CLOSS
母さんが僕の名前を呼ぶ声に目を覚ます。カーテンを突き抜けて部屋に差し込む陽光が眩しくて思わず目を細めた。
気だるいのを我慢し、ベッドから上半身を起こして時計を見ると時刻は七時三十分を過ぎていた。
昨日は早く床に就いたはずなのに……、最近はいくら眠っても眠り足りない気がする。疲れているのだろうか?
僕は未だ覚醒しきっていない頭をゆるゆると振ると、ベッドから降り、毎朝の習慣のように部屋の扉の下へと視線を移す。
そこにはいつものように、ピンク色に染められた一枚の便箋が差し込まれていた。
扉の前で腰を屈めてその便箋を拾い上げ、書かれた文章に目を通す。それはやはり僕の妹、由里奈からの手紙であった。
『お兄ちゃんへ
今日はちゃんと遅刻しないように起きられましたか?お兄ちゃんはお寝坊さんだから、妹の私としてはとても心配です。
そういえば昨日の手紙も楽しく読ませてもらいました。楽しい学校生活を送れているようで私も自分のことのように嬉しいです。お兄ちゃんから手紙で色々と教えてもらっていると私も学校に行ってみたいな……、なんて思ったり。
あんまりゆっくり読んでいるとお兄ちゃんが学校に遅刻しちゃうといけないから今日のお手紙はこの辺で終わらせていただきます。
今日も一日、頑張ってください。
由里奈』
僕は手紙を読み終えると、それを机の引き出しにしまった。その引き出しの中には今まで由里奈からもらった全ての手紙が保管されている。
引き出しをそっと閉じると、僕は制服に着替え、部屋を後にした。
リビングへと向かう途中、立ち止まってふと振り返る。僕の部屋からリビングの反対側の奥の部屋。そこが由里奈の部屋だった。
僕と由里奈はもう、何年も顔を合わせていない。三年前、事故で父さんが他界したショックで彼女は日中は部屋に引き籠もっているからだ。
しかし、どうやら僕が眠った後に部屋から出てきているらしく、ある日の朝、僕の部屋の扉に差し込まれていた一通の手紙から僕達の文通は始まった。
『お兄ちゃんへ
これから毎日お兄ちゃんに手紙を書こうと思います。お兄ちゃんが起きてる時間帯は私は外に出られないので、これで少しでもお互いが交流できたら嬉しいです。
由里奈』
それが彼女からもらった最初の手紙の内容だった。
僕はその日、学校から帰って夕食を終えると、すぐに手紙の返事を書いた。
『由里奈へ
手紙ありがとう。僕も毎回手紙の返事を書こうと思う。
お父さんがいなくなって辛い気持ちは僕にもわかる。だけど、たった二人の兄妹だから、二人で頑張っていきたいと思うんだ。
こうやって手紙を出し合うことが一日でも早く由里奈が部屋から出られるようになるきっかけになれば嬉しい。
明人』
その日から由里奈からの手紙の返事を夜に書いて、床に就く前に彼女の部屋の扉に差し込むことが僕の日課となった。
「おはよう、明人。早く朝食食べちゃわないと学校に遅刻するわよ」
リビングに行くとキッチンで洗い物をしていた母さんがこちらに微笑みを向けた。
僕はテーブルに付き、上に置かれたトーストをかじる。
「ねえ、母さん」
「なあに?」
「母さんは由里奈と話をしたりしているのかい?」
「ええ、毎晩ね」
僕はその返事に軽い嫉妬心のようなものを覚えた。できることならば僕だって直接由里奈と顔を合わせて話がしたい。しかし僕は体質なのか夜に非常に弱く、気がつけばいつの間にか眠っていてベッドで朝目覚める、といった状態なのだ。
「じゃあ、行ってきます」
僕は母さんに声をかけると、玄関の前で一度立ち止まり、振り返って由里奈の部屋に視線を向けた。
いつか、由里奈があの部屋から出て僕に顔を見せてくれる日が……。僕はそれを切実に願いながら、いつものように学校へと向かった。
その日の夜、夕食を食べ終わるとすぐに自分の部屋の机に向かい、由里奈への返事を書き始めた。
『由里奈へ
今日の朝も手紙ありがとう。学校はそれなり楽しいけれど、僕はもう三年生なので、大学受験のこととか色々と大変だよ。由里奈が高校に行ってたなら今は一年生だから一番楽しい時期だったかもね。
……こういった手紙のやりとりではなく、直接顔を合わせて話せる日が来ることを願ってる。
明日の手紙も楽しみにして今日は眠ります。おやすみ。
明人』
手紙を書き終えると、それを由里奈の部屋の扉に差し込み、ベッドの上で横になる。
由里奈は昔から大人しい少女であった。色白で身体が小さく、病気がちで、”儚い”という言葉は正に彼女を現す言葉そのものに思えた。
彼女は子供の頃から僕にべったりで、僕はそんな由里奈に兄妹のそれとは全く違った感情を確かに抱いていた。
