壱
チュン、チュンと雀の鳴く声が聞こえてくる。どこからか、恐らくは隣家からであろう、鼻腔をくすぐる味噌汁の匂いに釣られ、意識が急速にまどろみの中から浮かんでいった。
朝か、と霞む頭で何とか理解した幸嵩は、未だ覚めやらぬ意識に何とか活を入れた。ゆるゆると光を網膜に入れるため瞼を細く開けていく。しかし、思っているほど強い光が入って来なかったため幸嵩は思い切って大きく瞬きを繰り返した。
まだ夜が明けきらぬ薄暗さであってもつい先まで目を閉じ闇の中にいた瞳には物の判別を付けるには十分過ぎる明かりだった。幸嵩の目に飛び込んできたのは見慣れぬ己の家。障子を抜ける外の光は未だ陽の光というには程遠かった。
「……うん、戻ってない、か」
寝たままの姿勢で きょろきょろ と辺りを見回した後、薄い布団をひっぺがし、のっそりと上体を起こした幸嵩は明らかに落胆したと判る声音でそう漏らした。情けないと笑う事なかれ。確かに彼は、昨日の夜に自身に降りかかった災難を受け入れるには受け入れたが納得したわけでは決して無いので、ざわつく心を幾らか落ち着けようと現状確認と共に息を一つ吐いた。
しかし、やがて彼は頭を振ると、うーん と手足を伸ばし、溜息と共に体を弛緩させた。そうして漸く幸嵩はヨッコイショっと寝床から起き上がったのだった。
布団を畳み部屋の隅に片付けると、寝間着のまま炊事場にある木桶を持って外に出た。外はやはり薄暗いままであったが、空を見あげれば星の瞬きはほとんど見えなくなってきていた。
まだ暗い、明けやらぬ空の下、幸嵩は井戸場で顔を洗い口をすすぎ終えると、早々に家へと引っ込んだ。そして何かに急き立てられるように着替えを済ませ、刀を腰に差し、いそいそと長屋を出ていく。
子供の頃よりの日課となっている鍛錬をこなすためだった。こうして朝早くから出かけることは幸嵩にとって日常のことであった。所が少し、いや、大分変わってしまったとはいえ彼自身が変わってしまったわけではない。ならば彼が取る行動も常と同じに決まっていた。
目指す先は御矛神社。
道場などに在籍すればそこを使わせて貰う――実際、幸嵩は毎朝それなりに離れた木村邸へと赴き朝稽古に励んでいた――のだが、如何せん此処では伝手がない。そこで昨晩の宮司との話の中でそう言った鍛錬に向いたなるべく人気の少ない場所を尋ねると、快く境内の隅を提供してくれた。
故に考えた幸嵩はこうして御矛神社に向けて走っているのだ。
鎮守の杜を抜け、大鳥居の前で一端頭を下げ神域へと入る。参拝の約束事に従って身を清め、拝殿の前で頭を垂れ、柏手を打ち、むにゃむにゃと日々の平安へのお礼とこれよりの平穏を祈念し、ついでに隅っこを貸して戴く事の報告をする。そして再び頭を垂れてから、幸嵩はふと我に返った。波乱を齎した元凶に平穏無事を感謝するのは違うのではないか、と。
「橘様」
心の中でブチブチと不満を駄々漏れにしていたせいもあって掛けられた声に振り返った幸嵩の顔は曇っていた。宮司もある程度は幸嵩の心情を察していたので苦笑いを浮かべざるを得ず、見合う二人は二人して何ともバツの悪い顔を作った。
「宮司殿……その、えー、お早う御座います」
「――はは……お早いですな橘様も」
二人の間に訪れる少しの沈黙。それを嫌って幸嵩は繕うように口を開く。なるべく時代掛った言葉遣いを心がけて。
「―――あー、まぁ。……昨日の今日でとは思いまするが早速鍛錬の場所の間借りをお願い致そうかと」
「ははぁ、なるほど。では案内致しましょう」
