壱
その日、空は高く澄み渡り雲一つ無く、ゆるゆるとした暖かい陽射しが降り、心地好い風が吹いていた。
住宅街の一角、住宅街にしては異様に大きな神社の中から祭囃子が流れてくる。絶好の祭日和に、市内、県内のみならず多くの人がこの社、御矛神社を訪れていた。
人々が屋台が軒を連ねる参道へと繰り出しているのが見える。 立ち止まり世間話をしている奥方たち、孫に手を引かれれた祖父であろう老人、手に玩具の刀を持った子供たちがはしゃぎ回り、子供の成長祈願に来たのか若い夫婦が赤子を抱いて歩いている。
そんな喧騒に似た活気より離れて、袴姿の一人の青年が、社務所奥の控え室でつくねんと所在なげに正座していた。
彼の名は橘 幸嵩。骨太でガッチリとした体躯を備えており、身長は百八十センチメートルに少し足りない。
意志の強そうな太い眉。ムゥと真一文字に結んだ口。適当に切った緑に見えるのではというほどの黒髪のざ乱れ髪と相まって無頼漢のように見えなくも無い。事実、何かの際に凄めば八重歯というのが可愛らしい犬歯と相まって相応の強面となる。
そんな彼は今、自身の一世一代の晴れの舞台を前に心を落ち着かせることに腐心していた。
ガヤガヤとした人の話し声に武者窓から外を窺えば、見えるその先に人だかりが一重二重と垣根を作っていた。或る者は今か今かとカメラを持って待ち構え、また或る者は何が始まるのだろう?と若干の期待と興味の眼差しを向けている。
これからあそこで、あの人達の前で演武をするのだ、と考えると幸嵩はぶるりと緊張に身を震わせる。頭を振って、パンっと両頬を手で叩き、尻込みしてしまう自分に静かに活を入れた。
幸嵩には、取り立てて言うほどの才能が有ったわけではない。
六つの頃から始めた剣の修行は、この年になってどうにかこうにか格好がつくようになった程度でしかなかった。
それでも其処に至るまでの不断の努力は、生半なもので無かったことだけは確かだったようで、今日、これから行われる奉納演武にて師の相手として仕太刀を勤めることとなっていた。
師から、そろそろ行こうと声を掛けられた幸嵩は、神楽殿への廊下に続く戸を一瞥してから立ち上がる。数えるほどしか袖を通していない真新しい黒の紋付羽織を羽織り、袴の帯をキュッと締めた。そうすることで気を新たにしたのだ。
刀掛から本身ではない居合い組立ち用の刃引の大小を取り腰へと差せば、慣れ親しんだ刀の重さもまた心を落ち着かせてくれるのに一役買ってくれた。
胸に手を置き目を瞑る。そうして、おもむろに息をスゥと吸い込んでゆっくりと吐きだす。それを二度ほど繰り返し、最後に大きく吸い込んだ息をふっと荒々しく吐きだした。
よし、覚悟は決まった、とばかりに胆を据えた彼が確と前を見据えた時、計ったように師が控え室の戸を開け放った。
◇
陽は傾き、時は夕刻。祭囃子は遠くに去り、活気に溢れていた境内には今や寂寞とした静けさが漂っていた。
しかし、喧騒の残り火は別の場所に確かに存在した。その所は社務所内にある広間。と言っても一部屋十二畳ほどある二部屋を仕切る襖戸を外して出来た一部屋。
其処で、今日の祭の運営に係わった者たちによる酒宴が行われている。所謂、反省会、打ち上げと呼ばれる類の酒宴であった。
男も女も皆、義務と責任の重圧からの開放と達成感から酒精に顔を赤くして楽しげに呑み、嬉しげに食い、大いに語り合っていた。
そんな中に、ぶちぶちとぼやき続けている青年がいる。誰あろう幸嵩だ。
生来、酒にそれほど強くない彼ではあったが、呑まなければやってられないとばかりに彼は酒盃へと手を伸ばしていた。
