空の娘
私は空を飛びたいのです、席に着くなり彼女はそう言った。ふむ、とあなたは考える。人間が空を飛ぶ、なるほどそれは魔法の分野である。そしてここは魔法使いの集う学院である。まさに彼女が目的を達成するには最良足りえる選択肢であった。眼前であなたの返事を待つ彼女は若い。まだ成人もして居ないであろう年齢で、果たして何故空を飛ぼうと思ったのか。
「個人的な事情です。私は、空を飛びたい」
理由を聞いてもとにかく空を飛びたいの一点張りで、頑なに動こうとしない。門番の兵士が困り果てる訳である。彼らは守護の任こそ仰せ付かっているが、こと実権と関しては無縁である。学院で学びたい!とひたすら主張する少女の相手は手に余ると言う物だった。たまたま学院で教鞭を振るうあなたが通りがかったから良いものの、下手をすればこの少女は牢獄で一晩頭を冷やす、なんて事に成りかねなかった。だからこそ場を取り成して少女の話を聞くだけ聞いてみようとつれてきた訳だったのだが。彼女にとっては残念な事に、魔法使いの集うこの学院といってもそもそも誰も彼もが望めば門戸が開かれる、という訳ではない。例えば有力者の紹介状だとか、前途有望な才能の持ち主であるとか、あるいは学院に席を置いたというステータスのみを求めて短い期間在籍する貴族の小僧小娘であるとか。要は滅多に一般人が門をくぐった試しが無いのである。そう言った事を言い聞かせてみたものの、ならば私が前例を作ってやるとばかりに彼女は息巻いた。余程空を飛ぶことに執着があるようで、不退転の決意を篭めた瞳はこれがどうして小気味良い。久しく見ることの無かった魔法への情熱に、あなたの内心は彼女の面倒を見ることへと傾き始めていた。
『空の娘』
あなたの当初の懸念とは裏腹に、彼女はあっさりと学院に馴染んでいる。飛び抜けて良い、という程ではなくともそれなりの魔法資質があった事も大きいのだろうが、やはり教授陣にしても昨今の学生の情熱に欠ける姿勢には皆思うところがあったらしい。極めて真面目な彼女の姿勢も手伝って、トントン拍子で話は進み、あなた預かりということであっという間に学院への編入は決定事項となっていた。障害らしい障害も無く、せいぜいエルフの麗人たる学長がちゃんと面倒を見なさいね、と言うに留まり今に至る。今、彼女は基礎学を修めようと必死になって教本を頭に叩き込んでいる。そもそも一般市民であるところの彼女が文字を読めるという所が驚きなのだが、あまり自分の事情を話したがらない彼女の姿勢もあってその辺りは有耶無耶で済ませていた。
「……実技はまだなのですか」
気付けば本を閉じた彼女は出会った当初と変わらぬ意志の強さを瞳に篭めてこちらを見つめる。あなたは苦笑しながらそろそろだったか、と腰を上げた。彼女はとにかく空を飛ぶことのみに拘っており、その他の魔法──例えば貴族のドラ息子に大人気の火球の呪文だ──には一切の興味を示さない。しかし、彼女にとっては残念な事だが空を飛ぶ魔法を使うにはそれこそ多様な呪文を修める必要があった。意思は強いものの筋が通っていれば納得はするようで、そうと理解した途端に彼女は執拗に実技に拘るのだ。理屈は頭の中にもう入っている、とまでは行かないものの、それを補う努力で彼女は実力を伸ばしている。それは良い、良いのだが。
あなたは駆け足で実技の練習場へと向かう彼女に視線を向けた。あまりにも余裕が無さ過ぎる。あのくらい年若い少女ならば、もっとほかの事に関心を示して然るべき筈である。それはおしゃれであるとか、色恋沙汰であるとか、あるいはもっと別の何かである。普通であれば少なくともあのような求道者風な生活はしないだろう。これはあなただけの懸念ではなく、彼女を担当したほかの教授陣からも留意するようにと何度も言われていた。自分自身があのくらいの年頃だった時期を思い返してみても、あれよりかは華やいだ生活をしていただろう。だから、何度かそういった類の話題を振ってみても興味が無いの一点張り。時折あなたが自分の趣味と偽って胸の焼けるような甘い菓子、あなたの好みとは両極端なそれをだ、を買ってくればある程度は反応を示すのだが、せいぜいその程度である。朝起きては教本を読み、日中は実技に集中し、日が落ちれば直ぐに寝る。これが思春期の少女の生活だというのだから、あなたは呆れを通り越して薄ら寒いものを感じていた。