口調の奇妙さ加減を指摘されなかったことに安堵する幸嵩を尻目に、宮司は遠くで掃き掃除をしている若い神職と呼び何やら言伝をすると「ではこちらに」と彼に先立って歩き出した。境内を抜け拝殿の脇を通り、本殿すらも横目にずんずんと進んでいく。
着いた場所は四方を木々に囲まれた森のなかにポッカリと空いた空き地。場所的には、ちょうど住居兼社務所の裏手になるだろう。隅に寄り置かれた大小様々な薪やら端材、廃材やらが、幸嵩にこの場所の用途を教えてくれていた。
「如何で御座いますかな?」
「これは良い。是非に使わせていただくとします」
幸嵩の満足気な様子に宮司も頷くと、余人の目があっては落ち着つかぬだろうと気を回し自身の仕事へと戻って行った。その去っていく宮司の背中を見送ってから、ふむと幸嵩は唸り「さて」と一声出してから体を解しにかかった。
◇
知らぬ者が見れば、それは一見遊んでいるのか、何かの冗談、もしくは巫山戯ているようにも見えるだろう。ゆっくりゆっくりと遅々として動かぬそれは蝸牛の歩みの如くというものだった。
ゆっくりと刀を抜き、ゆっくりと横一文字に薙ぎ、そしてゆっくりと脇に構える。ものの数秒もかからないはずの、たったそれだけの動作を幸嵩は、その切っ先に蝿が止まるのではないかという遅さで行なっていた。決して遊んでいるわけでも、冗談でも、巫山戯ているわけでもない。至って真剣にそれを行なっていた。
そしてまたそれを繰り返す。今度は少しばかりの速度を持って繰り返し、繰り返し、繰り返す。それは次第に速さを増して繰り出され、積み重ねられていく。
前にも言ったが幸嵩にさしたる才能はない。故にテキトーにやれば適当に動かせられるというようなことは決して無く、気を抜けば積み上げてきた技は錆付き崩れてしまう。
だからこそ彼は自身の剣を常に検分し続けなければならなかった。より全きを求めて微に入り細を穿ち、思考を巡らせ、工夫を凝らす。己が長年の鍛錬の中で見取り見出し思い描けるようになった刃の軌跡と自分が作る刃の差異を少しでも埋めるために。
そうして一通りの形を終える頃には、幸嵩の体からは蒸気が立ち上っていた。
「ふぅうううう」
ひときわ深い呼気を吐く。と、丁度その時、しずしずとこちらに向って歩いてくる誰かの足音が幸嵩の耳に届いた。気を向ければ、いつの間にか陽も完全に明けている。
もう終わりにしよう、と彼はゆっくりと気を整え始めた。呼吸とともに吸い込まれる清涼な空気が鍛錬で火照った体を内と外から慰撫してくれる。
背から足音が近づき、そして止まった。幸嵩が刀を鞘へと戻す。
「橘様、手拭いを持ってまいりました。どうぞ汗をお拭き下さい」
耳に届いたのは若い男の声だった。振り返るとそこには年の頃が拾六、七の神職が言葉の通りに手に手拭がかけてある桶を持って立っていた。
「や、これはかたじけない」
礼を言いつつ桶を受け取り、手拭いを固く絞って、いそいそと汗でベトついた体を拭いてゆく。触れる風が心地良い。
青年を待たせていると分かっていたが、それでも二度三度と体を拭いた幸嵩はようやく脱いでいた着物を纏った。
「お待たせした」
「朝餉の用意ができております。橘様もどうぞご一緒に」
青年が口にした申し出に幸嵩は少しばかり居心地が悪くなった。
だって、そうだろう?昨晩、なんの先触れもなく訪れ、あまつさえ遠慮もせずバクバクと出された料理をがっついてしまったのことを思うと、そう何度も世話になるわけにはいかない。
そう考え、その事を伝えて固辞しようとする幸嵩。
しかし、彼はふうわりとした優しげな笑みを浮かべると、しかし、きっぱりと言った。