「まったく、二人とも何をお考えなんですか。
刃引きで太刀合いなんて肝が冷えるなんてものじゃない!死にますよ!殺す気ですか! しかも、あんな大事な場面で!」
酒の勢いを借りた幸嵩は、先ほどから憤りを露わにしながら目の前の人物達をねめつけている。
その視線を受けたのは、顔の造作が良く似ている二人。一人は円熟期に入ってから幾らも過ぎ、髪も白いものがその大半を占めていた。もう一人は、初老に入るか入らないかといった年頃で恰幅が良い。
「最初から教えておいたら、つまらんじゃないか」
「つまるかつまらんかはともかく、つまるところあれも稽古の一環なんだ。
俺も昔、祖父さんと親父相手にやらされた。ま、今回みたく黙ってじゃなかったけどな。でもお前の場合、逃げ道を塞いでおかないと逃げるだろ、絶対?」
二人がそれぞれにそんなことを口にして、幸嵩の愚痴に答えた。
悪戯成功とばかりにニヤリと笑みを貼り付けるのが幸嵩の剣の師であり教わっている流派の宗家、木山弘典。そして、しれっと彼に諦めて納得することを諭したのが師の息子で師範の木山基典だ。
弘典の言葉はともかく基典の指摘を聞いて幸嵩は、うぐっと言葉を詰まらせた後、視線を逸らすと口をすぼめて「そんな事しませんよ」とはぐらかした。
彼らが話題に上らせているのは当然昼間の奉納演武での一幕。演武は傍から見れば何事も無く無事大成功といった様相だったのだが、本人達からしてみると一波乱も二波乱もあったようだ。
◇
大勢の観客が見守る中、演武は終盤までこれと言った滞りも無く順調に演目をこなされて行っていた。
最初の最初、舞台に上がった直後こそ慣れぬ緊張にぎこちない動きをしていた幸嵩だったのだが、師の放つ剣気に促され次第に水を得た魚か、流れる水の如くか、滑らかな動きへと変わっていく。
演目の中盤を披露し終える頃ともなれば、彼が普段の実力を発揮するのに十分過ぎる時間が経っていた。
不意に右肩にヒリヒリとした違和感を覚えた。幸嵩の感じるそれは次第に痛みを伴って来ていた。斬撃が来る!と、そう確信する。
この、幸嵩が知覚したヒリヒリとした痛みを伴う感覚、その正体は突きつけられた殺気への本能が鳴らす警告音。流派の教えに拠れば、この先祖返りとも言える、ある種の動物的感覚を身に着けることが基本にして秘奥への第一歩らしかった。彼が長年の稽古に耐え抜いた末に体得、知覚できるようになったモノの一つだった。
幸嵩は、彼自身が艱難辛苦を乗り越えた先で手に入れた、この感覚に高い信頼と自信を持っていた。それ故に、この攻撃が奇妙だと判断した。
演武の順序で行けば、次は右からの横薙ぎに斬ってくる師・弘典の刃に逆らわず、幸嵩が己を右回りに回転させながらことで刃を躱す妙技を見せた後、間合いを詰め反撃に転ずる。そのはずだった。
しかし、実際には師が右から袈裟に斬ってきた。彼は、手順を間違えた?と訝しみつつも十年以上の時間を重ね、無数の傷を身体に刻んでようやく体得したした妙技【転】を用いて刃を躱して、そのまま演武を続行する。
間合いを切ってから相対した際に、先生、間違えましたよね?と師に目で問うが、返ってきたのは悪びれたものではなく真っ直ぐとした厳しい顔と強い眼光であった。
その答えに、自分が間違えたんだろうか?と、幸嵩は不安になった。しかし、それが杞憂であると直ぐに気がつくことになる。次は最初の一太刀が、その次は最後の一太刀が、さらにその次は、と演武の型に変化が加えられ、彼の意表を突いてきた。嫌でも気が付く。これら全ての攻撃は、師が意図的に変えてきているのだ、と。
