、足が回らなくなっても。
自分と過去と罪から俺は逃げている。
兄貴と罪を言い訳にして。
「今日こそ走りましょう!」
毎日毎日ほんと飽きないものだな。ずるずるグラウンドに連れてきて、ほんと、よくやるよ。
「また持ってきてないじゃないかぁ」
「だから勝手に漁んなって!」
「私は知ってるわ」
先生は俺にそう言った。知ってる?何を。
「毎日走ってるらしいじゃない?お母様に聞いたわ」
くそっ、あの野郎!!
「もうやめない?逃げるのは?」
わかってる。逃げちゃダメだって。
「でもどうすることもできない。だから俺は走りません。でもホントは走るのを諦めきれない。だからこっそり走ってます。ただの臆病者の言い訳でしょ」
「違う!そんなわけない!俺は、俺は・・・・・・」
そのとおりだ。言い訳ってわかってる。
でも怖いんだよ。走ることを楽しいと思っちゃいけないんだよ俺は。
兄貴を殺した『走る』というのを楽しいなんか。
「俺は走りません、走れません」
家に帰っても勉強なんかやる気が起きない。
ぼーっとするだけだ。全く、受験生とか自分で言っておきながら何をしてるんだ俺は。
「今日は走らないの?」
「勝手に部屋に入るな」
「あら?もう部活で走ってきたからいいのかしら」
「あのなぁ。何勝手にペラペラ喋ってんだよ。」
「先生がいろいろ訊いてくるから仕方ないでしょ?」
「だからって・・・・・・」
「駆流、むりしてるでしょ?あんたは悪くないのよ」
だからもう一度だけでも走らないの?貴方が入れば駅伝出れるらしいじゃないの。
そうだよ、そのとおりだよ。
「もう寝る」
これ以上は何も考えたくなかった。
「来ませんねぇ」
「土曜って言ったのにぃ!今日が記録会ってこと忘れてるわけじゃないでしょうねぇ」
「当日申し込みだし、まだあと10分あるから大丈夫だと思いますよ」
「・・・・・・どうも」
「遅いわよ!!遅刻よ遅刻!!」
水島先生に言われてもやっぱり大して怖くない。
「ユニフォームね」
「あるよ」
「え?」
寺井はキョトンとする。
「兄貴の」
「あ、あぁ!!そういやお兄さんもだったけ」
「何だかんだ言ってホントは走りたかったんでしょ〜」
「・・・・・・別に」
「またまたぁ」
ツンツン俺の頬をつつくのやめて下さい。
ふぅっと先生は一息つく。
「ま、とにかく登録してきなさい」
「3000Mですか」
「そうよ」
無事試合の申し込みが完了し、試合の前のアップをする。
ゆっくりとジョグをし、体操、ストレッチをする。
そしてまたジョグをする。一回目のジョグよりもペースをあげて。
これは兄貴のやり方。
よしっ、大丈夫そうだ。走れる。多分。
タイムは今回はどうでもいい。どうでもいいって適当だけど、今はタイムよりも走れるかどうかだ。
体力は問題ない。確かに俺はちゃんと走ってる。
問題なのはメンタルだ。
試合のことを考えると身体がずっと小刻みに震えるんだ。朝からずっとそう。
まだ完璧に吹っ切れているわけじゃない。まともに走れてるのが不思議なぐらいだ。
兄貴が許してくれるわけないし、俺は自分を許せない、許さない。
なのに今こうして走っている自分がいる。矛盾している。おかしな話だ。自分の気持ちが再びあの頃に戻ってきたか。それとも兄貴が消えていっているのか・・・・・・
コールを終え自分の組を待つ。
「駆流は何組?」
「2組だ。どう考えてもおかしいだろ」
「いや、でも駆流なら当然でしょ。2組は9分台だし」
「それがおかしいだろ。寺井は何組なんだよ」
「5組だよ」
「一番遅い組じゃねぇかよ」
「駆流以外全員5組だよ」
「はぁ!?」
「そういやまだちゃんと紹介してなかったっけ。2年の高山と小杉。一年の赤井に白澤。そして3年は俺。この5人に駆流が加わって6人」
「因みにタイムはどれぐらいなんだ?」
嫌な予感しかしない。全員最終組だろ?ってことは
「皆11分後半から12分台」
だよなぁ!!
「あのさぁ。1つだけ言わせてもらうけど、お前らそれで駅伝でようとしてんのか?」
出たところで最下位になって恥をかくだけ。
「遅かったら出たらダメなのか?それとも君はこんなクズみたいなチームにわざわざ付き合うつもりはない。そう思ってるのか?そうなら付き合わなくてもいいよ」
「いや、そういうつもりじゃ・・・・・・」
「遅くても弱くても皆で襷を繋げることが駅伝だろ?心のリレーなんだよ、駅伝は」
「そうだな。すまなかった」
「それに何より・・・・・・やっぱ何でもない」
「何だよ?」
「大したことじゃないから」
そう言って寺井は逃げた。
「なんだったんだよ」
「先輩は今回、駆流さんのために駅伝に出ようって言ったんです」
「はぁ?」
なんだよそれ。俺が走りたいみたいな言い方じゃねぇか。
「いや、もちろん僕たちも駅伝でたいし、でも1人足りないから駆流さんを助っ人してもらいたかったのもあるんですよ。でもそれよりも先輩はもう一度走ってほしかったんです」
「なんだよそれ」
「もう一回走ってほしかったんです。あの時みたいに」
「あの時・・・・・・」
「小学生のときのように。先輩はいつも言ってました。無邪気だ。走ることにこれっぽっちの苦しみを感じてない。遊ぶ約束よりもお兄さんとのランニングを優先するぐらい、走るのが好きだって」
「もう好きじゃねぇよ!!」
確かに昔は好きだったかもしれない。けど、今は、好きとか嫌いとかそんなんじゃねぇんだよ。
「そんなわけない!!あなたは、ここに来た。」
「それはお前らが来い来い言うからだろ・・・・・・」
「本当に嫌なら来ませんよ」
そうだ。本当に嫌なら来ねぇよ。わざわざ3000Mなんか好き好んで走らねぇよ。家で寝ているほうがいいにきまってる。
「俺は、俺は、俺は・・・・・・」
「駆流ぅ、1組のコール始まるよ」
いつの間にか戻ってきていた寺井が呼ぶ。
「あ、あぁ。今行く」
「頑張って下さい」
後輩に頑張って下さいだなんて言われるとは。
スタートラインに並ぶ。
「お前タイムは?」
横に並んでた選手が訊いてきた。
「わかんねぇ。中学入って初めて走る」
「はっ!?それで1組かよ。かなりなめられてるなぁ」
「そういうお前は」
「9分23秒だ」
「それって速いのか?」
「あぁ。まぁ俺は3番目に速いけどな」
ちらっとユニフォームを見るとそこには円照寺と書かれていた。
円照寺学園か。私立中ならそら速いだろうな。
「5年前に円照寺にめっちゃ速い人いたか?」
「ん?あぁ、なんか学校にも写真と表彰状があったわ」
「その表彰状は2位だった」
「何でそんなこと知ってるんだ?ファンか?」
「いや」
兄貴がその試合1位とったからな。
―on your mark
試合開始の合図がなる。
おねがいしまーす
選手は皆それぞれに挨拶をし、1歩前に出る。
「お願いします」
俺もボソッと呟く。
少しの間をおき、秋晴れの空にパンッと音が響いた。