「ご遠慮なさらずにもう作ってしまいましたし」
「うっ……」
逃げ道を塞がれ幸嵩は恐縮しつつも頷いた。神職の青年に道を案内されながら、明日からは握り飯でも作って来ないといけないなぁ、と思いつつ彼は少しばかり減った腹を自覚するのだった。
◇
「おや、橘様、こんな朝早くからどちらに?」
神社から帰って一番、長屋への木戸をくぐると丁度大家の善兵衛が幸嵩に気がつき、そう声をかけてきた。その声に奥の井戸場で洗い物などをしていた女房達も幸嵩の存在に気が付き頭を下げるので幸嵩も下げ返した。
「御矛神社と言ったか、近くの神社にこれから世話になるので、とな。その挨拶だ」
「それはそれは。何ぞ分から無いことがあれば何なりとお聞きください。昨日も申しましたでしょう? 大家と店子は親子同然でございますから」
幸嵩の言に、何故直ぐに会いたいのか、少し不思議に思った善兵衛だったが詮索するでもなく好々爺とした笑みを見せる。
「ああ、是非頼む。それで大家殿、蓄えもそうあるわけではないから稼がねば店賃がいずれ滞ってしまいかねん。何処ぞ働き口か口利きをしてくれる所を知っておらぬか?」
「そうでございますね……元町に武蔵屋という口入れ屋がございます。そこの親父は結構手広く商いをしておりますな。と申しましても女衒のようなことはしておりませんで、店のほうでも幾度か人を頼んだことがございます」
「武蔵屋、か」
「はい。そこの親父は太平と申すのですが、私の名前を言っていただければ分かると思いますので」
「そうか、気を使わせたな、相済まん。今日は物を買いに走るが、明日にでも早速行ってこよう」
「それがよろしゅうございます」
そうして幸嵩は善兵衛に礼を言い、女房衆とも軽く話す。幸嵩にはしてみれば全員初対面であったが、女房達にしてみれば隣家の狐女、佐知と同じく挨拶がしてあったようで警戒心のない目を向けてくるが、どうやらその内の一人は初対面だったようで幸嵩は自己紹介をされる。
「藤屋で奉公をしている与六の妻で、清といいます」
「これはご丁寧に。先立て箕乃より越して参った、橘 十蔵と申す。こういった長屋暮らしには慣れておらぬゆえ迷惑をかけることもあるやもしれぬが、よろしく頼む」
深々と頭を下げた幸嵩を目にして清は仰天した。お武家が町人である自分に対して深く腰を折って挨拶をしているのである。焦らないほうがどうかしている。
「あぇ?は、はい!こちらこそお頼み申し上げますでござりまする?」
清が慌てて変な言葉使いで返答するのを見ていた大根を洗っていた恰幅の良い狸耳狸尻尾の女がブフッと吹き出し、闊達に笑い出した。幸嵩は知らなかったが、彼の向かいの部屋に住む大工の権蔵の妻、よねであった。
「アッハッハッ、体は大きいし顔は怖いし……なのにホント旦那は見かけによらないねぇ」
「およねさん!お武家様になんて口を」
「大丈夫さね、お清ちゃん。ね、橘様」
清がよねをたしなめるのをのを見て、そんな風に幸嵩に同意を得ようとするのは権蔵の家の隣に住む駕篭かきの与之助の妻の千だった。
その強引にも思える言い様に少しだけ苦笑しつつも頷く。
「ああ、ここではわしが一番の新参なのだ。郷に入れば郷にというものだろうお清殿、およね殿のように普通に話してくれて構わぬよ」
「ほらね、気にしない気にしない」
「本当に宜しいですか、橘様? その……お千ちゃんはこう言ってますけど」
「ああ、話しやすい話し方で構わん」
自分がなんちゃってお侍言葉でロールプレイしているのを棚に上げつつも、そんなことを言って千を諭す。
