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侍☆ロールプレイ  作者: もけきょ
第弐幕 日雇い仕事にて糊口を凌ぐで御座る
6/13

 薄汚れ年季の入った木の看板が軒先からぶら下がっている。そこには墨で『諸職口入れ致し候 武蔵屋』と書かれていた。その文字をしげしげと見る浪人が一人。

 乱れ髪の下には意思の強そうな太い眉と瞳。口元は、むぅ、と真一文字に引き結び、下顎には疎らに無精髭が生えている。がっしりとした体躯は、街を行く人々に比べれば大柄であった。

 その浪人、橘 幸嵩は、ひょいと店内を伺った。すると中で店番をしている五十過ぎの男と目が合った。丸顔でおそらくは、この口入れ屋の主、太平であろうと幸嵩は見当をつけ、ばつが悪くなって視線を逸らす。

 しかし、そうは言っても用事があるに違いはないので、幸嵩はその大きな身体を幾分縮こまらせながら店内へと入っていった。


「おや、お侍様、どういったご用件でしょう? 手前、この武蔵屋の主、太平と申します。」


 丸眼鏡を外し帳面をつけていた卓に眼鏡を置くと、太平と名乗った店主はその卓の前に座ったまま深々と頭を下げた。幸嵩もそれにつられて頭を下げる。そうして再び向きあったところで口を開いた。


「呉服町、藤屋の裏店、善兵衛店に此の程越してきた…‥橘 十蔵と申す。

 大家の善兵衛に仕事の口利き先を訊ねたら此処を紹介されてな、参った次第だが。」


 一応の身元引受人である大家の善兵衛の名を出し、一瞬の逡巡のあと自身の名を口にして、ここに至った経緯を話す。

 彼が発したその名は確かに自身の名ではあったが、親から付けてもらったものではなかった。十蔵。橘 十蔵 幸嵩。自らの本当の名前である橘 幸嵩に十蔵という名を加えた、ゲーム【和風なファンタジーで御座る】のプレイヤーキャラクターに命名した名前。それが武蔵屋太平に彼が名乗った名前だった。それは、現実での名である『幸嵩』は、時代劇やゲームで言えばいみなで当たるので他人に話すべきではないと判断したが故であった。

 幸嵩の考えは奇異ではなかったようで太平は彼の名のことに触れず、なるほどと言った風に頷いた。


「然様でございましたか、藤屋さんの。

 はい、確かにうちは手広く商いをしておりますゆえ、きっと橘様に合ったお仕事を紹介できますでしょう。」

「そうか、では宜しく頼む。」

「はい、それはもう」


 人の好さそうな笑みを見せ太平は、幸嵩に腰を下ろすように促した。それに従い上がりかまちへと腰を据えると、さて、と言った感じで太平が口を開く。


「―――お見受けした所、浪々の身の御様子。以前は何方にお仕えで御座いましたか?」


 太平は幸嵩を上から下まで眺めるとそんなことを聞いてきた。その質問に幸嵩は言葉を詰まらせた。それは彼にとって思いもよらないものであった。

【和風なファンタジーで御座る】のプレイヤーキャラには、生国しょうごくというものがある。簡単に言えば自分の生まれ育った場所、地方のことで、キャラクター作成時に日本全国八十五箇所に分け、そこから適当に選ぶ。幸嵩の場合は『箕乃』がそれに当たる。さらに職業を侍や浪人に選べば、『藩』というものに所属、もしくは所属していたことなる。

 幸嵩もまた、プレイヤーキャラである『橘 十蔵 幸嵩』を作成した時に三百もある藩から一つ選んでは居たので、確かに属する、いや属していたであろう藩はあるにはある。しかし、いやだからこそ彼は太平の質問に答えられない。

 太平に身元を藩に問い合わされれば名前がない可能性も無くはない。よしんば、名前があったとしてどういう事情で藩から離れ、浪人となっているのか分かったものではない。最悪、脱藩浪人として討手がやってきたりしたりするかもしれない。そう考えると迂闊なことは言えないのだ。 