「先生!早く行きましょう!」
遠くから急かす彼女の声に、あなたは曖昧に頷きながら足を進める。何が彼女をこうも駆り立てるのであろう、晴れぬ疑問を脳裏に浮かべながら。
その答えは、案外早くにあなたの知る所となる。
それは、良く晴れた日の事であった。念願かなって空を飛ぶ呪文を学びだした彼女は、こと空中移動の魔法には特別才能があったのか、ここで彼女は飛躍的に実力を伸ばした。それまでは贔屓目に言って中堅程度であったそれが、空中移動に関してだけ言えば天与の才能があったとしか言いようが無い。風の精霊の力を借りて、最初は『浮く』事からはじめる所を彼女は風に『乗る』所からはじめてのけたのだ。これにはあなただけでなく、教授一同も仰天した。風の魔法全般は平凡な実力であったのに、何故空中移動にだけこれだけの才能を示してのけたのであろうか?すとん、と危うげも無く大地に降り立つ彼女に驚きながらもあなたは労いの声を掛けた。かすかにはにかみながら頷く彼女に、しかしあなたは危機感を抱く。これだけ周囲を驚かせながらもこの落ち着きようは一体なんだと言うのか。出会った当初の意志の強さを再び爛々と瞳に宿す少女にあなたは一抹どころではない不安を抱く。
「先生……有難う御座いました」
特に、こんな風に日ごろの指導に対する礼と装いながらも、まるで別れを告げるような態度はとにかく気に食わなかった。半年以上付きっ切りで指導していたのだから程度はあれども情というのは沸くものである。だからこそ彼女はこうして礼を告げたのだろうし、あなた自身も真意を察して腹を立てているのだ。だが、この時点ではあなたの不安はただの推測でしかない。上手く取り繕えたか若干不安になりつつも、あなたは微笑で彼女に応えた。これから暫く気を張っていたほうが良いだろう、そう心の中で決めながら。
あくる日の夜、彼女は宛がわれていた自室を抜け出した。使い魔に知らされて目を覚ましたあなたは、即座にローブと杖を持って後を追う。恐らくはこれで彼女が空を飛ぶことに固執していた理由がわかる、確信と共にあなたは自室を抜け出し、足早に彼女の後を追いかける。彼女が向かった先は学院の奥にある丘の上。学院も、その下に広がる街も一望できる小高い丘だ。足早に駆ける彼女を追いかけて、若干鈍った身体に苦い思いを抱きながらもあなたは走る。今日は随分と風の強い晩だ。ごうごうびゅうびゅうと風の鳴る音を聞きながらも追いかけた。着いた先の、その丘で。彼女は一人両手を広げて空中飛行の呪文を唱える──否、唱えようとした。
「……先生、やっぱり気付かれていたんですね」
待ちなさい、と声をかけたあなたに振り返って彼女はそう告げる。バレないと思ったのですけど、と悪びれもせずに続けて言うが、半年の間毎日付き合っていたあなたにしてみれば一目瞭然であった。何かを誤魔化したりする時に、君は決まって右上の方に視線を向ける。そう言うと彼女は目を丸くして驚いてみせる。どうやら自覚は無かったようだ。一歩一歩ゆっくりと近づくあなたを、不思議と彼女は止めなかった。変わりに振り向いて丘から見える光景、というよりは寧ろ空へとその視線を向けている。
「今だから、お話します。空には、私のお母さん達が居るんです」
こちらを見ずに行われた唐突な告白に、あなたは足を止めた。続きを促すように黙っていると、ぽつりぽつりと彼女は話を続ける。それは、荒唐無稽なようでいて、魔法に携わるあなたにとっては十分理解し得る内容でもあった。
「私、捨て子だったんです。本当に小さい頃に、森の中で」
本来ならば幼子一人が森の中に捨てられて、生き永らえる道理は無い。だが、一人放り出された彼女に手を差し伸べた存在が居た──風の、精霊達だった。精霊とは自然そのものである。過酷な弱肉強食の世界も自然の一部であるが、育児を放棄された獣をほかの種が拾って育てるということも自然の中では起こり得る。そして実際、風の精霊達はそうしたのだという。思い返してみれば人としての身体を半ば失って、そのままであれば風の精霊と一体になっていたのではないかと彼女は告げた。それで空中飛行にだけ極端に秀でた才能も一応の説明が付く。一時期の彼女にとってそれは、呼吸をするように当たり前の技能だったのだろう。しかし、それでは何故彼女は今、こうしてここに居るのであろうか。当然の疑問を抱くあなたに、振り返って苦笑した彼女は続ける。