すると清は、幾らかの逡巡の後、「橘様が気にしないと言うのなら」と付け加えた上で口調を改めることを了承した。
「しかし、なんだい旦那。まだ足りないものでもあるのかい?」
「ん?んー、まぁ色々とな」
先程の幸嵩と善兵衛との会話をしっかり聞いていたのだろう、よねが越して来て三日も経つというのにのんびりな御仁だ、と呆れ顔で聞く。幸嵩はそれに苦笑しつつ答え、火一つ満足に手に入れられない昨晩の状況を思いやってそうそうに家探しやら何やらをして必要なものを手に入れないとなと改めて思い直した。
「青物やお魚だったら昼前には行商が来るんですよ、橘様」
「お米や味噌やらは行商に来ませんから麹町まで行かんと駄目なのよねぇ、ここ(呉服町)からちょっと遠いのよねぇ」
「そうそう、遠いで思い出したけど、この間、旦那と一緒に食べようかと元町の松屋さんで あいすくりん 買ったんだけどここまで来る間に溶けちゃってたのよ」
「ああ、松屋さんの最中あいすくりんでしょう?あれはあそこで食べるものよ。そふとくりん もおいしかったわぁ」
「そふとくりん、ああ、食べたくなってきた。今度皆で食べに行きましょう」
「そうさね、ああ、駄目。寅吉も一緒に連れてくと何しでかすか」
「うちの同じよ。咲ちゃんみたいに大人しくしてくれればいいのに。でも行きたいわぁ。そうだ、舶来堂ならどう? けぇき 食べ放題やってるって長寿郎長屋のお梅さんが言ってたの」
幸嵩そっちのけでどこそこ菓子屋が美味いやら、やれ、どこそこの飯屋が安いやら、どこそこの着物は綺麗やら、どこそこで安売りがあるやら、と言った話に花を咲かせる女房たちに、女三人寄れば姦しいとはこういうことなのだな、と妙な得心を得た。そして彼女たちに会話の端々に見える町の様子にふむふむと頷いていた。昨日見て回っただけでは分からなかったことや、知らなかったことを整理していく。
そんな女達に大家の善兵衛がやれやれといった感じで近寄ってきて口を挟む。
「ほらほら、お前さん達、橘様が呆れておられるじゃないか」
その声にハッとした女房達は、ようやく幸嵩のことを思い出したらしく顔を向けた。
「あら、やだ。ごめんなさい橘様、あたし達ったら盛り上がっちゃってて」
「ああ、いや、構わんのだが、大家殿」
「もう、旦那ったら意地が悪い」
「そうですよ、黙って立ち聞きなんて御仁が悪い」
「ははは、許せ。皆の話のお陰でこの街の様子も知れたのはこちらにとっては有難い話だったのでな」
苦笑を顔に貼り付けてそう答えるも、幸嵩は勝手に話を脱線していったのはそっちだろうが、と心のなかで付け加えた。
「さて、わしも部屋の整理もせねばならん、今はこれで。話、為になった、方々」
そうやって話を切り上げた幸嵩は、軽く頭を下げてから自室へと入っていった。
◇
部屋に篭り、役に立つ、もしくは先立つものを探して家探しを開始してから、数時間。
戦利品が幸嵩の前に並ぶ。探索結果は上々のものであった。
炊事場の当たりを見て回ると有難いことに鍋やタライ、包丁、まな板など調理道具はもとより、米櫃からは米が、瓶からは味噌と醤油、塩、味醂などの調味料も一ヶ月程の蓄えも見つかった。食う物がそれなりにある状況に幸嵩は、ほっ、と安堵の溜息を漏らした。
調理道具の把握も進めていくと、大きさ三十センチより少し大きいくらいの漆塗りの箱があったので中身を確かめると、そこには飯椀、汁椀、箸、小皿、それに湯のみに箸置きなど食事に必要な物が入っていた。それを見て幸嵩は、ああ箱膳だったか、と蓋を閉め元の場所に置き直す。
