第弐拾玖話
理奈はベッドから立ち上がり、自分の勉強机に向かった。通常ならばまだ学校の授業も始まってない時間だったが、自分で決めたタイムリミットまでは残り4日しかない。今までは海人も一緒に調べて、しかも今まで解明してきたこともほとんど海人の手柄であったと今更ながら気付き、理奈は少しばかり不安を覚えた。
海人は自分よりも頭は良くない。それは理奈にも分かる。しかし、実際社会で活躍するのは海人のような人なのだろう、とふと思った。行動力があり、周りがよく見えている。だからいろいろなことに気が付くし、困っている人も助けることができるのだろう。
そこでいつの間にか自分が海人のことばかり考えていることに気付き、慌てて頭をブンブンと振った。誰かが見てる訳でもないのに急に恥ずかしくなり、顔が赤く染まるのが分かった。
「は、早く始めないとね…」
そう言って、今まで分かったことをまとめた資料に目をやった。
「華代さんが江川家の女性だけを呪う、恨んでる理由よね…。問題は女性だけってとこなんだよね。わたしが握ってる可能性はあと『ひとつ』だけ。これが空振りだったら本当にもう手も足も出ないのよね。でも今はこの残りのひとつにすべてを賭けるしかない、か」
理奈の言っている残りひとつの可能性とは、昨晩の由紀乃とのやり取りで得られたものである。
『……江川さんが思ったように、和歌って言うのはその解説にあることだけが全てじゃないと思うの。一意的な意味じゃなくてもっといろんな意味が暗喩されてたり。掛詞はその単語に二つ三つ意味があるように、和歌にも文全体で別の解釈が出来るっていうのはよくあるんだよ』
由紀乃は昨晩確かにこう言っていた。だからといって、全ての和歌にそれが当てはまるというわけではない。そんな根拠もへったくれもないものが最後の残された可能性なのである。その言葉を信じ、理奈は華代が遺した和歌をもう一度眺めた。
それから逃げるように時間だけが無情にも過ぎていき、たいした進展もないまま3日が過ぎた。7月31日―――7月最後の日となった。
「あと1日、か」
迫り来る期限に焦りを覚える。何故理奈は7月中の解決を望むのか。それは翌日8月1日から3日までが、この地域では“お盆”にあたるからである。先祖や亡くなった人を祀る慣習であるその日こそ、“江川華代”から許しを請うにふさわしい日と考えていたのだ。しかしそれも残すところあと1日となってしまった。
この夏が過ぎてしまったら、いくらある程度自由が許されているとはいえ、これ以上は勉強の妨げになるようなことは許されない。よってこれがラストチャンス。これを逃したら、半年はこの問題に手を付けられない。嫌なことは重なるもので、江川家の存続のためには一人娘の理奈には二十歳くらいまでの結婚、そして早期の出産が望まれる。理奈ももう18歳。受験が終わり次第、お見合いなどを無理やりさせられるのだろう。それを考えてしまうと絶望的で、もうどうしようもないのかと思ってしまう。今までは恋などどうでもいいだとか、結婚なんて……と考えていた。でも今は……
そのとき、不意に理奈の目から頬をつたうように一筋の涙が零れ落ちた。なぜか胸の痛みが止まらない。経験したこともない痛み。もう未来が決まっている、それを変えることのできない自分の無力感と悲しみなのかもしれない。次々とこぼれだす涙。抑えたくても抑えきれない涙。それが理奈の机を濡らしていった。そして周りに誰もいないその部屋で、嗚咽を交えながらつぶやいた。
「…いや、だよ。こんなの、いやだよ。…やっと、私のことすごくよく考えてくれる友達ができて、やっと生きがいを感じるようになって。それなのに…」
溢れ出す涙は止まることを知らない。右手はティッシュの箱をつかんでいた。
「……全部大場くんと出会ってから。誰かと話をしてこんなに楽しいと思ったのも、こんなに夢中になったのも、生きてることにこんなに満足できたのも。大場くんがいなかったら…。なんでこんな気持ちになるの?どうして?」
「…大場くんが、大場くんのことが…好き。私の全部を変えてくれた大場くんが。でも…」
ようやく涙もおさまりかけている。その感情的なさなか、理奈は冷静にも理解していた。自分は海人に恋をしていて、でもそれは相手にとっては迷惑だということを。この呪いが解けずに、自分と海人が仮に恋人同士になったとして、そうしたら家族や親族はこぞって早期の結婚、出産を告げるはずである。その後はすぐに自分は死んで悲しい、さびしい思いをさせるのだ。現に自分も母を早くに亡くし、同じことを思っているから。
自分は海人に恋をして、でもそれはかなえてはならないという葛藤にさいなまれ、再び理奈の目から一粒の雫が落ちようとしたその時、理奈の思考回路に走馬灯のように、今までのヒントが駆け巡った。
『特に江川家は、古くから恋愛結婚をしていたらしいからねぇ。一種の伝統みたいなものなのよ』
『……江川さんが思ったように、和歌って言うのはその解説にあることだけが全てじゃないと思うの。一意的な意味じゃなくてもっといろんな意味が暗喩されてたり。掛詞はその単語に二つ三つ意味があるように、和歌にも文全体で別の解釈が出来るっていうのはよくあるんだよ』
昔からあった恋愛、和歌の裏の意味、江川華代の江川家の女性に対する恨み・呪い。
その一瞬ですべてのピースがはまった。
「わかった…かも」
涙もさっと引き、メモしてあった紙に次々に書き込んでゆく。先ほどの感情的で、弱気な彼女の姿はどこにも見当たらない。きっと今鏡を見たら、目は赤く腫れて、とても人前には出られないだろう。しかしそんなことなどどうでもよかった。
書き終わり、確信のいった理奈はペンを置くなり、すぐに数日間用無しとなっていた携帯電話を掴んだ。
すべてが終わったら、言おう。