「お母さん達、色んな事を教えてくれました。人としての常識とか、人の暮らしとかも、いろいろ。
そしてある日、決めなさいって言ったんです。風になるのか、人に戻るのか、どっちにするか、決めなさいって」
そしてある日、彼女は人として生活をしてみるために人里に放り出されたのだという。彼女を引き取ったという老夫婦は驚いた事だろう、空から全裸の少女が降ってくるのだ。さぞ大騒ぎになったに違いあるまい。同時にその老夫婦は大層な人格者であった事もまた確かである。何故ならば彼女が学院の門を文字通り叩くまでしっかり面倒を見たのだから。そう思ったことを言ってみれば、彼女にしてもその老夫婦にはひとかど以上の恩義を感じているらしく、微笑んで頷いてみせた。だが、しかし。それでもこうして空を飛ぶ魔法を学んだという事は、彼女はその"お母さん達"の所に戻ろうとしたのか。
「……最初は、そう思っていたんですけど」
わかんなくなっちゃいました、と打ちひしがれたような声で彼女は言った。老夫婦との生活もそうだし、学院での生活も楽しかったと。才能は無くとも新しいことを学ぶのは新鮮で、同年代の子供と接する事もそうだったらしい。何せ空から降ってきた娘である、周囲から忌避される事は避けえぬ事だったそうだ。学院に来てからは例えそれがお高くとまった貴族の子女であろうとも、才能を鼻にかけた若造であったとしても、やはり新鮮であったのだと。最初は見下すような態度をとっていた生徒達もそんな素直な彼女の気性に絆されて、なんだかんだと世話を焼く者は多かった。あなた自身もその一人である。先生の買って来るお菓子がおいしくて、と彼女は笑った。どうやらあなたが苦手なのを無理して買ってきて、彼女の気を引こうと試みていた事はすっかり見通されていたようである。
それでもこうして風の強い夜にここまできたのは、ひとえに母達への愛情があったからこそであろう。ごうごうと吹き付ける風は相変わらず強かったが、不思議とあなたと彼女の間は凪いでいる。彼女の母が、迎えに来ているようにすらあなたは感じた。歩み寄って彼女の肩に手を置き問いかける。君は、どうしたい?彼女は暫く俯いて考え込んでいたが、お母さんと小さく呟く。それが、答えだった。
ただ風に融けて逝かせるには弟子として彼女への愛着は十二分にある。しかし、こうして彼女が望むのであれば。あなたは彼女の細い腰に手を回して、自ら空中移動の呪を唱える。浮き上がる二人の身体、彼女は戸惑ったように先生?とこちらへ首を傾ける。この強い風の中で、たとえ風の精霊の娘だとしてもつい先日風に乗れるようになったばかりのひよっこをただ放り出すほど薄情ではない。戸惑ったままの彼女を腕に抱きとめたまま、あなたは宙へと舞い上がる。学院で教鞭を振るう立場である、この風の強さでもあなたには障害となり得ない。荒れる風の中、あなたは最も精霊の力を感じる方向へと進んでゆく。風の強さは徐々に徐々に増していくが、決してあなたを揺さぶらない。寧ろ、風の流れを見るに通り道のようなものを作り上げているようにすら感じる。娘の帰還を歓迎しているのだろうか。あなたは不意にそんなことを思った。
そのまま暫く進むと、ついに風の中心部へと到達した。別段なにか特別なことが起きている訳ではないが、精霊の気配というものが段違いで強い。腕の中の彼女はその気配に顔を向けているが、どうもあなたの腕を離れる気配が無い。別れを惜しんでいるのか、今もって決めかねているのか。あなたがさぁ、と促してやるとそこでようやく、彼女は自らの呪文で空に浮いた。後ろ髪引かれる思いらしく、あなたを振り返ったその表情は涙が浮かんでいる。だが、同時に焦がれるように精霊の気配の方を何度も見やる姿はやはり母に会いたいのであろうと言うことを強くあなたに印象付ける。ぽん、ともう一度彼女の肩に手を置いて、あなたは告げた。『いってきなさい。私はいつでも、学院の部屋で待っているよ』生徒の一時帰宅程度、良くあることだと笑ってやると、彼女はこらえ切れなくなったのかあなたの胸元へと飛び込んできた。ありがとう先生、と繰り返して泣く彼女をあやすこと暫く。ようやく、ふんぎりが着いたらしい。
「先生、私、いってきます。お母さんと、会ってきます」