台所関連の確認をひと通り終えると、まだ手を付けていない部屋の中へと幸嵩は手を伸ばし始めた。布団をひっくり返し、箪笥の中を探り、箱を開ける。
箪笥を探ると手ぬぐいやら何やらの下、奥のほうから袋状の布が出てきた。振ってみるとチャリチャリと金属の擦れる音がする。これは!と開けてみると百円程の金属の円盤と五百円硬貨より一回り大きい鈍色の円盤が数枚、鈍く銀色に輝く親指の先ほどの大きさの長方形が一枚、そして手垢で汚れているが金色に輝く小指の先ほど小さい板が一枚入っているではないか。
布袋はお財布だったのだ。それら金属片は、それぞれ十文銭(およそ二百五拾円)、二朱銀(およそ一万二千五百円)そして一分金(およそ二万五千円)というゲーム内で使われていた貨幣だった。
幸嵩は、実際の江戸時代の貨幣価値に詳しくはなかったが、ゲーム内では実際の通貨を元にデザインされ、貨幣価値もそれを元にアレンジされていると記憶していた。だから、彼はおおよその価値を考えてほくそ笑む。手の中でお金を行儀悪くチャリチャリと言わせ、恐らくこれだけあれば取り敢えず数日は大丈夫だろうと胸を撫で下ろした。
小物入れの中には、墨や硯、筆などの筆記用具、鉄の鍵、火打組 と書かれた紙箱が有り、用意の良いことに火の付け方が書いてある説明書まで付いている親切な品まであった。火の付け方はこれ通りにすれば良いと分かり、ご飯の準備は難しいが出来るだろう、できなくとも外食という手もあるか、と幸嵩は独り言ちる。
他にも刀の手入れに必要な目釘抜きやら打ち粉やらが一緒に入った小箱なども入っていた。それは現実に自分の持っていたものと同じであったので、こんなところでも現実との接点を見つけ、幸嵩は喜んで良いやら嘆いて良いやら少し答えに給してしまっていた。
しかし、幸嵩はやがて、その念を振り払うようにぶんぶんと頭を横に振ると、視線を部屋の隅へと向ける。そこには埃を被らないように風呂敷布がかかっていて見えはしないが形状から行くと大きめの箱であろう物体が鎮座していた。
ふむ、何だろう?と風呂敷を取り去って幸嵩は目を見張る。
箱。予想通りに箱。それは、人一人が丸まれば入れそうなほどの大きな箱。
しかし、朱の漆に塗られ四隅を金で鍍金された飾り金でガッチリと補強された上、蓋の上面と正面には橘の紋、すなわち橘家の家紋が施されたその箱を、ただの箱と呼ぶのは些か芸がない。
彼は、その箱に覚えがあった。と言ってもゲームの中でだが。
「鎧櫃か」
鎧櫃。その字の通り、鎧をしまっておくための櫃、つまり蓋が上に開く大きい箱のことだ。
幸嵩は蓋をそっと外し、内を検め始めた。
傷めぬためだろう鎧兜は紫きの布で包まれており、それらを丁寧に取り出しては包みを開き手慣れた様子で組み立てていく。そうすることしばし。そこには鎧武者が座っていた。
兜はやや扁平で鈍い鋼色、金色の鉢金に後頭部には髷を結ったような頭飾を持っており、その面貌は白く何処か魚の顔を思い出させる。鎧の袖、つまり肩の装甲の下からは花田色の青布が付けられ、それはまるで着物の袖のようにも見えた。鋼色と白を主体とした胴丸。そして腰を守る金鍍金され垂れの先端には赤い房飾りが揺れる。その下からは、同じ花田色の飾り布が脚を覆い、まるで袴を履いているかのように見せていた。
その姿は、現実の具足鎧を元としているが、その実とてもヒロイックなデザインであった。いっそアニメちっくなデザインだと言っても良いほどだった。
銘――― 朱坂兼音
目に映るその鎧武者を幸嵩はそう認めた