「あ、いや……」

「何か事情がおありで御座いますか?」

「う、うむ、箕乃の出ではあるのだがな……藩名は勘弁して貰えんだろうか?」


 言葉を濁す幸嵩を不審気な目で見ていた太平に焦った彼は、そう言えばと慌てて懐に手を伸ばす。


「そ、そうだ。大家殿に紹介状を書いて貰っておったのだった」


 これだこれだ、と突き出された手紙を受け取った太平は「どれどれ」と再び丸眼鏡をかけて中をあらためていく。


「……まぁ藤屋さんのご紹介ですし、悪い方ではないのでしょう。しかし、前のお勤め先をお教え願えないとなりますと仕官先を探すのは難儀なこと。まず無理かと」

「ああ、いや、仕官は望んでおらんのだ。―――あ、いや、これから先は分からんが、今は、な」

「ほう。では、日々のお仕事を求めてということでございますな?」

「うむ。糊口を凌ぐだけの糧があれば、と思ってな」


 仕官、と聞いて慌てて幸嵩は首を横に振った。太平は、それはまた、と訝しんだが何らかの事情というものだろうと一先ずは納得して話を進めることにした。

 幸嵩が頷くのを見ると太平は、丸眼鏡の具合を直して帳面をめくりると何やら書付けを始めた。ふい、と上目遣いに覗くように幸嵩を見る太平が口を開く。 


「橘様は『やっとう』のほうは如何程でございましょう?」


 やっとう。撃剣。ようするに剣の腕のことだと理解した幸嵩は、ああ、なるほど、相手が侍なら当然の質問だなと内心で思う。


「そう、だな。ふむ、いささか覚えはある。国許では一応『朽木派真刀流』の皆伝を言い渡されてはいる。」

「ほぅ、それはそれは。朽木派真刀流、皆伝と」


 彼はそう口にしながら、そこに嘘はない、と言い訳じみた感想を持った。確かに幸嵩は現実世界の日本という国で師、木山弘典から皆伝位であると言われているのだから。

 そして、太平が何の疑念も持たずにつらつらと流派名を帳面に書き込んでいくのを見て疑念と共に驚きを覚えた。朽木派真刀流が存在している?、と。


「太平ど……親父殿はうちの流派を知っておるのか?」

「……ええ、名前程度は。門前の小僧というやつですな。商売柄、それなりにお武家様に接しておりますと覚えるものでございます」 


 幸嵩の疑問に顔を上げ、太平は軽く笑みを作ると何でもない事のような口調で職業病のようなものだと暗に言ってきた。

 そういうものか、と太平の言に表向きは感心を見せつつも、彼は頭の中で、なるほど自分の入れたデータが反映されているのか、と疑問を浮かべそして同様に納得もしていた。


【和風なファンタジーで御座る】のゲームシステムは比較的寛容で、後に発売されるパワーアップキット、つまりは追加データのみならず、ゲーム会社が提供するもっどツールと呼ばれるアプリケーションでユーザーがデータを自作して取り込ませることが出来るようになっていた。一言で言うならばモッド、もしくはアドオンに対応しているのだった。

 そして、幸嵩もまた、その恩恵に与っていた。

 ゲームの中の剣術やその他の技芸(武術、忍術は元より、御茶、御花、能、狂言などの芸能に至るまで)の諸流派にはゲームオリジナルに加えて実際に現代まで伝承されている流派のデータが入っていた。しかし、とは言え、片田舎でひっそりと伝承されている門人もそれほど居ない超ドレッドノート級マイナーな流派まで網羅しているわけではなく、当然実在流派の選から【朽木派真刀流】は漏れているのだった。 

 幸嵩は、どうせやるならと、悪戦苦闘しながらも師の動きを撮影した動画データと自身の動きからデータ化したものをゲーム内に入れ、一つの剣術流派【朽木派真刀流】として登録していたのだった。 


 本来、ゲームには出てこない、それも自身が持つ刀のように限定されたものではなく、広範に渡り知られた事物として幸嵩の現実が組み込まれている事実を突きつけられ、幸嵩はまたしても何とも言えない気分にさせられた。


「学のほうは?」

「学問か……それなりといったところだろうか。得て不得手もあるからな」


 『子曰』で始まる論語を諳んじられるほど勉強をしていなかったし、江戸時代の武士の必須の学問が儒学であることは知っていても、その内の朱子学や陽明学の明確な区分けなど幸嵩に分かろうはずもなかった。