幸嵩はそう察すると、何故?という疑問と共に、後で怒られるぞ、と師の身を案じ、おそらくは父親の暴挙にヒクヒクと米神の血管を浮き上がらせているだろう基典をチラリとみた。しかし、そこには彼が期待していたような光景は無かった。代わりにこれまた師と同様な厳しい視線を向ける師範がいるだけだった。
やがて演武は予定の上では最後の演目を残すのみとなった。
そして、この奉納演武の進行役である基典が最後の前口上を述べ始める。次で終わりか、と独り語ちる幸嵩の耳に届いたその内容は、彼が目を見開き唖然となるのに十分だった。
「演武を以上と致しまして、最後は当流宗家による太刀合いをもって終わりとさせて頂きます。」
はい?と幸嵩は己の耳を疑った。
なんだ?何を言っているんだ、この人は?と基典の正気を疑った。
太刀合いとはどういうことだ?俺は聞いていないぞ。いやいや、俺は駄目ですよ?無理ですよ?何構えてんですか先生?基典さん、アンタの父親が変です!止めてください!!と彼は今まさに良い具合に混乱の極みに達しようとしていた。
だが、しかし事態はあれよあれよと転がっていく。そして幸嵩の混乱を他所に、無情にも基典の口が開始の言葉を告げた。
「始め」
明後日の方向に意識が浮かんでいきそうだった幸嵩は、その瞬間、咽喉に強烈な痛みを感じて現実に引き戻された。すぅっと滑るように間合いを詰めてきた師を視界に納めながらも観てはいなかった。だが、彼の鋭敏なセンサーが自身の危機を声高に叫ぶ。急ぎ、対処せよ!と。
師の刀の切先が迫る。既に自身の刀で撥ね上げることも、打ち落とすこともできはしない。そう悟った瞬間、幸嵩の体は自動的に左足を一歩前に踏み出した。そして切先が咽喉を突き破らんとする刹那、クルリと身を翻しその脅威から逃れ出る。
難を辛くも逃れた彼は、素早く、そして油断無く師との間を開けた。あのままは呆け~と突っ立っていれば、間違いなく咽喉を突き破られ、止めの一撃も貰っていただろう、と自分の末路を想像した幸嵩の体がドッと汗が吹き出す。バクバクと心臓の鼓動が早まり、背筋をゾゾッとした怖気が走った。
あの一手が本気であった、すなわち、自分を殺す気で放たれたであろうことは、師と十数年以上付き合ってきた彼にとって分かり過ぎるほど判った。それは、本気でやらないと死ぬぞ、いや殺すぞ、という師からのありがたい叱責でもあった。
ゴクリと唾を飲み込む。刀を右脇に構える師の目には一切の遊びが無い。ならば、と幸嵩も腹を据えた。スッと刀を天に掲げ、構える。攻撃には攻撃で。地力に遥かに差があるのだから後の先を狙っては勝機は無いと彼は判断した。
幸嵩の剣の師である木山弘典は、愛弟子の覚悟を目にして一先ずは満足気に笑みを浮かべた。
◇
酒席の喧騒はいまだ収まらない。そこかしこで笑い声と話し声が溢れ、食器と卓が音を鳴らしガヤガヤとした賑わいを見せている。
そんな中で不満気に酒盃をあおっている幸嵩の愚痴に、煽られた弘典が言い返す。
「ええい、うるさい、うるさい! 機に臨んで変に応ずる、あのくらいでガタガタ抜かすな」
「あのくらいって! 最初の突き、殺す気でしたよね!」
ガーッ!と我鳴る弘典に、ワーッ!と喚く幸嵩。その間もグビグビ、グビグビと酒が減っていく。
幸嵩の言い草が気に入らないのか、弘典は憤懣遣る方無いといった風に柳眉を逆立てる。と、言っても怒っているという訳でもないのだが。
「当たり前だ!