それは、ゲーム【和風なファンタジーで御座る】で彼が一番気に入っていた鎧と寸分違わぬものだった。
乃生州 朱坂 住の鎧鍛冶 兼音が作の一領にて、大量生産ものと違い世に二つと無い一点物。つまりモッドツールと呼ばれるアプリケーションソフトを用いて自らが作ったデータをコンバートしてゲーム内に反映させたアイテム。
じぃ、と上から下まで眺める。見紛うはずがない。幸嵩、手ずからデザインしたのだ。そしてゲームの中で何度も鎧い、共に駆けた一領。
それが今、目の前にある。ふつふつと心が沸き立ってくるのを感じ、幸嵩はおもむろに手を伸ばした。
ゲーム内でなら『装備しますか?―――はい」で簡単に身につけられたのだが、幸嵩が何度「装備、装備する、武装する、武装ぉお!着装ぉ!etc……」と口にしようとも世は並べて事も無し。
一つ一つ手作業で身に着けていくしか無いようであった。
「結構に……重い」
全てを身に纏いガチャリ、と金属の擦れ合う音を立てながら右手を上げる。両手を広げ、次いで屈伸、最後に跳躍。
ギシッと床板が哭き声をあげたのに驚いて「おぉわ!」と幸嵩のほうが悲鳴を上げてしまった。恐る恐る床を一、二度ギシギシ踏み、壊れていないのを確認してホッと一息つく。そんな時、
「橘様、宜しゅうござ――ひゃあぁ!!」
頓狂な声と共にドスンと音が立つ。戸口で腰を抜かしていたの大家の善兵衛であった。慌てて歩み寄り甲冑を身につけたまま手を差し出した。
「大家殿!大丈夫か?」
「な、なな、何事でございます?」
「ん? 何が?」
「い、戦でございますか!?」
「はぁ?―――ぁあ!これか」
幸嵩は、ようやくそこで善兵衛が驚いた理由に思い至った。戦とは大仰なとも思ったが、何事もなければ鎧など身に纏うこともない。それが当然だ。
兜を脱いで曖昧に笑みを見せる。
「ああ、いや、すまん。何、引っ越しの片づけのついでに虫干しでもと思ってな。久方ぶりに着けてみた次第だが。驚かせたようで、相済まん」
「はぁ……」
するすると口を吐いて出てきた嘘っ八の言い訳に、善兵衛は得心がいったのかいかないのか判然としない表情を浮かべたまま。
「で、何ぞ用であったかの?」
「あ、ああ、ああ、左様でございました。え、どっこいしょ。―――ありがとうございます、橘様」
幸嵩に先を促され、ようやく差し出されていた手を掴んだ善兵衛は、立ち上がるとパンパンと付いた埃を払ってから頭を下げた。
「これを届けに参った次第で」
と、懐から取り出したのは何かの書付のようであった。
「これは?」
「はい、先ほどお話していた武蔵屋へ行く際にお持ち下さい。橘様がうちの店子だとしたためてあります故」
「おお、これは―――かたじけない」
人の好い善兵衛はわざわざ紹介状まで用意してくれたのだ。幸嵩は素直に頭を下げた。
「いいえ、いいえ。大家といえば親も同然。店子といえば子も同然。大家と店子は親子―――」
「同然か」
「ハハッ、左様でございます」
「そこまで言われるとな。では、有り難く頂戴しよう」
つと間が開いた。
「しかし、ご立派な甲冑ですなぁ。やはり、お家に伝わるもので?」
善兵衛はしげしげと幸嵩の纏った朱坂兼音を見回すと、ウンウンと頷きながらそんなことを訊いてきた。
「いや、これは……」
と、口にした所で本当のことを言う訳にもいかず、また事実を元に貧乏浪人が鎧鍛冶に自分好みの物を仕立てて貰ったなどの話を作っても面倒だと思い直した。
「うむ、まぁ、当世風に直してはあるがな」
「ははぁ、凄いものですなぁ」
丁度そんな時、ゴーンと何処からか鐘の音が聞こえてきた。正午を知らせる寺の鐘だった。