 だから当然答えは曖昧になる。


「はぁ……」

「んっ、んん―――それで、どうかな?わしができるような仕事はあるか?」


 太平から何とも言い様のない視線を送られた幸嵩は誤魔化すように咳払いをして、話の方向を強引に変えた。


「そうでございますなぁ……」


 言いながら書付につかっていたものとは違う帳面を手に取り、くいっ、と丸眼鏡をかけ直すと、頁をぺらぺらとめくリはじめた。そして何度かそれを繰り返した後、太平は若干気不味そうに幸嵩を見た。


「生憎と人足仕事しかございませんが、それで宜しいですかな?」

「ニンソク仕事?」


 幸嵩は、忍足仕事、隠密とは凄い物を出してきたな、と驚くと同時に不安を感じた。そんな特殊な仕事をいきなり任されるとは思っても見なかったからだ。むぅ、と幸嵩は考え込んだ。

 その様子を太平はじぃっと眺めていた。その視線は何処か探るようであったが幸嵩はそれに気がつくことなく、仕事を受けるべきかどうするべきかを思案する。


「―――お嫌ですか?」

「嫌というより、わしで務まるだろうか?そのようなことしたことが無いのでな。大丈夫か、と」

「? 何、心配することはございませんよ、ただの力仕事でございますから」

「……どういったものか詳しく聞いても良いか?」


 その問に太平は頷くと仕事の詳細を語りはじめた。

 大八車を押す人夫のまとめ役である車宿からの依頼で、河原町にある船着き場から鋳物師町にある置き場まで荷運びの人手を探しているとのこと。荷が砂鉄やら赤鉄なため非常に重く、数も多いため多く人手を欲している。その分給金は1日四百文(およそ一万円)比較的高く、期間は明日から十日。毎朝、六つ刻(朝の5時)には依頼してきた車宿の下に集まり、そこから皆で現場に赴く。

  

「どうでございましょう?」

「それが親父殿が言った忍足というものか?」

「? はい、他に橘様にお教え出来るようなものも似たり寄ったりの人足仕事でございますな」


 ニンソク仕事とは要するに荷運びなどの力仕事のことだったかと、自分の無知と勘違いに気が付いた幸嵩は恥を掻かずに済んだと安堵した。そして頭の中でお金の計算をして日当1万ならば良いほうか、と頷く。引き受ける気になっていた。


「そうか、なら、それを貰うとしよう」

「宜しいので?」

「ん?何ぞ不都合があったか?」

「……いえいえ、滅相もございません。では――」


 太平が、あからさまに此方をじぃっと見つめるので幸嵩は訝しんだ。何か裏でもあるのか、それとも何か受け答えが変であったか、ゲームの設定を知り、浪人の演技ロールプレイをしているとは言え未だこの世界の常識や風俗、慣習に馴染みを得ていない幸嵩は戦々とした内心を受けて太平に理由を問う。


「待て待て、気になるじゃないか」

「ああ、なんのことはありませんよ橘様。いえ、橘様はお侍様で御座いましょう?それもろくを離れられてまだ日が浅いようにお見受けします。人足仕事を嫌がるものとばかり」

「……ふぅむ」


 そういうものなのか、と言いかけ幸嵩は言葉を口の中で消した。確かに俗に言う士農工商穢多非人。武士が、はいそうですか、と別の職種に手を付けるのはやはり奇異に感じるものなのだろうと幸嵩は理解する。人の目というものもある。そうでなくともTPOというものが分かっていない。


「やはり、こういった格好で行くのは不味いだろうな」

「それは……そうでございますなぁ」


 つむりと袴をつまんで見せる幸嵩に太平は呆れたようにそう言った。それから太平はあれやこれやと留意することを事細かに話し、最後には時間には遅れませんように、と子供の使いかと幸嵩が呆れてしまう言葉で締めくくった。