第一ようやっとお前さんも流派を名乗れるようになったってのにあんな程度でどうにかなると思っとらんわ」
「ま、親父の言うとおりだな。」
しれっと基典が吐いた父親への援護射撃に、幸嵩がじっとりと彼を睨んだが、彼はそんな視線も何処吹く風といったようで、ちびりと杯を傾けて肴へ箸を伸ばす。
「はぁ?何をわけの……――」
幸嵩は、納得できず更に愚痴を言い募ろうと言葉を重ね始めて、つい今しがた弘典の口にした言葉に惹きつけられた。
今、先生はなんと言った?流派を名乗れるようになった、と言ったか?と幸嵩は自分の耳で聞いたはずの師の言葉が信じられず、ほろ酔い加減も手伝って嬉しい幻聴でも聞いただろうか?と首を捻った。
事の真実を確かめるため口を開く。
「?……
―――先生、今なんておっしゃいましたか?」
「だからぁ、ガタガタ抜かすなって言っとろうが!」
「そうじゃなくて!」
「臨機応変」
「そうでもなくて!」
ああ、もう!と期待と不安と焦燥に沸き立つ心が抑えられず幸嵩のモヤモヤする思考が体を突き動かす。酒盃を卓に戻すと、鬼気迫る形相を作り、ぶつからんとばかりに師に向かって躙り寄っていった。
「?」
「親父、幸嵩の皆伝位の話だ」
そんな有様に弘典は疑問符を浮かべ、横目に見ていた基典が父親の察しの悪さ加減に溜息を吐き、次いで助け舟を出した。
その言葉に最初こそ胡乱気だったが、弘典は頭の中で何かが噛み合ったのだろう、やがて天啓を得たかの如く晴れやかな顔つきを作った。
「うぁ? おお!そうだ!そうだぞ! お前、今日から皆伝位な。流派名乗って良いから」
「ほ、本当ですか!?」
「本当も嘘もあるかい。俺が良いって言ったから良いんだ」
流派を名乗る。そういった場面をTVの時代劇とかで見たことがあるだろうか?
一人の侍が、○○流 ◇□ △☆と流派名と自分の名を言い、相対する侍が◎◎流 ◇▽ ☆□と名乗るという、アレのことだ。これの意味するところは自分はその流派で一定の階梯に至っていますよ、と宣言することに他ならない。つまり、それなりに強いんだよ?巧いんだよ?と自慢することでもある。
【流派の名乗り】とは名乗った本人にとっては、まぁそういった意味合いのものと思ってそう間違いは無いのだが、流派にとってはそれなりに重い意味を持っている。
この場合、それは名乗った人物こそがその流派そのものを体現する存在、すなわち流派の代表者となることを意味し、言い換えれば流派そのものに等しいと相手に見なされるということだ。
例えば、もし、名乗った者が勝負に負けたとしよう。それはすなわち、流派の負けを意味する。勝負の行方は時の運。そういう事もあるだろう。しかし、その勝負において無様を晒してしまったら、その流派そのものが物笑いの種となってしまう。それでは先師代々は元より、同門の門人の顔に泥を塗ることとなってしまう。
故に、流派を名乗ることができるのは、それなりの技芸に達した者のみ、外に出しても恥ずかしくない程度には上達した者、すなわち皆伝に達した者のみが許されるのである。と言うのが一般的である。
幸嵩は、師、木山弘典から遂にその許しを得たのである。
師の言葉に心の奥が震え、歓喜が背筋を駆け上がり体を揺さぶる。だが、しかし、幸嵩はこうも思ってしまった。本当に良いのだろうか?と。その思いは今日の演武の顛末に起因していた。
◇
鉄と鉄とが弾け合って奏でる鋭い金属音が響き渡り、体を翻す際の衣擦れの音と二人の呼吸の音が祭の賑やかさを静寂へと塗り替える。
一合しては翻り、一合してはまた離れる。都合にして五度。未だ余裕を持って相対する師、弘典。一方、全霊を持って師の太刀を凌ぎ続け、それ故に荒い息を吐く幸嵩。
じり、じり、と二人は互いに右に渦を描くように間合いを詰めていく。師は刀の切っ先を気持ち下げ気味にし弟子の出方を窺い、幸嵩はオーソドックスな正眼の構えで弘典やり込めようと機を狙う。
そして踏み込めば互いの刀の切先が相手を捉える距離となった瞬間、彼らは同時に動いた。
