第捌話
海人はしっかりと覚えていた。あの日、教官室での最後の一瞬を。伊賀先生との勝負を決意し、立ち去ろうとしたその刹那、伊賀先生が最後にニヤリと口角をあげたそれを見逃さなかった。
1ヶ月も前から始めた日本史はもう既に頭にインプットされている。それどころか、他の教科の勉強までそこそこに進めていた。テストまで残り2週間弱、かつて無いほどまでの対策をしたが、なんだか喉に何かがつっかかっているような気持ち悪さが残っている。
(あの笑み、伊賀は何を企んでいる……?)
日本史はいわば暗記教科。記述問題が少しは入ったとしてもそこまで難しくすることは出来ない。学校のテストだから、授業で全く教えてもいない超マニアックな問題は出せないのだ。
そこに海人は引っかかった。
「ん?待てよ。難しい問題を作るにはマニアックなものを出さなければならない。だけど授業で触れてもいないものは当然出せない。となると、このテストの対策は酷く簡単なんじゃ……?」
日本史教員・伊賀和雅、生粋の『韮山オタク』。韮山という地をこよなく愛している。彼の授業は一見、至って普通の授業。−−ある分野を除いて。
そう少しでも韮山が関わったり、韮山にまつわる人物が登場すると、雰囲気がガラッと変わってしまう(ある武将や人物が少しでも通っただけでそれを出汁に熱弁し始める)。誰も興味のないようなことを一人熱く語っているのだ。このモードに入ってしまったら誰にも止められない。だから皆このモードに入ったら、机に臥して眠りに入る。
これなら授業で触れているので「出題範囲」には入っている。しかもかなりマニアック。もはや誰一人として聞いてはいないので確かに激ムズである。
奴の狙いは『韮山トーク』、これしかない!
普通出るであろうところはもう何度も見直し、満点を狙えるであろう知識は既に頭に入っている。
残りすべきことは最早明確だった。
残りの2週間、授業中のつまらない『韮山トーク』を熱意のある眼差しをもって聞き、残りの知識はネットを活用して満身創痍テストに臨んだ。
不思議と変な緊張感はなかった。
幸運なことに、日本史はテスト初日の一限目。一番最初に今回のテストにおける最重要科目が終わる。願ってもない条件である。
ちなみに本日の科目は日本史、数学の2科目。時間は60分。
「よーし、じゃあ席に着け−。テスト始めるぞー」
テストの監督者は見たことはあるものの、名前は知らない先生。手際良く問題用紙、解答用紙を配る。しかしそれにしても問題用紙が小さい。A4の半分の大きさで、片面印刷。誰もが不審に思っているに違いない。そう海人は思った。
そして同時に確信した。
---始め!!
一斉にに問題用紙をめくる乾いた音が室内に響き渡る。海人も問題用紙を表にした。
〈第一学期日本史期末試験〉
問い:静岡県の伊豆半島に位置するある町、韮山は歴史的にも非常に興味深い町である。韮山の歴史の変遷と、日本の歴史の背景にある韮山について時代を追って書け。なお、解答用紙は裏面も使用してよい。
「(キタ――――――――!!)」
海人の予想は見事的中。思わずにやけてしまう。
解答用紙には名前の記入欄しかない。あとはまっさら。海人はその真っ白な解答用紙の表裏両面にこれでもかというくらい
びっしりと文字を埋め尽くしてやった。テスト開始30分が経過し、伊賀が教室に入ってきた。
「質問はないな?」
伊賀は皆の様子を見て、ものすごくにやけている。
ここまでくると、もう数人は机に臥して寝ている。あと他は伊賀を睨んでいる。
ふと伊賀と目があった。そして酷く驚いていた。そこまで表情には出ていなかったものの、海人にはそう分かった。
そしてもう一度口元をゆるませた。
この教室内にもう1人にやけていた奴がいたことを海人と伊賀以外誰も知る由もなかった。
もらった!!
彼はそう確信した。