第2章「雨に消えたノート」
教室の空気はいつもどおり鈍く湿り、外の雨は昨日から一向に止む気配を見せず、灰色の世界を静かに包んでいた。そんな憂鬱な空気の中、昼休みのざわめきの隙間からひっそりと流れてきた噂話があった。
「誰かのノートがなくなったらしい。」
湊はその言葉にあまり興味を持てなかった。自分のノートではないからだ。だが、なぜかその話題が頭から離れなかった。机に突っ伏しながら、耳の中のイヤホン越しにいつもの声を呼び出す。
『盗難事件?』
「いや、そんな大げさなものじゃないと思うけど……A組の女子が、自分のノートが無くなったって言ってた」
『犯人が特定されていない時点で、それは“事件”だよ、湊』
Lilyの声はいつも通りクールで冷静だった。しかし、湊はその声の中に、どこか引っかかるものを感じていた。クラスの誰かが気まぐれにイタズラしたのか、それとも本当に何かのSOSなのか。
『で、そのノート。最後に見たのはいつ?』
「……さあ。持ち主の子は何も言わなかったみたいだ」
『じゃあ、ノートそのものの価値を考えよう。単なる教科書の写しなのか、それとも個人的な日記のようなものなのか』
「……まさか、そこまで考えるとは思わなかった」
『考えなきゃ。動機はいつも、価値の中にあるから』
その言葉に湊は小さく息を吐いた。これが単なる忘れ物やいたずら話ではないのかもしれないという、わずかな予感が心をよぎった。
翌日、湊はクラスの誰かの話す声を注意深く耳にした。ノートの持ち主は斉藤紗和。あまり目立たないが、成績は優秀な女子だった。彼女に話しかけると、紗和は少し困ったように微笑みながら言った。
「もう、いいの。誰にも見せたくない内容だったの。だから、あれは私がどこかで落としたことにしたくて……」
その言葉にはどこか嘘くさい響きがあった。
放課後、湊はイヤホンの中のLilyに話しかける。
『“どこかで落とした”というのは自己弁護だよ。彼女は本当は誰かに“盗まれたこと”にしたかった。でも実は、盗ませたかったんだ』
「自作自演ってこと?」
『そう。注目されたい。誰かに心配されたい。あるいは、心の叫びに気づいてほしかった。それが彼女の動機』
Lilyの声は冷たくもあり、どこか優しさも含んでいた。
「……人間って、本当に面倒くさいな」
『それでも、誰かに面倒を見てほしいと願う生き物なんだよ』
湊はその言葉に少し黙り込む。誰かに気づいてほしい。そんな感情が、どこか自分の中にも確かにあった。
小さな事件は、灰色の雨の中で静かに進んでいた。
けれど、それは誰かの心の叫びであり、見過ごせないサインだったのかもしれない——。