「おや、もうお昼時でしたか。では私はこの辺りで」
「ああ、大家殿。わしも鎧をしまったら飯にしよう」
「それでは」
善兵衛を見送った後、確かに腹の減りを感じた幸嵩は、いそいそと着込んだ甲冑を脱いでいった。
急ぎながらも丁寧に包み込んで鎧櫃へと仕舞いこむ。
「さて、と」
元通りに埃除けの風呂敷を掛けて鎧櫃を部屋の隅に戻すと、ポンッと膝を叩いて幸嵩は立ち上がった。懐には探索で発見した財布が既に入れられている。
「何を食べようか?」
そう独り言ちながら草鞋を履くと、幸嵩は部屋を後にした。
◇
ずずぅっ、と最後の汁を飲み干してプハァと息を吐き出した。舌に残る醤油と煮干し出汁の味と、鼻の抜ける香りで十分余韻を楽しんだ幸嵩は丼をトンと軽い音が鳴らして卓へと戻す。
ふー、と一息ついた後、おもむろに懐に手を入れた。指先が財布の端に触れる。
「親父、勘定。馳走になっった」
「あい、掛け二杯で三十二文(およそ八百円)になりやす」
五十そこそこの店主は愛想良く幸嵩に値段を告げる。
財布からチャリチャリと十文銭三枚と一文銭二枚を取り出し、丼を下げに来た店主の手においた。すると、ひーふーみーと数え始めた店主は払われた代金が丁度と分かるとニカッと笑った。
幸嵩は、まいどご贔屓にぃ、という店主の声を背に聞きつつ、満腹となった腹をさする。そうして結構物価高いなぁと内心で思いながらも麦屋の暖簾ををくぐり外へ出た。
中天を幾らか過ぎた太陽の日差しは丁度雲間に隠れたところだった。
幸嵩は懐にしまってあった昨日善兵衛から貰った地図を頼りに街をそぞろに歩く。昨日の焦燥感の中で駆けずり回った時とは違い、彼はある程度の余裕を持って街並みを見ることができていた。人間は慣れの動物だというが本当だな、と自身の心の機微を思い、幸嵩は呆れると同時に苦笑した。
多くの、異種様々な人が行き交う幅の広い表通りには、いろいろな店が軒を連ねていた。時代劇でお馴染みの廻船問屋、材木問屋の問屋に始まり、古着屋、古道具屋、質屋、小間物屋、銭屋、湯屋、油屋、米屋、酒屋、刀屋、薬屋、乾物屋、甘味屋、鰻屋などなど生活必需品から食事処、多種多様な店があった。
幸嵩は、ふらりと一軒の小間物屋に立ち寄った。店の奥で座っていた店主は入ってきた幸嵩を一瞥し、居らっしゃいませと一言だけ言うと気にしたふうもなく帳面をつけに戻る。
冷やかし、冷やかしとばかりに幸嵩は店内を見回る。ふと見慣れた形のものがあった。それを手に取りしげしげと見る。そして店主の方を向き、商品を掲げてみせた。
「店主、これは?」
「? ……へぇ、歯磨きで御座います」
幸嵩の声に顔を上げた店主が、怪訝な顔を見せた。幸嵩が手にしていたのは現代でよく見かける歯ブラシであった。家探しの時には思いつきもしなかったが歯ブラシがなかったことに思い至り、ちょうど良いとばかりにそれを買い求めた。
そんなふうにして幸嵩は店を覗いては出て、また違う店を覗いては歩く。やがて幸嵩は橋の上、欄干に背をもたれさせ往来を歩く種種雑多な人々を眺め、その道行きを目で追い始めた。たまさか、突っ立っている幸嵩を気にしてチラリと横目を向ける者もいるが、直ぐに他の気にも止めない多くの者と同じように過ぎ去っていった。
つい、と空を見上げた。青い青い空が広がっていた。白くふわりとした雲が流れていく。遥か先、空の下には青垣が、すなわち山々があり、その山々を背景に街並みがあった。幸嵩は思う。自分の知らない場所で、自分の知らない者達が今も普通に生きているんだろうな、と。