「では」

「橘様、くれぐれも遅れませぬように。またのお越しお待ちしておりますよ」

「うむ、わかった」


 帰りしな、またもそう言う太平に幸嵩はげんなりしながらも軽く手を上げて見せ、店を後にするのだった。



  ◇



 夕刻。陽が傾き辺りがゆっくりと橙色に染まり始めた頃ようやく、町屋敷を見て回った幸嵩が長屋へと戻ってきた。


「おっ、橘様、戻られたんで?」

「あ、ああ、只今戻った」


 木戸をくぐるといきなり見知らぬ男に声をかけられ少々戸惑う幸嵩。しかし、自分の名前を知っていたことも踏まえおそらくは長屋の住人なのだろうと当たりをつけて挨拶を返す。

 男は幸嵩よりも頭一つ分低く、体もほっそりとしていた。崩れた髷を結い、いかにも町人でございってな感じの着物を着ていた。


「あっしも今戻ったところでして、どうでした?良い働き先がありましたか?」

「む……そうそう都合良くは、な。どうにか人足仕事を回してもらっただけでもありがたい」

「お侍ぇさまが人足仕事たぁ、こりゃまた」


 心底驚いたように目を剥く男に、苦笑を浮かべる。


「そうだ! どうですこれから一風呂浴びに行きませんか?」

「何?」


 見れば、男の手にした桶には、手ぬぐいやらなにやらが入っている。

 男としては、明日から侍のプライドをかなぐり捨ててまで日銭を稼がないといけない幸嵩の鬱憤を少しでも晴らしたらどうかと言う純粋な親切心から出た親切心だったが、幸嵩にはどういう思考回路を通って出た言葉なのかさっぱり分からなかった。

 しかし、その言葉で今の今まで風呂について考えていなかったことに気がついた幸嵩は、芋づる式に洗濯も考えなければいけないな、と思考を巡らせる。

 幸嵩がどうしたものかと思案している内に、人が寄ってきていた。やはり同じ長屋の者達、女房達の夫が仕事から帰って来ていたようだった。


「お、橘様、風呂屋に行くんで?」

「いひひっ、橘の旦那はお武家様だから湯屋なんざ行ったことがないでしょう?」

「? 別に銭湯なら何度も行ってるおるが……」


 ゲーム内ではかなり大きな拠点、宅邸を構えるまでは自宅に風呂は無い、すなわち設置できないので街中にある湯屋で汗と汚れを流すことになっていた。

 実際の江戸時代はどうだったかは知らないが、【和風なファンタジーで御座る】内での街中の湯屋ならばキャラクターの選んだ職業に限らず武家だろうが、農民だろうが、職人だろうが商人だろうが一応貴賎の別なく入ることは出来た。


「なら話は早い。そうそう旦那は、国に待たせているあいてが居るんですかい?」

「? いや、そんな相手は終ぞないが……なんだ急に?」

「へぇ、なら都合がいいや。さぁ、行きましょう、直ぐ行きましょう、さぁさぁ」

「ちょと待て。―――方々は一緒に行かんのか?」


 幸嵩の問いに男達は何とも言えない顔を作り、お互いに見合わせている。そして苦笑いを漏らしながら面々は、行きたいのは山々だが家族がいるから共に行くと言う訳にはいかない、と口々にそう言った。


「まぁ、こういうのは旦那や益蔵みたく独り身の特権ですわ」

「?」

「うぅるせぇ、どーせ、おいらは独り身の根無し草よ!今に見てろ?お前さんらが腰抜かすような別嬪さん捕まえてきてやるからよぉ!

 さっ、行きましょうぜ旦那、こんな幸せ一杯な奴らなんか放っておいてあっしらはあっしらで楽しみましょう」

「お、おい」


 益蔵と呼ばれた最初に声をかけてきた三十半場の男は、幸嵩の背をぐいぐいと押す。助けを求めようと振り返ると他の男達は手を振っていた。

 これも付き合いか、と半ば諦め気味に幸嵩は声を上げる。


「ええい、わかったわかったから押すな」

「おっ、ようやくその気になってくださいましたか」


 幸嵩の態度が変わったことにニコニコと笑みを浮かべる益蔵。はぁ、と小さくため息を吐いて幸嵩は小さく笑みを作った。


「ああ、ああ、そうだな。相分かった。案内してもらうとしよう。用意するので少し待っていてくれ」


 そう言い残して幸嵩は自分の部屋に向かって歩を進めるのだった。



  ◇



 湯の文字がでかでかと書かれた暖簾をくぐり、高座と呼ばれる番台にいる店主に十六文(およそ四百円)を支払い板の間の脱衣場へと入っていく。脱いだ着物と刀を衣棚ころもたなへと仕舞い、素裸となって手ぬぐいを片手に