涙で腫れぼったくなった顔をぐしぐし、と袖で拭った後には年相応の無邪気な笑みが浮かんでいる。そうして気配のほうへと振り返り、深呼吸を繰り返すこと数度。お母さん!と声を挙げて彼女は気配の方へと飛び込み──
──フッ、と。まるでそこに、それまで彼女が居たことが嘘のように、彼女の姿は何の前触れも無く掻き消えた。
あまりに呆気ない幕切れに、あなたもしばし呆然となる。気付けばあれほど荒ぶっていた風もすっかり凪いでいるではないか。一体これはどういうことか、と周囲を見渡してもすっかり静まった夜の空は何も答えを返さない。すとん、と地面に降り立って再び空を見上げる。良く晴れた夜空で、月明かりが周囲を照らしている。風は収まり静かなままで、特別な何かを期待していた訳ではない筈だったが、あまりにも唐突で、本当に呆気ない別れだった。そうあなたが思った瞬間。一陣の風が駆け抜ける。
その風の中であなたは、確かに『ソレ』を見た。
魔法を教える学院である。よって当然といえば当然であるが強い精霊の気配に教師陣総出で警戒していた晩が明けて、あなたはエルフの学長と共に昨晩の丘へと来ていた。相槌を打ちながら事情の説明に聞き入る学長と、ゆっくり歩を進めて行く。あれほど荒れた風の割には特に乱れた様子も無い自然を見て、やはり風の精霊の仕業であったのだなとあなたは考える。
「しかし、これで寂しくなりますね。あの子の真っ直ぐさは皆好ましく思っていましたから」
穏やかに、しかし残念さを若干滲ませた学長の言葉にあなたは戸惑い気味に肩を竦めた。教え子が消えてしまったというのに同意を見せないあなたをいぶかしんだ学長であったが、あなたにしてみれば彼女はただの里帰り中なので気にしていない、と言うと珍しいことに目を丸くした後になるほどと納得したように微笑を浮かべた。本音を言えば彼女との永遠の別れになったのではないかという懸念はあるが、そこは彼女の意思を尊重したいと思うこともまた事実である。然るに師であるあなたのすべきことと言えば、何事も無かったかのように日々を過ごして、もし彼女が帰ってきたならば、その時はおかえりと出迎えてやることであろう。そう続けて伝えると学長は嬉しそうに微笑する。成長しましたね、とあなたの師でもあった女性に言われると、少しむず痒い気持ちになった。
「それで、ここですか。あなたが見たというのは」
そうして二人、足を止めたのは昨晩あなたが宙から降り立った丘の麓である。開けた平原となっているそこで、吹き抜けた一陣の風。そう、あなたは確かにその風の中で彼女を見たのだ。ほんの一瞬の出来事であった筈なのに、鮮烈に脳裏に焼き付いている記憶。空へと舞い上がる風の中で、恐らくは風の精霊らしきぼんやりとした人影と、その人影に抱きついて満面の笑みを浮かべた彼女を。母親に出会えて、純粋に喜んでいた。
「……人が、精霊と化す。学会にでも言えば大騒ぎになりそうですね」
そんな事をする気などさらさらあるまいに、学長は肩を竦めてそう告げる。あなたの言葉を疑うでもなく、事実として受け止めていることにあなたは感謝の念を覚えた。荒唐無稽な話である。精霊が人間の面倒を見る、それはまだ良い。だが、その人間が精霊と一体となって消えうせるだなどと、果たしてどれだけの相手が信じることやら。勿論、立場もそうだが信じてくれるであろうという確信があったからこそ学長を相手に選んだのではあるのだが。
「空の娘、里帰りするとでも言った所でしょうかね……帰ってくると、思いますか?」
学長の問いかけに一瞬あなたは言葉に詰まった。しかし、思い出すのは別れの時の言葉。『お母さんと、会ってきます』と言っていた。ならば、きっとその内帰ってくるのでしょう。そう返事をするとそうですね、と頷いた学長は周囲を見回して検分を終わらせる事にしたらしい。戻りますよと言っててくてくと歩き出した。あなたもそれについて戻ろうとするが、そよ風があなたの耳をくすぐった。彼女の息遣いを感じた気がして振り返り、空を見上げるとそこには晴天の空。やはりただの気のせいか、と結論付けてあなたは学長の後を追う。
学院へと戻るあなたと学長の背後で、優しく暖かい風がふわり、と駆け抜けていった。
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せっかくなのでこちらでも。