袖に手をやり、先ほど買った歯ブラシを手にし、眺める。柄は竹を削って作られ、ブラシの部分は……恐らくプラスチック製。この一品にどれだけの人が携わったのだろうか?竹林の持ち主、竹問屋、竹細工の職人、石油を掘る人、生成する人、プラスチックにする人、ちょっと考えるだけでもこの一本の裏に顔も知らない人々が偲ばれる。
再び、幸嵩は周りを見渡した。周りは彼の思考などお構いなしに、先ほどと変わらない。人々は皆、自らの道行きを歩いていた。その光景は、確かにここに人の営みが頑然と存在するのだ、と彼に感じさせるには十分すぎるものだった。
◇
夜、狭い我が家を行灯に火を灯し照らし、刀の手入れをしながら幸嵩は、これまでのこと、この異世界のこと、そしてこれからのことを思った。
身に降り掛かったことは、宣誓を口にしたとはいえ、昨日の今日のこと。まだ完全には飲み下すことはできていなかった。横暴、理不尽にも程がある、と不満タラタラなことにも変わりはない。―――しかし、それを叫んだ所で何がどう変わるわけでもないことも分かっていた。人と言葉を交わし、物に触れ、時の移ろいを見る。そこに己と世界の実在を認めざるを得なかった。そして一応ではあるが道も示されている。
ふっ、と苦笑した。そして、何より酷い仕打ちではあるが、稀有な機会であり心のなかで沸き立つ何かがあるのもまた事実だった。
「いつまでかかることやら」
一つ嘆息した。その間も手は淀みなく動き刀身に打ち粉を叩き続ける。
「―――明日は職探しか」
いくら取り巻く世界が変わったと言えども食っていかなければならないことに違いはない。
「本当、いつまでかかるやら」
いずれ辿り着くことを願う極みを想うも、生きていくのに必要不可欠な金のことが思い出されて、ああ、世知辛いなぁ、と幸嵩は思った。
用語設定
【狸精】(りせい)
和風なファンタジーで御座る内のキャラの種族設定の一つ。
頭に狸の耳が、お尻に狸の尻尾が生えているキャラ。
【駕篭かき】(かごかき)
駕籠を担ぐ人。今で言うタクシーの運転手さん
【松屋】(まつや)
あいすくりん屋(=アイスクリーム屋)
【舶来堂】(はくらいどう)
けぇき屋(=ケーキ屋)
【朱坂兼音】(あかさかかねおと)
和風なファンタジーで御座る内で幸嵩が使っていた鎧の銘(=名)。
箕乃朱坂在住の兼音という鍛冶師が打った(=作った)鎧。
同じ銘を持った鎧は多々存在するが一つとして同じものはない。
中上作業物(=まぁまぁの出来でそこそこ高い防御力を誇る)。
※ モデルは実在した刀匠、濃州関住右衛門尉兼音。朱坂は関の孫六で有名な二代目兼元が住んだ赤坂(現・岐阜県大垣市赤坂)より。
【貨幣価値】
一文銭 25円
四文銭 100円
・百円硬貨ほどの大きさ。四文銭のほうには波型の飾りが彫られている。
十文銭 250円
・五百円硬貨より一回り大きい。
百文銭 2500円
・一文銭が九九枚、束になっている。つなぐために真ん中の穴を通した紐が残りの一文と同価値と見做される。
一朱銀 250文=6250円
二朱銀 500文=1万2500円
・銀でできた小さな円盤。五百円硬貨より一回り大きくそれぞれ一朱、二朱と刻印がしてある。
一分金 4朱=1000文=2万5千円
二分金 8朱=2000文=5万円
・金で出来た小指の先ほど小さい板。それぞれ一分、二分と刻印がしてある。
一両小判 4分=10万円
・よく時代劇に登場する楕円型で金色に光るアレ。山吹色のお菓子の材料。
劇中例:
かけ蕎麦二杯で三十二文(およそ八百円)
※ 実在した貨幣価値を参考に改変