時刻は二十三時、いつもこの時刻は急激な眠気に襲われる。最後に見た由里奈の姿を浮かべながら、僕の意識はゆっくりと虚無の彼方に吸い込まれた。
……その日、夢を見た。僕と由里奈から父さんを奪った悲しい事故、その光景を。
横断歩道を渡る父さんと僕達兄妹。そこに凄まじい速度で向かってくる一台のトラック。僕達を庇うようにして二人を抱き締める父さん……、そうしてその巨大な鉄の塊は、僕達から掛け替えのない父を奪っていった。
微かに開いたカーテンからは青い闇がしっとりと流れ込んできている。まだ、暗闇に目が慣れていないためか部屋の中の光景は殆ど視認できない。
夢を見ていた。私とお兄ちゃんからお父さんを奪った悲しい事故、その光景を。
横断歩道を渡るお父さんと私達兄妹。そこに凄まじい速度で向かってくる一台のトラック。私達を庇うようにして二人を抱き締めるお父さん……、そうしてその巨大な鉄の塊は、私達から掛け替えのないお父さんを奪っていった。
……お兄ちゃんはもう、寝ちゃったのだろうか?私はベッドから身体を起こし、毎日の日課のように部屋の扉に視線を移す。
そこにはいつものように、お兄ちゃんからの手紙が差し込まれていた。
私はその手紙に目を通し、それをそっと胸元に抱き締める。
嗚呼……、お兄ちゃん、私の最愛のお兄ちゃん……。この気持ちは決して兄妹愛などではない。私は間違い無く、一人の女としてお兄ちゃんを愛している。
できることなら、こんな手紙じゃなく、直接顔を合わせて話したい。でも私にはそれはできない……。
いつものように手紙を引き出しの中に納め、部屋を出てリビングへと向かう。
「おはよう、お母さん」
「あら、おはよう由里奈。今日は随分早起きなのね」
リビングではお母さんがテーブルの上に二つのコーヒーを並べて椅子に座っていた。
「お兄ちゃんはもう寝ちゃった?」
私は並べられたコーヒーの一つに口を付けて問いかける。
「ええ。あの子、この頃だんだん寝るのが早くなっちゃって……、疲れてるのかしら?」
多分、三年前にお父さんが死んだあの事故でお兄ちゃんも心に深い傷を負っているのだろう。それに加えて私がこんな状態になっていることも、お兄ちゃんに負担を与えてるに違いない……。
私はコーヒーカップを両手に包み込むようにして持ったまま、お母さんの対面に座った。
それからお母さんと色々なことを話した。話題は殆どお兄ちゃんのことばかりだった。
今日はどんな様子だったか、どんなことを話していたか。手紙では教えてくれない、普段のお兄ちゃんを私は少しでも知りたかった。
「さて、お母さんはそろそろ寝ちゃうわね」
気がつけば時刻は一時を過ぎていた。
「由里奈はどうするの?」
「私はもうちょっと起きてる。昼間たっぷり寝ちゃったしね」
私がそう応えると、お母さんは「そう」と小さく微笑んで自分の使ったコーヒーカップをシンクに放り込んだ。
「ねえ、由里奈」
寝室へ向かおうとしていたお母さんがふと、立ち止って背をこちらに向けたまま云った。
「お父さんが死んだときのこと……、覚えてる?」
私にはその質問の意図が理解できなかった。少し、無神経にすらも思えた。
忘れるわけがない……、あのとき感じた恐怖、悲しみ。全てを昨日のことのように覚えている。
「覚えてるよ……。あのとき、お父さんが私達を守ってくれなかったら私もお兄ちゃんもこうして生きていないと思うから。お父さんには感謝してる」
「……そうね」
お母さんはそれだけを小さく呟くと、こちらを振り返ることなく寝室へと姿を消した。
考えてみれば、私がお兄ちゃんを愛しているように、お母さんにとってお父さんは最愛の男性だったに違いない。そんなお父さんのことを娘である私にいつまでも覚えていてほしいと思うのは当然のことなのかもしれない。
お母さんに対して無神経だなんて思った自分を少し短絡的だったと後悔した。
部屋に戻るとすぐに机の前に座り、お兄ちゃんへの手紙を書いた。お母さんと話したこと、お兄ちゃんに訊きたいこと、お兄ちゃんに伝えたいこと、それらを全て、小さなピンク色の便箋に詰め込むと、部屋を出てお兄ちゃんの部屋の扉に差し込んだ。
時刻は午前四時、私はベッドの中に潜りこむ。最後に見たお兄ちゃんの姿を浮かべながら、私の意識はゆっくりと虚無の彼方に吸い込まれていった。
まだ、完全に活動の準備ができていない身体を無理やり起こしてベッドから降りる。昨日もたっぷり眠ったはずなのに相変わらず身体の気だるさは無くなっていない。あんな夢を見たせいだろうか?
