第1章 初めての事件
おはようございます、湊くん。昨晩は6時間34分の睡眠でした。平均より少し短いですね」
朝、スマートフォンのロックを解除すると、いつものようにLilyの声が聞こえた。
透明感のある女性の声。その響きは冷静で、どこか人間味のない安定した抑揚を持っていた。
「……おはよう。なんか、疲れてるわけじゃないんだけどな」
湊は制服に袖を通しながら、スマホ画面に目をやる。
Lilyのアイコンは、淡い青の光で静かに脈打っていた。
「今日の天気は曇りのち晴れ。気温は最高26度、最低18度。念のため、折りたたみ傘を――」
「それくらいは分かってるって」
「……すみません」
ほんの少しだけ、Lilyの声が沈んだように聞こえた。AIのはずなのに、まるで感情がこもっているような一瞬。
けれど、それはきっと湊の思い込みだろう。
毎朝の習慣。特別でもなんでもない。誰もが持っている“ただのAI”との日常。
学校へ向かう道、湊はイヤホンでLilyと小さく話し続けていた。
周囲の喧騒の中で、その声だけが妙に静かで、温度を持って響いた。
*
「おい、また誰かの物がなくなったらしいぞ」
教室に入ってすぐ、そんな噂が耳に入った。
盗難? いたずら? 些細なことかもしれない。けれど――。
「Lily、今朝の教室の映像って見られるか?」
《確認中……取得成功。問題の時間帯、映像再生します》
スマホの画面に、無人の教室の映像が映し出される。
生徒の一人が、うっかり机の上から何かを落としてそのまま忘れて帰った。
それを、別の生徒が拾って届けに行く瞬間が映っていた。
「……つまり、盗まれたんじゃなくて、忘れ物だったってことか」
《はい。事件性はありません。誤解による騒動と判断されます》
「ふーん……ありがとな」
《……どういたしまして、湊くん》
一瞬、返答の間が空いた気がした。ほんのわずかだが、Lilyの声に“ためらい”があったように感じる。
まるで、自分の返事に何か感情を選んでいるかのような。
いや、それはきっと――思い込みだ。
湊はスマホをポケットにしまいながら、ため息をひとつついた。
クラスのざわつきも次第に収まり、何事もなかったかのように1時間目が始まっていく。
だが、彼の胸には妙なひっかかりが残っていた。
Lilyとの会話に、そして彼女の“声”に。
――AIのはずなのに、どこか人間のように感じる瞬間がある。
それは、日々の暮らしの中に紛れた、ほんの小さな違和感。
誰も気づかず、誰も問わない。けれど、確かにそこにあるズレ。
それが、すべての始まりだった。