自身の感覚が捉えていた師の放つ殺気という斬撃の軌跡。それは右腕を狙った一閃。しかし視界に映る白刃は明らかにガラ空きとなった肝臓に向けて突き出されていた。
二つの差異に頭の処理が追いつかない。幸嵩が自分の行動を後悔し、どう動くべきかを思考するよりも早く切っ先が迫る。心を占めるのは避けねばという焦り。
そして、冷たい金属が肉を貫く硬く熱い感触を――幸嵩は味わいはしなかった。
彼が長年の修練で培い、匂い立つほどに体に染み付いた技は、彼を微塵も裏切りはしなかった。体は、彼が考えるよりも早く焦りに付き従い【転】を実行して師の必殺の刃から見事逃げおおせてくれる。
再び間合いを取り出方を伺う幸嵩。脳裏には今の師が見せた技が蘇っていた。
【蔭葉】
彼が幼少の頃から習い親しんできた真刀流という剣術の一流派において、奥の一手。
それは、第三者からみれば何の変哲もない攻撃に見えるだろう。複雑な動きをするでもなく、特別速いわけでもない。特にこれといった特徴を見出すことは出来ない技。
しかし、それ相応の遣い手がこの技に対峙した時、そのの真価が詳らかにされる。それ相応、つまり殺気の有無を明確に感じることが出来るほどの遣い手ならばこの技の恐ろしさに気がつくというわけだ。
己が観た殺気による斬撃と実際に見る刃の軌道。そして、その差異。それが自らの内に四戒(驚き、懼れ、疑い、惑い)を呼び起こしてしまう。自身の読みを先読みを完全に外させられたという事実。それが生み出された僅かな濁りを徐々に増やし、心を侵していく。
時に影刃を使い、時に素直に殺気で示した斬撃を放つ。虚実を入り混ぜ放たれる刃は、確実に相手を死に体へと追い詰めていく。
わかっていたことだが、絶対的腕の差に絶望感を覚える。師、弘典が放つ殺気による痛みを咽喉の仏骨の辺りに感じながら幸嵩は、背に冷や汗をかいていた。しかし、決して退く気は無かった。
今までの師から受け取った全てを使って相対すると、疾うの昔に、この立会いが始まった時に覚悟は済ませているのだから。
【蔭葉】を用いて攻めてくる以上、そう易々と後の先、すなわちカウンターは取れない。―――技術的に出来ないわけではないが、己と師のの力量差では到底無理な話だと、彼は判断していた。
ならば――――
攻め、あるのみ!
幸嵩は刀を振りかぶると同時に殺気の刃を師へと放つ。狙うは唐竹、そして左右の肩。まるで同時に三箇所を斬るかと見紛うほどの早さで狙いを動かし、何度も何度も何度もそこ以外に狙う所なし!と印象付けるように強烈な殺気を放つ。
師、弘典は応えるように剣先を動かしたその時、不意に幸嵩の姿が弘典の前から掻き消えた。否、消えたわけではない。幸嵩自らが折り敷き、身を低くすることで彼の視界から己の身を消しただけ。
そして幸嵩の刀の切っ先は師の胃の腑を破らんと突出された。
しかし、弟子の思惑は師には通じなかった。
それは、もしかしたら打ち合わせてあったのではないかと思えるほど、仕合が始まった一番最初の光景の焼き直しであった。
突き出された刃をまるで壁がクルリと廻るどんでん返しの如く捌くと、弘典は幸嵩の背後を取っていた。
首の後ろ頚椎に痛みが走る。自身の体が発する警告に、すぐさま幸嵩はそのまま膝を入れ替えてその場で体を入れ変えようとして―――殺気の雨をその五体に浴びせられた。
頭蓋を割り、眼窩を穿ち、咽喉を突いて首を薙ぐ。指を落として手首を切り、袈裟に下ろして逆袈裟に斬る。五臓を打ち、水月に突き入れ、胴を払う。膝を崩し、腱を断ち、足甲を刺す。
それら全てがほぼ同時に降り注いだ。千の刃の前に抗い打つ手など彼は持ち合わせていなかった。
瞬き程の後、右の首筋に、ひたりと刃が当てられ幸嵩は自分の未熟さを認めざるを得なかった。
「ッ――― ま、まいりました」
その言葉に観客達は息を呑み、次いでどよめきが大きくした。
そして演武の最後の最後に時代劇で見るようなド派手な殺陣を見ることが出来た観客は大いに賑わい、賞賛の拍手が盛大に上げた。
◇
宴も酣、皆が皆、酒精の虜となり飲めや謡えやと勝手気まま思い思いにはしゃいでいる。