僕は朦朧とした意識の中で、扉の下に視線を移す。いつものようにそこに差し込まれているピンク色の便箋。これを見るだけで今日、一日を過ごす気力が湧いてくるような気がする。
僕はその手紙を拾い上げ、綴られた文字を読んだ。
『お兄ちゃんへ
昨夜はお母さんと色々なことを話しました。お兄ちゃんが普段、どんなことをしているのか。どんな話をお母さんとしているのか。話を聞いているとますますお兄ちゃんに会いたくなりました。
そういえば、お母さんに「お父さんが死んだ時のことを覚えてる?」なんてことを訊かれました。私はよく覚えています。……お兄ちゃんも覚えていますか?なんて、忘れるわけないですよね。
朝から暗い話になちゃってごめんなさい。今日のお手紙はこの辺で終わらせていただきます。
由里奈』
僕は読み終わった手紙を二つに折り、いつものように机の引き出しへと収める。
お父さんが死んだときのこと……、忘れるわけがない。僕と由里奈から父を奪い、由里奈をあんな精神状態に追いやった忌わしい事故……。
僕は胸にそっと手を当て、気分を落ち着かせる。まだ、終わりじゃない。きっと、父さんが生きていた頃のような、由里奈の愛らしい笑顔を取り戻すことができるはずだ。
その日、学校からの帰り道、僕は父さんが死んだ事故現場に立ち寄った。家に帰るには遠回りになるが、由里奈に手紙であんなことを訊かれたから、というわけでもない。
僕はあの事故から時折、この場所に立ち寄るのが癖のようになっているのだ。
夕暮れ刻の商店街。空に浮かぶ巨大なオレンジが街を寂しげに染めていく。
もう、あれから三年も経ったというのにこの場所に来る度に僕の心は途方もない悲しみに包まれる。
先程まで赤だった歩行者用信号機が青に切り替わる。横断歩道の手前に立ち尽くしていた人々が一斉にその歩みを進める。
彼らは父さんが倒れていた場所を無感情に踏み越えていく。僕はその様をなんともやるせない気持ちで見つめていた。そのとき――
不意に視界がぐにゃりとその形状を崩す。世界を染めていたオレンジはゆっくりと灰色に染まっていく。
朦朧とする意識に耐えきれず、僕は思わず地べたに這いつくばる。一体どうしたというのだろうか?これも疲労のせい……?
「あの、大丈夫ですか?」
声のした方に顔を上げると、そこには見知らぬ中年男性が心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。
「あ……、すみません。僕なら大丈夫です」
僕が慌てて立ち上がり、膝に付いた埃を払いながら応えると、男性は小さく頭を下げて立ち去った。
先ほどのは一体なんだったのだろうか?ただの幻覚か、それとも……。僕は心の中で肥大化する不安を押し込めるように首を左右に振ると、家への帰路に歩みを進めた。
その日の夜、夕食時に母さんが不意に問いかけてきた。
「ねえ、お父さんが死んだときのこと、覚えてる?」
僕は一瞬戸惑ったが、すぐに
「同じ質問を由里奈にもしたんだってね」
と、応えた。
すると、母さんは少し驚いたような表情で
「え?なんで知ってるの?」
と、小さく目を見開いた。
「ああ、母さんには云ってなかったかな?少し前から僕と由里奈は手紙のやり取りをしてるんだよ」
僕がそう応えると、母さんは暫くの沈黙の後、「そう」とだけ呟いて食事を続けた。
一体母さんはどういうつもりで僕達にこのような質問をしているのだろう?単なる食事中の世間話にしてはあまりにも話題が深刻過ぎる。
となるとやはり、なんらかの意図があっての質問なのだろうか?つまり、僕達兄妹は父さんの死に関して何か忘れていることがある……と?