「益蔵は、いつもここを利用しているのか?」

「いや、さすがに毎日は来れませんぜ。いつもは別のとこに行ってやす」

「? ならどうして……」


 その理由を問おうと口を開きかけ流し場への戸を開けた時だった。幸嵩は目の前の光景に硬直する。その異常を不審に思った益蔵が、ひょいと彼の視線の先を追って、ははぁ~んとしたり顔を作った。

 視線の先には濡れた肌襦袢を白い肌に貼りつけた若い女たちが一人一人男達に付いて彼らの体を洗ったり、髪を梳いたりしている。中には自らの身体を密着させてそれを行なっている女まで数人、幸嵩の目には映った。

 

「もしや旦那はこういった銭湯は初めてでしたか?」

「あ、い、いや、えっと……混浴だったっけ? 此処?」

「いえ? ああ、なるほど」


 余りのことにお侍口調を忘れ、素の口調でそう口にするも、益蔵は幸嵩の口調の違いに気がついた風もなく言葉を続けた。


「橘の旦那、湯女がいる風呂に入ったことがないんですな」

「ゆな?……あぁ!あれが、あの湯女か」


 幸嵩は、その昔に聞きかじった知識を思い出していた。

 湯女ゆな。彼女たちは、江戸時代の男湯で男の背を流したり、髪結いをしたり、軽いマッサージをしたりする女性のこと。勿論、裸に近い男と女、そこに性的な物が入らない道理は見当たらず、今日の性風俗で言う「浴場業に規定する公衆浴の施設として個室を設け、当該個室において異性の客に接触する役務を提供する営業」を行う女性、つまり俗にソープ嬢や泡姫と呼ばれる女性達の御先祖様といったところ。


「あれが……」


 艶かしい肢体をしげしげと見つめながらそう呟いた幸嵩に、益蔵は意地悪な笑みを浮かべた。


「旦那、旦那。一人で盛り上がってるとこ悪ぃんですけど、女按摩でしたら最低二朱(およそ一万二千五百円程)は必要ですから」

「ん、そ、そうなのか?」

「背中流して貰ったりするのはいいですけど、それ以上となるとコレが必要なんすよ」

「そうか……」


 親指と人差し指で作られた丸を横目でチラリと見た後、こういったことに免疫のない幸嵩は呆然と呟くも視線はずっと男たちに体を密着させて洗う女たちに注がれていた。ドキドキと鼓動が高鳴り続ける。


「ああ、あいつら、もう薹が立ってるから客を取るのも大変なんですよ。だから体張ってんでしょうね」

「と、薹が立つって……あれらは、いいとこ二十半ばってところだろう」

「こりゃおでれーた。旦那、年増好みだったんですか」


 興奮と恥ずかしさを堪え、焦る思考と元気に反応する自身の体を無視して平静を装って真面目くさった表情を作る。しかし幸嵩のその努力はどもったことで成果を結んでいなかったが、益蔵はそれよりも幸嵩の考えの方に気を向けた。


「いや、そんなことはないがなぁ、しかし―――」


 幸嵩が熟女趣味の性癖を否定するべく益蔵に顔を向け、言葉を発したその途中、彼は視界の隅に白い襦袢を貼りつけたこれまた白い肌を認め、思わず言葉を飲み込んでしまった。


「旦那方、お背中流しましょうか?」

「あ、う―――」

「おう、頼まぁ」


 艶然とした笑みを浮かべ、組んだ腕でその豊満な胸を強調しながら、そう声をかけてきたのは、二十半ば、この風呂場にいる女の中では年嵩の女だった。髪の毛の間から見える日本の角が彼女を鬼族の女だと表していた。そして、その後ろには、彼女よりずっと若い、年頃の娘が恥ずかしげに立っていた。