そんな中、なんとも気不味そうにコップに入った酒に視線を落とす青年と、赤ら顔でグビグビと盃を呷る老年の男性、そして摘みをパクつく壮年の男性。真刀流の師弟トリオである。
未だコップを見つめ続ける青年、橘 幸嵩が呟いた。
「しかし、良いのでしょうか、本当に」
「あー、まだ言うか貴様」
「だって……俺、あの時、あの【三葉】は自分でも上手くできたと思ってたんですが、ああも簡単に……」
「はんっ、お師匠様の凄さを思い知ったか!」
幸嵩の吐いた言葉に半目ジトリとねめつける師、木山 弘典。彼はどうにもこの煮え切らないと言うのか、自身に自信がないと言うのか、己を過小評価する弟子の気質が気に入らなかった。
腕はある。才気も十年に一人、百年に一人とは言えずともそれなりにある。だが、如何せん。彼にはこの年若い弟子に意気地が無いように思えて仕方がなかった。
「はい、本当凄かった。……俺は、まだまだです」
「当たり前だ。だがな、それでいい。
己の未熟を覚るならこれからも精進を重ねろ、精進を。」
「……はい―――」
そうして自分の未熟さを痛感して小さな溜息を吐いた幸嵩には一つ気になることがあった。それは演武の際に師が最後に見せた技のことだった。自分の認識に間違いがなければ……と、彼は少しの逡巡の後、その真偽を確かめるべく口を開いた。
「先生……」
ん?とツマミの枝豆の鞘の中から豆を押し出しては口に放り込見続ける弘典が顔を向ける。
「最後のあれですけど……その……【蓮華王】ですよね?」
「うむ、そうだ。見たな?」
「―――はい」
「よし。……確かに伝えたぞ。使えるようになれ、そのために見せたんだからな」
「は、はい!―――あ、ありがとうございます」
自分が向けた問にあっさりと答えが返ってきたことにも驚いたが、幸嵩は師が自分に掛ける期待を言外に感じ取って心を小さく震わせた。しかしそれと同時に自分の愚鈍さを知るが故にせっかくの期待に応えることができるだろうかと自問してしまう。そして、その弱気は口から漏れ出ることになる。
「しかし、できるんでしょうか自分に……」
「ぐっ――はぁ、お前はぁ……
何言っとる。できるまで修行。じゃなきゃ免許はやらん。そんな心持ちじゃあ【新葉】に辿り着けんぞ」
「……まぁ、それはそうだけど、この場合そうじゃないだろう。今までどおりの修行で間に合うかどうか心配なんだろうさ」
呆れと憤りが混じった声音で突き放すように言う弘典に、その息子であり【朽木派真刀流】の師範でもある基典は、有望な弟子を導くという役目を果たすべく一言、口を添えることにした。
すると、酒盃を煽っていた弘典は、コトリと盃を卓に置き、腕を組んで頭を捻り始めた。
「と言われてもなぁ……う~ん」
そんな様子を幸嵩はじっとみつめ、基典はもう大役を果たしたと我関せずを決め込み、目の前の皿に盛られた稲荷寿司に箸を伸ばしだしていた。
「……お前にはそれなりに才もある。努力も……まぁ惜しまんほうだ。
そう、だなぁ……後は実践、経験を重ねろと言ったところか?」
うんぬんと唸っていた弘典は、とつとつと途切れ途切れに言葉を探すように幸嵩に言う。そして再び思案をし、やがて絞り出すような顔をして言葉を続けた。
「重ねろと言ったが、結局は稽古しかない。一番良いって言うなら、切り結ぶ刃の下でしか見えない物もある、と昔から言われとるからな。命を賭けた試合なら得る物も大きいんじぁねぇかとは思うが」
「また、そんな無茶を言って。今の世の中で出来るわけ無いだろうに」
父親の出してきたお言葉に師範は少々呆れ顔でそう返す。それに対して父であり、師である弘典はバツが悪そうな表情をして「んなこたぁ、お前に言われんでも分かっとる」と憤慨していたが、ふと何か妙案を閃いたように顔を綻ばせた。
「おお、そうだ! あれあれ、あれだ、あれ。」
要領を得ない宗家の言葉に、基典も幸嵩も頭の上に疑問符《?マーク》を浮かべて首をひねった。話す当人も自身が何を言っているのか伝わらないことを分かっているようで、必死に言葉を探そうと百面相を開始している。
「べ、び、びび、ぶ、ぶぶ、ぶぃ……V…RG!ヴぁーちゃるゲぇム!