「母さ……」
僕が問い詰めようと口を開くと、母さんはそれを遮るようにして立ち上がり、自分の使った食器を片づけ始める。
僕はその後、どうにもやりきれない気持ちでその日の夕食を済ませた。
僕は部屋に戻り、机に向かい合うと、由里奈への手紙の内容に頭を悩ませた。
今日起こった出来事を彼女に伝えるべきか。今、彼女の精神にこれ以上の負担をかけるのは望ましくないと思う。しかし、全てを伝えることで見えてくる事実もあるかも知れない……。
僕は思案の末、母さんと話したことだけは伝え、事故現場に行ったことは伏せておくことにした。
『由里奈へ
今日、母さんと話をしたよ。
「父さんが死んだときのこと、覚えてる?」
由里奈も同じことを訊かれたよね?これは、なんとなく僕の予想なんだけど母さんは僕達兄妹に父さんの死について忘れていることがある、って云いたいんじゃないかと思うんだ。
あれから三年の年月が経つし、今更そのことを掘り返して由里奈に余計な負担をかけるのもどうかと思ったんだけど……、由里奈が父さんの死を乗り越えてまた僕の前に姿を見せてくれるようになるためにはこのことを放っておいてはいけない。何故かそんな気がしたんだ。
何か思い当たることがあれば明日の手紙に書いておいてほしい。
それじゃあ、おやすみ。
明人』
お兄ちゃんからの手紙を読み終え、ゆっくりと目を閉じる。完全なる暗黒に包まれた世界の中にあのときの光景を映し出す。
お父さんはトラックから私達を守ろうとして死んだ。そのことに間違いはないはずだ。ならば、そのときに一体何があったのか……。
いくら考えても答えは出て来ない。
私は決意した。今すぐ、リビングに行ってお母さんに問い詰めてみよう。お兄ちゃんの云う通り、このことは私にとって避けては通れない問題だと思うから……。
「お母さん」
私は呼びかけながらリビングの扉を開ける。
「あら、由里奈。あはよう」
そこではいつもと変わらない様子で、お母さんがテーブルにコーヒーを二つ並べて座っていた。
「お母さんに訊きたいことがあるの」
「あら、何かしら?」
いつもと何ら変わりなく私の言葉に応えるお母さん。その口調、その表情からはその胸中を察することはできない。
私は小さく深呼吸をする。胸の中に潜む悪寒めいた物を押し込め、静かに口を開いた。
「お兄ちゃんから聞いたよ……。お兄ちゃんにも私と同じ質問をしたって」
「……質問?」
単にとぼけているだけなのか、本当に解っていないのか、お母さんは首を傾げる。
「お父さんが死んだときのことを覚えているかって……。ねえ、どうしてそんなことを訊くの?私達は一体何を忘れているの?」
お母さんの表情が微かに陰る。そうして暫くの間、無言で俯いたかと思うと、顔を上げ、明らかな作り笑いを浮かべた。
「どうしてだなんて云われても……、意味なんてないわよ」
「嘘、どう考えたっておかしいよ。お母さんが何の考えも無しに私達の傷を抉るようなことをするはずないもの」
私は語気を荒げる。ただ、真実を知りたくて、ひたすらに必死だった。
お母さんは再び口を噤み、長い沈黙が流れる。やがて、何かを決意したような表情でゆっくりと
「ねえ、私からあなたに云えることはないわ」
と云った。
「お母さ……」
私が云い返そうとするとお母さんは掌をこちらに突き出してそれを制止する。
「でもね、これだけは覚えておいて。人間の心ってのはね、とても脆くて壊れやすいの。だから、辛い記憶や悲しい記憶を自分の都合のいいように書き換えてしまうこともあるのよ」
心臓が一度、大きく脈を打った。全身に冷水を浴びさせられたような感覚に襲われる。
「お母さん……、それ、どういう意味?」
声を振り絞って問いかけてみてもお母さんは何も応えてはくれない。ただ、無言で目を伏せ、やがて立ち上がり、逃げるようにして寝室へと姿を消していった。
リビングに一人残された私は、茫然とその場に立ち尽くす。
辛い記憶や悲しい記憶を自分の都合のいいように書き換えた……。心の中に重くのしかかるものがある。
お父さんは私達を守ろうとして死んだ。私達兄妹はずっとそう信じてきた。でも、もしそうではなかったとしたら……。
私の中に一つの可能性が浮かび上がる。
お父さんは私達を守ろうとはしてくれなかった。むしろ、自分一人が助かろうとして、結局自分が死んだ。私達はお父さんに裏切られたという事実を受け入れられず、記憶を捻じ曲げた……。
いくら考えてみても真実は見えてこない。私の心の中にはネガティブな可能性だけが濃厚にその存在感を残した。
