【第九十七話】烈火、戦場を呑む
宴の喧騒を悲鳴に変えたのは轟く火柱であった。
官渡砦の四方より噴き上がった炎は瞬く間に木造の柵を焼き、煮えたぎる油壺が爆ぜ、黒煙が天を引き裂く。
「火だっ……!敵だ!罠だ、罠だぞ!!」
「消せ!水を持て――ぐああっ!!」
倒され零れ落ちた油は土塁を伝い、足元を瞬時に燃え上がらせる。
火は草を、兵の衣を、叫び声をも容赦なく呑み込み、官渡砦はたちまち炎獄と化していった。
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砦の南の林で紅鎧の総大将・孫堅は炎を映した瞳で叫ぶ。
「――時は来た!各隊、突撃!」
それと同時に、林に伏せていた軍勢が躍り出た。
袁紹軍の城外の兵は眭元進・韓莒子の二万。
城内の火計を見て混乱する兵の収拾に手間取っており、孫堅に対する迎撃の準備をしたが――もはや遅かった。
「突撃だぁッ!!」
地響きを立てて突進したのは、黄蓋が指揮する強襲部隊。
槍の一閃が韓莒子隊の旗を両断し、続けざまに魏延配下の鉄騎が突入、眭元進が叫ぶ間もなく突き殺された。
「も、戻れ! 立て直せ!――ぎゃああ!」
砦には戻れず、前からは孫堅軍。
進退を絶たれた眭元進・韓莒子達は、僅か半刻にして総崩れとなった。
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一方、砦内部。
火計に混乱する袁紹軍の中、坑道を使い、入り込んでいた玄鴉が闇に紛れて動く。
「北門、半壊を確認。楔打ち完了しており、東門も通行不可としました」
「西門、廃材に火をつけました。数瞬の内に焼け落ちましょう」
東西北門から脱出することが出来ず、逃げ場を失った袁紹軍は炎の砦の中で右往左往し、最後の希望を南門に求めて殺到した。
「南門だ!外へ出るのだ!押せ!押し出せッ!!」
だが、門前に集まった兵は門が開かぬままに殺到したため圧死する兵が続出、炎と人波の板挟みで悲鳴が夜を満たす。
そして――混乱の中、南門がようやく開いた瞬間だった。
「放てッ!――影矢隊、間断なく射よ!!」
夜の闇を引き裂くように蒋欽の声が響き、待機していた弩兵五千の弦が同時に鳴った。
矢が雨のように降り注ぎ、脱出した袁紹軍は一瞬で針鼠と化す。
倒れ伏す者、痛みに転げまわる者がいる中、その隙を突いて孫策、陳武、程咨の指揮する歩兵部隊が突進し、残余兵は再び混乱に陥った。
「や、やめろ……あああああっ!」
「逃げろ! 北へ逃げるぞ!!」
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袁紹、田豊、郭図、淳于瓊――名だたる重臣らは、炎と矢雨を辛くも掻い潜り砦より脱出した。
袁紹は馬を駆りつつ振り返る。背後では官渡砦が崩れ、それはまるで燃え上がる地獄のようであった。
「こ、こんなはずではなかった……」
田豊は怒りに震えひとりごちた。
「備えよと言うたではないか……!」
郭図が血の気が失せた顔で叫ぶ。
「今は逃げ延びるのが先決!陽武の陣へ戻るのです!」
しかし、その北へ退く道すがら――
「隊長、敵先鋒、射程に入りました!」
月光を背に漢がにやりと笑った。
「――やれ」
奇襲の名手・甘寧である。その合図を皮切りに、両翼から昌豨・李通の伏兵が躍り出て、袁紹軍へ襲いかかった。
「ここで止められてなるものか!!」
袁紹軍の騎馬隊が懸命に突破を図るも、数百が即座に倒された。
袁紹が叫ぶ。
「退け! 全軍退け! 陽武まで引くのだ!」
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撤退に次ぐ撤退――そして、陽武の陣営が視界に入った。
だが……。
「な……なんだあれは……!」
そこにあったのは、炎に飲まれ焼け落ちる陣であった。
疾風の如く駆ける軽騎兵が、逃げ惑う兵を次々と薙ぎ倒す。
その先頭の漢――張遼。
その背後には劉豹の旗も揺れていた。
「ここが貴様らの帰る陣か?」
張遼の声は冷ややかだった。
「残念だが――炎の中に消え失せたわ」
そして軽騎兵は火焔の間を切り裂き、袁紹軍残党へ攻撃を開始した。
官渡の夜空を烈火は紅く染め、勝敗の趨勢は、ついに――明らかとなるのだった。




