崖はない
「あの崖は90度あった!」と言い張る翔子と、冷たくツッコミを入れる僕。大げさな思い出話が、少し気まずかった僕と霙ちゃんの距離を縮めていくショートショート。
『傾斜の急な崖があってさあ。遊歩道を歩いてどんどん山を登っていったのよ。汗掻きながらその先を目指している時にね。見つけたの。遊歩道の終点にある見たこともない崖をね。我ながら凄い体力だったわ』
翔子が興奮気味に唾を飛ばした。彼女にそれ程の体力があるとも思えなかったけれど、僕はふうん、と頷いてみせた。
「んで、それをみんなで駆け下りたのよ。佐藤君なんて一度も立ち止まらずに跳ぶように一番乗りで降りたんだから。あ、あたしは2位ね……」
いつまでも自慢げである。
「そうなんだ。でも……、そんな崖、あったかなあ。あったらもっと有名になると思うよ。聞いたこともないもの」
「確かにー」
霙ちゃんが珍しく僕に同意した。霙ちゃんはいつでも僕と距離を置こうとするのだ。彼女自身、半信半疑のようだっだ。
「え?」
「だって、本当だもん! 遊歩道の終点の、あの急な坂みたいな崖をさ……」
「あ、やっぱり崖じゃなくて坂なんだ」
僕が即座につっこむと、翔子は「あ……」と声を詰まらせて、気まずそうに視線を泳がせた。霙ちゃんも小さく肩を揺らして吹き出している。
「ち、違うの! 角度的にはほぼ崖だったの! 90度くらいあったんだから!」
「90度だったら壁でしょ。跳ぶように降りたんじゃなくて、ただ落ちただけじゃないの?」
「うぐっ……でも、みんなで勢いよく走ったのは本当なんだから! 佐藤君なんて『うおおお!』って叫びながら超速かったんだから!」
「それは単に急坂でスピードが出すぎて止まれなくなっただけじゃない?」
僕の冷ややかな分析に、翔子は「もう、意地悪!」と顔を真っ赤にして口を尖らせた。それまで僕と微妙な距離を置いていた霙ちゃんも、すっかり緊張がほぐれた様子で「翔子ちゃん、それはさすがに盛ってるよ」と優しく追い打ちをかける。
「もういい! 今度みんなで登りに行くからね! そしたら絶対、あそこが崖だって認めてもらうんだから!」
ぷんぷんと怒りながらお弁当の卵焼きを口に放り込む翔子を見て、僕と霙ちゃんは顔を見合わせて笑った。誇張癖のある彼女のおかげで、いつの間にか僕と霙ちゃんの間にあった妙な壁も、綺麗に消え去っていた。
ーモラスな会話を通じて、主人公と霙の距離が自然と縮まる温かい情景を描きました。翔子のコミカルなキャラクターと勢いのある誇張表現が、絶妙なアクセントになっています。