もう、限界だと思った。これ以上、一人で思い悩んでいたら気が狂いそうになる。
私は電話機の元にふらふらと歩み寄り、横に置かれたメモ帳のページを一枚破り取ると、置かれていたボールペンでお兄ちゃんへの切実な願いを殴り書いた。
書き終えた私は、足音をたてるのもお構いなしにお兄ちゃんの部屋へと駆け出す。そしていつも手紙を入れるのと同じように先程のメモ用紙を扉の下に差し入れた。
用紙を入れ終わってふと、思いつく。このまま、この扉を開けてお兄ちゃんに会いたい……。お兄ちゃんに今日のことを全て打ち明けて、この不安定な心を支えてほしい。
気がつけば私は、扉のノブに左手をかけていた。その瞬間――
私の中に不思議な感覚が走る。私は、あの事故以降、この扉を開けて中に入ったことがある……?
それは”記憶”などといった確かなものではない。私はこの扉を開けたことを、云うなれば”感覚”として覚えている。
私はそのとき、お兄ちゃんに会ったのか。もし会ったのならば一体どんなことを話したのか。お兄ちゃんは何故、そのことについて何も云ってこないのか。この扉を開ければ全てが解るような気がした。
私の中の何かがそれを拒否する。しかし、お兄ちゃんへの想いが私の身体を突き動かした。
ノブにかけた手をゆっくりと下げる。カチャリという金属音と同時に扉を手前に引っ張る。そして、軋むような音とともに扉は開かれていった。
開かれた扉の奥は子供の頃、最後に見た部屋の内装とはすっかり変わった様子だった。しかし、やはり私はこの変わり果てた部屋の様子を感覚として覚えている。
やがて、私は彷徨わせていた視線を、部屋のある一点に止めた。
ブルーのチェック柄のシーツがかけられたベッドの上……。
そこに、お兄ちゃんの姿は無かった。
膨大な虚空の中を、僕は(私は)彷徨っていた。ここは一体何処なのか、何故僕は(私は)こんなところにいるのか、そんなことは考えようともせずにひたすら歩き続けた。
どれほどの時間、歩き続けただろうか。いつの間にか瞳からはあまりの孤独感に涙が零れていた。その場にへたり込んであらん限りの声を振り絞って泣き叫んだ。そして――
前方に誰かの人影が立っていることに気がつく。目を凝らしてみると、それは由里奈の(お兄ちゃんの)後姿だった。
僕は(私は)疲労しているのも忘れて立ち上がり、その後姿に向かって駆け出す。僕と由里奈の(私とお兄ちゃんの)距離が少しずつ、縮まっていく。伸ばした手が彼女の(彼の)肩に触れそうになる。刹那、僕の(私の)意識はそこで途絶えた。
頭が重たい。リビングから母さんが僕の名前を叫ぶ声が頭に響き、頭痛がする。
僕はいつものようにふらふらと立ち上がり、扉の下へと視線を移す。すると、何やら違和感めいたものを感じた。そして、その違和感の正体は扉に近づいたときにはっきりと理解した。
そこには毎朝と変わらず、由里奈からの手紙と思わしき物が差し込まれていた。しかし、それはいつものようなピンク色の可愛らしい便箋ではなく、無地の質素なメモ用紙の切れ端だった。
僕は不審に思いつつも、その紙を手に取る。そして、恐る恐る二つ折りにされた手紙を開いた。
『会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい会いたい』
ひたすらにそれだけが殴り書きされていた。
僕は息を飲み、静かに目を閉じる。そうだ、最初から答えは決まっていた。彼女は僕に会いたいと思っている。僕も彼女に会いたいと思っている。
最早、するべきことは一つしかないと思った。そうして全てを決意し、僕は学校へと向かった。
その日の夜、僕は夕食は食べ終えると、すぐに部屋へと向かった。
今夜、由里奈が起きてくるまで待っていよう。そうして、僕と母さんと由里奈の三人で話し合ってまた、父さんが生きていた頃のような幸せな家族の形を取り戻そう。僕は覚悟を決めた。
何故、今までこんな簡単なことを思いつかなかったのだろう。
時刻は二十三時を過ぎていた。まだ、由里奈は起きてこないのだろうか?僕の意識は朦朧とし、既に立っていることすら困難になっていた。
……母さんはリビングに居るのだろうか?僕はおぼつかない足取りを進め、扉のノブに手を掛けた。
時刻は二十三時を過ぎていた。明人と由里奈の母、冴子はすっかり温くなったコーヒーを啜りながら溜め息を吐く。
(やはり、あんなことを云ったのは逆効果だったかしら?)