確かあれだ、時代劇っぽいゲームがあるだろう?CM見たぞ。」
やがて、弘典の脳味噌は艱難辛苦の果てに閃きを得たらしく、その深奥にある聞き齧っただけの拙い知識の残滓を披露し始めた。
「アレだろう?
ゲームの中に行って色々体験できるって奴。あれは元々寝たきり老人やら病人やらの筋肉を鍛えるためだとか何とかってやってたぞ。
アレで斬り合いを体験したら、何か見えるものがあるかも知れん」
うんうんと頷き、どうだと言わんばかりのしたり顔をする父親と師に、一人はその瞳に落胆の色を見せ、一人はさて困ったぞとばかりに困惑する。
「VRGって【和風なファンタジーで御座る】のことですか? あれならやってますけれど……」
「名前までは知らんよ、たぶんそれだろう。で、どうなんだ?」
「どうなんだ、と言われましても……」
語尾を濁し、暗に期待したものではないという旨を伝えようとした幸嵩だったのだが、師のあからさまに期待した視線に返答に窮してしまう。幸嵩はどうしようかと思案に暮れていたが、その思考がまとまるよりも早く口を挟んできたのは師範の方だった。
「あんなぁ親父。幾らヴァーチャルリアリティ、仮想現実って言っても、所詮ゲームはゲーム。
んな都合良く行くわけないだろう。病院にあるようなリハビリ用の医療機器とは違うんだぞ」
「そうなのか?」
「ええ、まぁ。病院のとかとは違いますから。残念ですけど、家庭にあるようなゲーム機じゃあ、結局夢を見ているようなものですから、肉体にはこれと言った変化は無いですよ」
元来そういったことに詳しくない師が必死に考えてくれた末の主張に対して否定の言葉を言うのが憚られた幸嵩は、なるべく師を傷つけないように当たり障りの無い言葉を選んぶように心がけた。
そのおかげか弘典はポリポリと頬を掻いて特段気にした素振りも見せずに言葉をつなぐ。
「良い考えだと思ったんだがなぁ、そう上手くは事が運ばんか」
「ったく、んなことができるんだったら皆やるさ」
「ハハハ
でも確かに、あんなゲームみたい世界での斬り合いが練習になるんだったら得と言うか、楽しいでしょうね。」
息子の呆れ顔に不満気に鼻を鳴らした師に対して、フォローとばかりか幸嵩はそんな事を言い、そして言った自分の言葉に想像を膨らませていった。自身が【和風なファンタジーで御座る】の世界で生きている様を。
時代劇に出てくる時代劇に出てくる出で立ちをした住人に、やはり江戸時代風の街並み。そこには人間だけでなく鬼や烏天狗、猫又に人狼、狐狸の類などまさにファンタジーな種族が入り交じる。
帝がいて、公家が居る。武家には、将軍がいて、御家人がいて、浪人がいる。農民にだって豪農や小作人、漁師に猟師だっているだろう。職人なら刀鍛冶や鎧鍛冶、宮大工に船大工、かんざし職人や絡繰職人だってきっといる。
陰陽師が妖魅を駆逐し、密法僧が化生を調伏し、神職が魍魎を清め祓う。侍の白刃が閃き、忍者の苦無が闇に舞う。鎧武者が剣戟を鳴らし、甲冑を纏った絡繰人形が槍を振るう。
御所に公家屋敷、お城に、武家屋敷に農民の掘っ立て小屋、そして町人長屋。
商人の構える店はそのバリエーションに富んでいる。お店は勿論、行商人が街を練り歩いている。舶来モノを扱うお店や、米問屋、廻船問屋、材木問屋、呉服屋、茶屋、甘味処、野菜や魚の行商、その他書き切れない程の種類がある。