「じゃあ、こちらへ。 おそめちゃんはそっちの旦那を案内して」

「ッ――は、はい。ど、どうぞこちらへ」


 お染と呼ばれた娘が女の声にビクリと体を震わせ、幸嵩をチラリと見た後うつむいて、そのままぎくしゃくと案内を始めた。その様子を見た女が、やれやれといった感じに幸嵩に口を開いた。


「ごめんなさいね、旦那。お染ちゃんは今日が初めてだから」

「なーに、橘の旦那もこういうところは初めてみたいだし、気にするこたぁねぇよ。ね、旦那?」

「う? あ、ああ、そう、だな、うん」


 半裸に近い女性など数えるほどしか接した経験のない幸嵩は、唐突な益蔵の横槍に焦りだした。

 たどたどしく重ねられた言葉と彼の態度にお染が目を丸くした。自分と同じというか、初めて同士だということが分かったせいか、お染はまじまじと幸嵩を見つめる。

 無造作に切られた髪の下にある眉は頑固さを表し、目付きは鋭い。キュッと口を引き結べば無愛想そのものの顔。そこらの街中の娘達と変わらぬ背のお染めよリも一寸(およそ30cm)ばかりは大きいだろうか。益蔵と比べてもその差は五寸(およそ15cm)は大きい。そして、その体躯はがっしりとして筋肉のさることながら骨太であった。


「え?……は、初めてなんですか?」

「う……うむ、つい先達て此方に越してきたばかりだからな」


 厳つい容姿から受けるのは、ただただ威圧感のみ。しかし、お染はそんな幸嵩が自分や先輩湯女の鬼女、おみつを前に緊張しているのを見て可笑しくなった。そしてそれは心に安堵と余裕をもたらしてくれた。


「そ、そうなんですか。え、えっとお染と言います。初めてですけどよろしくお願いします」

「こ、こちらこそ、た、橘という……いや、これは困った」


 深々と頭を下げ、跳ね起きるお染の胸元に幸嵩は釘付けとなった。そして、一瞬後なんといやらしい真似をしてしまったのだと、頭を振って視線を切った。だが、心臓はドクドクと早鐘を打ち、体は熱く猛る。自身の意志とは関係なくいきり立ってしまうのだ。

 幸嵩の心が甘い誘惑に負け、再び視線をお染のほんのりと薄桃色に染まった柔肌に向けようとした刹那、それを許さぬ声が彼の耳に届いた。


「さぁさ、お見合いしてる場合じゃないよ。早くご案内して」

「あっ、はい!どうぞ、こちらへ」


 お光に促され、お染が幸嵩の先に立つ。

 目の前を行く濡れた襦袢に隠れる丸い尻を眺めながら幸嵩は、ふうぅ、と深く息を吐いた。ここはえらいところだ、と。幸嵩の本能と道徳心はそう声を揃えて呟いた。



  ◇



 白い月が夜道を照らす。

 湯で火照った体を風が通り抜けていく。夜となり人通りも少なくなった呉服町への道を幸嵩と益蔵は歩いていた。


「しかし、旦那も馬鹿だねぇ。せっかくの初物なんだし手を出しゃいいのに」


 益蔵は湯屋を出てからずっとそんな話をしていた。勿体ない、勿体ない、上玉だったのに、手を出さないなんて男としてソレはどうだ? と幸嵩に文句をつける。


「ッぐ……そうは言ってもなぁ、益蔵。やはりあの娘にとっては折角の門出だ、大判振る舞いをしてやりたいところだろう?それにはわしでは無理だ。先立つ物がない。せいぜい二朱が限度と言う物よ」

「あー、二朱なら相場ですもんな、そりゃあ、初物に対して、みみっちくていけねぇや。やっぱ見栄でも張らねぇと」

「だろう? だが、無理なものは無理。武士は食わねどと言えども、無い袖は振れぬのだ」


 苦しい言い訳をどうにかこうにか口にして、決して意気地がないわけではないのだと声高に主張する。その言に納得したのか、してないのか益蔵は少しばかり苦み走った表情を顔に貼り付けた。