我が子の精神を正常に戻すためにはあの事故のことは避けては通れない問題だと彼女は解っていた。
しかし、唐突に真実を突き付けたところでその全てを受け入れることはできないだろう。だからこそ、彼女はあのような曖昧な問い掛けで本人が全てを自ら察することを望んでいた。
(そろそろあの子が起きてくる時間かしら……)
冴子はそう思い、もう一つのコーヒーの温度を確かめ、煎れ直そうとマグカップの取っ手に手を掛けた。そのとき ――
リビングと廊下を繋ぐ扉の向こうから物音がした。
「……由里奈?」
問い掛けてみても返事は無い。廊下の床を踏みしめる音のみがゆっくりと近づいてくる。そして ――
扉が開き、その向こうから明人が姿を現した。
「母さん……、由里奈はまだ起きてこないのかい?」
明人はふらふらとリビングへ足を踏み入れる。
「明人?明人なの?」
冴子は手にしたマグカップを静かにテーブルに置き、問いかける。
「母さん……、今から二人で由里奈を起こしにいこう。そして、三人で話し合って父さんが生きていた頃のような幸せな家族に戻ろう」
明人の言葉に、冴子は瞳から一筋の涙を流した。
「ああ……、明人。もう、限界よ。これ以上放っておいたらあなたは壊れてしまうわ」
母親の予想外の反応に明人は戸惑うばかりであった。
「明人……。明日、お母さんと一緒に病院に行きましょう」
「病院?一体何を云ってるんだい?」
明人はおろおろと視線を彷徨わせる。そして、冴子は意を決したような表情で声を落とした。
「あなたは病気なのよ。三年前……、あの人と由里奈が死んでからずっと」
母の言葉に、明人は目を見開いて動きを止める。
「由里奈が死んだ?何を莫迦なことを云ってるんだ?由里奈はあの扉の向こうにいるんだろう?」
そう喚き散らしながら、自らの頭を掻き毟る。
「目を覚まして、明人……。由里奈はあの事故でお父さんと一緒に死んだの」
冴子が諭すような口調で云う。しかし、明人はその場に両手で頭を抱えて座りこみ
「嘘だ、嘘だ、嘘だ、嘘だ……」
譫言のように呟き続けた。
そうして明人は自らの悲痛な運命から逃げるように、三年前、父と共に失った妹に対する狂おしいまでの愛が生み出したもう一つの人格を呼び覚ました。
部屋中に暫くの沈黙が流れる。そして、明人はまるで何事も無かったかのようにゆっくりと立ち上がった。
「お母さん……、何を泣いているの?」
明人は不思議そうな表情で首を傾げる。
「あなたは……、誰?」
冴子が震える声で問いかけると、明人は「くすり」と笑い
「何を莫迦なことを云っているの?私よ、由里奈よ」
その応えに、冴子は家中に響かんばかりの嗚咽をあげた。
カーテンから差し込む光に明人は眩しげに目を細める。昨夜はかつて生きていた妹の部屋で眠ったが、深夜、彼自身も知らない内に自室へと移動した。それは彼の自己防衛本能から発症した、夢遊病に近い症状であった。
ベッドから上体を起こし、毎日の日課のように扉へ視線を移した。
扉の下に一枚の便箋が差し込まれていることを確認すると、彼は立ち上がり、扉に歩みを進めてその便箋を拾い上げる。
それは彼自身が昨夜の内に自分に向けて書いた手紙であった。
明人は手紙の中身を確認し終えると、満足気な笑みを浮かべ、それを机の引き出しへと収めた。そこには今まで、彼が自分自身に宛てた全ての手紙が保管されている。
そうして毎朝の日課を終えた明人は、自分への手紙の返事の内容を考えながら、今日も学校へと向かった。