第弐拾弐話
夏休み、とはいえ、もちろん学校は自習室という名目のもとで、土・日曜日を除き教室を開放している。午前中は終業式だったこともあり、午後も多くの3年生が学校に残った。そんな中で、いつものように2人は書庫へと赴き、早めに切り上げて帰った。
由紀乃を訪れて、教師顔負けの和歌の解説を受けた。そう、そこまでは良かったのだ。書庫へ戻り、他愛のない話から始まったが、だんだんと口数は少なくなっていった。まともにお互いの顔を見ようともせず、やがて会話は皆無となった。このままではもちろん調査など続けられるはずもなく、どちらからともなく、その日の調査の終わりを告げた。そして現在に至るのである。
「はぁ。どうしちまったんだろ、俺」
夏本番、夕方とはいえ空は明るく、黄昏と言うにはまだほど遠い。蝉の声がむなしく聞こえる中、独り海人は帰路についていた。由紀乃のおかげで、かなりの進歩があった。その時は、かなり喜んだ。だというのに、海人の心は晴れない。曇天である。
書庫での気まずい雰囲気。それは、ただでさえ薄暗い書庫をいっそう暗く、重くしていた。別にどちらかが悪いことをした訳ではない。ただ2人でいることにだんだんと苦しくなり、解散となったのだ。
「完全に江川に意識しちゃってるよな…」
今まで女子を手助けした時だってこんな気持ちにはならなかったのに。そんな思いが、ぐるぐるとさまようように海人の思考回路を占領していた。
海人は、今まで女子と付き合ったことがない。というよりも恋愛をしたことがない。だから、自分の風貌に特に気を遣うこともなかった。髪も長くして、前髪も、例えるならばゲゲゲの鬼太郎のようにたらして周りからは表情などが見えづらくなっていた。そんな様子から周りには、根暗といったイメージを与えている。彼のお人好しな行為も結局は、彼の評価は「いい人」止まりにするにとどまっていた。しかし、海人はそれでよかった。自分のした行為で、少しでも皆のためになるのなら、と。
しかし、今回だけは違ってしまった。誰に対しても変わらずに、平等に差しのべてきた両手に、いつの間にか雑念が混ざり込んでしまった。初めこそ、それは単なる一行為に過ぎなかった。しかし、今は分かってしまう。自分の気持ちに。
今まで感じたことのない葛藤を募らせ、自宅に入った。
自分の部屋に入り、ベッドへと仰向けに倒れ込む。その柔らかい感触が優しく海人を包み込んだ。
「はぁぁ」
大きくため息をつき、目をつむった。その行為は海人を落ち着かせた。ゆっくりと今日あった出来事を思い返す。ちょうどそのときドアの方から大きな音が聞こえた。
「お兄ちゃーん。…あれ寝てたかな?」
兄の海人の都合など全く考えず、ノックもせずに部屋へと入ってきた妹に少しの疑念を覚え、上半身を上げた。
「由香。部屋に入ってくる時はノックをしろっていつも言ってるだろ」
「ごめんごめん、すっかり忘れてた」
えへへ、などと言って苦笑いする歳の離れた妹を見たら、許す他ないだろう。海人はいつもそう思ってしまうのだ。
「で、何か用なのか?」
海人はいつもの調子で尋ねた。どうせ、妹の方もいつもの調子なら特に用などないのだが。
「いや、特にないよ。ただ、最近のお兄ちゃんなんか忙しいなって思って」
「そうだ。お兄ちゃんは最近忙しいんだよ。分かってるならほら、さっさと出てった」
「……なんかお兄ちゃん隠してるでしょ?」
「いや、何も隠してることなんかないから。それにあったこと逐一報告ってお前は俺の親かっ」
「分かった!彼女にふられたんだ。なんか暗い顔してるし」
「んな訳あるかっ!だいたい彼女なんかいねぇって前にも言ったろ。どんな勘違いだ」
「じゃあ、好きな子が出来たんだ」
不意に核心を突かれ、海人は不覚にも慌てた表情を見せてしまった。
「…へぇ〜。図星なんだ」
「ち、違えよバカ!!そんなんじゃ…」
「嘘つくんだ?じゃあお母さんに、お兄ちゃんに彼女が出来たって言っちゃおっかな?」
「おいっ、それだけはやめてくれ。あの母さんのことだと、1日で区内に知れ回っちまう」
「じゃあ教えてよ。好きな子いるの?」
もうここまできたら、答える他なかった。恐るべし、妹。
「…ああわりいかよ」
「どんな子?どんな子なの?」
「ったく。…まあいい奴だよ背が高くて、髪も長くて。だっ、誰にも言うなよ?」
「当たり前じゃん。私を誰だと思ってるの!?で、その子に告ったの?」
「んなことできるかっ」
「お兄ちゃんの意気地なし。男だったらそのくらい…」
「まだ…そういうのじゃねぇんだよ。もう気が済んだら出てけよ」
海人が暗い顔を見せて弱々しくそう言うと、由香も何か悟ったらしく、その場を離れた。
そう、そういうのじゃねぇんだよ。そう繰り返すともう一度仰向けに寝そべった。天井にあるのは白くまぶしい蛍光灯だけ。天井だけでなく、壁にも何も貼られていない殺風景な部屋。
(今日のことは全部忘れてまた明日からはいつも通り接しよう。この気持ちには蓋をしないといけないんだ。)
(でももしこの件が終わって、江川が救われたのだとしたらその時には……)
目をつむると、目の前にはどこかで見たことのある夜空が映し出されていた。