「銭かぁ……幾らお侍ぇと言えど、銭には勝てんのですなぁ」

「はは、は……いや全く世知辛い」


 貧乏を指摘されて、返す巧い言葉を思いつかなかった幸嵩は自嘲気味に笑い軽く世を嘆いておく。そうして、そこから益蔵の話は、仕事のあては在るのか、自分の仕事はああだこうだ、給料が安くてやってられない、親方が厳しいだのと日々の愚痴へと移行して行った。彼は口から先に生まれたのではないかというくらい喋るのが好きなようで、長屋の表店、藤屋の前まで来た時には、幸嵩は彼の理想の嫁像を聞かされるまでになっていた。


 自宅へと戻った幸嵩は、窓から差し込む月明かりを頼りに火を付けるべく火打セットを取り出した。火打金と火打石をカチ合わせ、火口ほぐちに火花を散らす。じわじわと火口が黒く変色していく。そこで、ふぅふぅと弱く息を吹きかけると朱く黒との境目が光りを放ち出した。付け木を近づけ、待つことしばし、火が付け木へと燃え移る。幸嵩は巧く火を付けられたことに安堵した。そしてその火を絶やさないよう気をつけながら、行灯へと移していった。

 行灯が部屋を照らす。まるで蛍光灯のように白く明るい光が部屋全体を照らし始めていた。そレを見た幸嵩は、あれ?と首を捻った。思っていたような明かりではなかったからだ。

 火の光というものは、あまり広範囲を照らすものではなく、はっきりと言えば暗い。ふむ、と唸ると幸嵩は行灯をしげしげと見回し始める。そしてあることに気がついた。どういう仕組なのかは全く理解不能ではあったが、行灯に張られた和紙自体が発行しているではないか。それは正に蛍光灯のような感じであった。


 一応の正体を知った幸嵩は、腰に挿した刀を刀掛へと戻し、ゴロリと横になった。

 目に映るのは、板目の天井。すっと目を閉じた。思い出されてくるのは、湯屋で目にした白い柔らかな肌のことだった。思いは顔に出る。鼻の下を伸ばしてだらしのない笑みを浮かべた幸嵩は、勿体ないことをしたかな、と自身の判断を少しばかり後悔した。


「ふひっ、こんな世界も悪くないかもな」


 なんとなく、そんなことを思い笑みを漏らす幸嵩だった。その笑みは脂下がったものだったことは言うまでもない。

用語設定


【姓 名 諱】(せい な いみな)

 姓は、家名。

 名は、一般に使う個人名。仮名とも。

 諱は、極、限られた時節、場所、間柄で使う個人名、。本名。忌み名とも。

 本作主人公の場合、姓は橘、名は十蔵、諱は幸嵩となる。


 ※ただし、姓は本姓ではない。名字、苗字。何となく曖昧。 


【禄】(ろく)

 俸禄、知行、扶持。武士が藩から貰う給与。

 知行百石=米俵100俵=百両=1千万円

 二人扶持=米俵 10俵=十両=百万円


【時刻】

 子の刻=九つ=23~1時

 丑の刻=八つ=1~3時

 寅の刻=七つ=3~5時

 卯の刻=六つ=5~7時

 辰の刻=五つ=7~9時

 巳の刻=四つ=9~11時

 午の刻=九つ=11~13時 正午=昼12時

 未の刻=八つ=13~15時

 申の刻=七つ=15~17時

 酉の刻=六つ=17~19時 

 戌の刻=五つ=19~21時

 亥の刻=四つ=21~23時


 例:

 六つ半→明け六つ=6時

 六つ半→暮れ六つ=18時


 丑一つ時→午前1時30分

 丑二つ時=丑半時→午前2時

 丑三つ時→午前2時30分

 丑四つ時=寅の刻→午前3時


【時間】

 一刻いっとき  二時間

 半刻はんとき  一時間

 四半刻しはんとき 三十分


【湯屋】(ゆや)

 男女別、混浴、湯女のいる男専用、三助のいる女専用などなど

 男女別で二階に女湯を覗く窓があったりもする。


【湯女・三助】(ゆな・さんすけ)

 湯女、三助共に浴場で体を洗ったり、按摩(マッサージ)をしてくれたりする人。

 場合によってはエロいこともさせてくれたりする。

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