馬に乗って足を伸ばせば、日本の気候風土そのものの景色が広がる。春は曙、淡く白む光の中を桜の花弁が舞い落ちる。夏は夜、月明かりに誘われてホタルが飛び交う。秋は夕暮れ、夕日に照らされた山々の紅葉がより鮮やかさを増す。冬は早朝、薄闇の中真白な雪が深々と降り落ちる。
―――そんな時代劇で和風なファンタジーの世界。
幸嵩は、そんな自分の趣味に合った世界で思う存分剣を振るうことができたならどれほど楽しいことだろうか、とそう思った。
「行けたらいいな」
思わず思いが呟きとなって口を衝いて出た。その言葉が耳に届いたことにより正気を取り戻した幸嵩は、直ぐに、埒もないこと、子供じみた妄想を漏らしてしまったことに恥ずかしくり誰かに聞かれたか、と廻を見回した。
しかし、聞かれる可能性が最も高い師と兄弟子は、未だ言い争いの最中で幸嵩の言葉が耳に届いた様子はなかった。そのことに安堵すると共に、自分の幼稚さを独り心の中で哂う。
コップの酒をクピリと呷った。ふわりと仄かに甘い香りが鼻腔を抜けて行くのと同時に酒精が喉をヒリリと焼いていった。
その刹那―――
それは聞こえた。
-良かろう。その願い、叶えて進ぜよう-
その不意に耳元で聞こえた低い男性の声に驚き、顔を上げた幸嵩は、一体何だ?と声の主を探しすため周囲を見回す。
しかし、その甲斐は無く、御目当ての人物はおろか不審気な動きを見せる者すら見つけられることが無かった。
「なんだったら、江戸時代にタイムスリップぅ、とかでも良いじゃないか。
なぁ、幸嵩もそう――? どうした?」
幸嵩のキョロキョロと周囲を見回す不審を見つけた基典が「酔いでも回ったか?」と訊けども、幸嵩はその気遣いを一端脇に置いて自身が聞いた幻聴に首を捻る。しかし、考えても何が分かるわけでもなかったので、彼は気のせいだと結論付け兄弟子の問いに首を横に振って答えた。
「あ、いえ。何でも。」
「そぉか?飲み過ぎるなよ」
「何言っとるか、飲め飲め。宴居るなら飲まにゃ損。酒飲む阿呆に飲まぬ阿呆。同じ阿呆なら飲まにゃ損、損!てなもんだ」
ダッハッハッと赤ら顔でビール瓶を掲げた師に、酌をして貰えるなんて勿体ないとばかりに幸嵩は急いでコップの酒を飲み干して、ペコリと頭を下げて差し出した。注がれたビールは波々として、幸嵩はお約束宜しく、おっとっと、と口をつけた。それを見て満足気に笑う弘典は、もっともっとと矢継ぎ早に酌を薦め、それに見かねた基典が口を挟めば、なんやかんやと親子喧嘩が勃発した。
いつものことと苦笑いを浮かべ、さて、どう仲裁したものか、と思案する幸嵩には、酒の力もあってか、先程の誰ともつかない声のことなどあっという間に忘却の彼方へと押しやられてしまっていたのだった。
用語設定
【御矛神社】(みほこじんじゃ)
国産み神話に登場する天之御矛を神格化した天之御矛神を祀った日之本のいずこかにある神社の一つ。
祭神は、国産みの伝承から安産、物作りの神であり、元が矛であることから武の神でもある。
別の社には、刀匠が打った剣が奉納されていたりする。
【朽木派真刀流】(くつきはしんとうりゅう)
戦国期に端を発する剣術流派、真刀流剣法の一派。
江戸期中期に真刀流剣法三代目、滝川団之進経宗の弟子、朽木惣左衛門典正に連なる一派。
流派名は真刀流剣法だが、他流との区別のため朽木派をつける。
【和風なファンタジーで御座る】
西暦20XX年10月1日に御岳川工業から発売されたシングルプレイ専用ヴァーチャル・リアリティ・ロールプレイングゲーム。
当時の宣伝文句は『見参!幻想時代劇』