【第九十五話】官渡決戦
200年初冬 官渡
朝靄が立ちこめる戦場に、二つの旗が翻っていた。
一方には「孫」、もう一方には「袁」。
孫堅軍四万と袁紹軍七万、両軍合わせて十万を越える兵が対峙し、その圧は天地が裂けんばかりであった。
先頭に進み出た孫堅は、紅の鎧に金の獅子を飾った兜を戴き、風になびく朱の戦袍を翻していた。
その姿はまるで天より照らす日輪のごとく、戦場の全ての視線を奪った。
対する袁紹は白金の甲冑を纏い、その神々しさは王者に相応しい威厳を備えていた。
かつて洛陽で、董卓を倒すために手を取り合った二人の英雄がここに相まみえた。
「孫堅!」
袁紹の声が大地に響く。
「貴様は一介の江東の侠が、いまや大兵をいたずらに動かし中原の地を乱しておる!これは天下の大逆である!」
孫堅は一歩、馬を進めて言い返した。
「袁紹!そなたこそ皇帝陛下に弓を引いて、己の覇を築く野望の徒であろう。王道を掲げてはいるが、貴様の行いは己の武にものをいわせて、民を圧する覇道にすぎぬ!」
その言葉に袁紹の顔が紅潮した。
怒りと憤り、そして息子袁譚を討たれた怨念が胸を焦がす。
「戯言を!貴様ごとき下賎のものに、四世三公の誉れ高き袁家を量る資格などないわ!」
袁紹が剣を抜き放つ。
「皆のもの、突撃!」
袁紹の号令一下、軍鼓が鳴り響いた。
袁紹軍七万の兵が、魚鱗の陣を組んで波濤のごとく前進を開始する。
対する孫堅軍は鶴翼の陣。
両翼を大きく広げ、敵の突撃を受け止め包み込むような構えである。
袁紹軍の先陣には呂威璜・趙叡の二将。
彼らは長槍を振るい、魚鱗の鋭角をもって孫堅軍中央に突き立たせると、孫堅軍の防陣が大きく揺らいだ。
「押されているぞ!本陣、下がれ!」
左翼前衛を任されていた李通が叫ぶ。
その時、紅の将が疾駆して本陣中央に現れた。
「退くな!正義は我らにあるぞ!」
将は叫び、剣を掲げた。
その声に応じるように孫堅軍の兵が奮い立ち、一時、戦況を押し戻した。
紅の将は炎のように戦場を駆け、敵陣を切り裂いていく。
だが――。
丘上より戦場を見下ろしていた審配が、弩兵に命じた。
「あの紅の将こそ敵総大将孫堅に違いない。放て!」
数百の矢が放たれた。
空が一瞬黒く覆われ、矢雨が紅の戦袍を貫いた。
「……ぐっ!」
紅の将は胸を射抜かれ、ゆっくりと馬上から崩れ落ちた。
周瑜が叫んだ。
「殿が……殿が討たれたぞ!」
恐慌が伝播し、戦列が乱れる。
黄蓋をはじめ、孫策・周瑜・荀攸らが必死に退却を指揮し、孫堅軍は官渡砦へ向けて退いた。
袁紹軍は勝勢に乗じて追撃をかけるのだった。
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夕刻、官渡砦の前。
袁紹軍の先鋒は砦へ突入せんとしたが、密偵が報告を持ってきた。
「申し上げます!砦内に兵影なく、孫堅軍は許昌方面へ退却中とのこと!」
審配が破顔した。
「ふははは!見たか、我が弩兵部隊が見事に孫堅を討ち取ったのだ!」
淳于瓊も拳を振り上げた。
「孫堅を討ち取ったとなれば、殿の天下は盤石ですな」
田豊だけは表情を曇らせた。
「……しかし、あまりに早すぎる退却にございます。まだ孫堅の死についても確証はございませぬ。慎重に調べるべきでは?」
袁紹はそれを手で制した。
「よい、田豊。孫堅の死骸こそ見えぬが、軍勢が棺を中心に退いておるという。やつは死んだに違いあるまい。袁譚の仇を討てたのだ……よくやったぞ、諸将!」
その声に将兵が歓声を上げた。
袁紹は官渡砦を本営と定め、ここを許昌攻撃の拠点とすることとした。
砦内には孫堅軍が残していった食糧と油壺が山と積まれていた。
郭図は己の失態を忘れたかのように勝利に酔っていた。
「田豊殿。貴殿の心配は杞憂ですな。もしこれが策ならば、これ程の物資をそのままおいていくわけがありません」
袁紹も晴れやかな笑みを浮かべ兵達に命じた。
「今夜は宴だ!皆、長きに渡る戦の疲れを今宵、癒すのだ!」
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夜。
官渡砦は笑声と酒の香に包まれていた。
焚火が揺らめき、酒盃が飛び交い、兵たちは勝利を祝っていた。
その時――。
砦の四方より、突如として炎が噴き上がった。
油に引火した火柱が夜空を裂き、歓声は悲鳴に変わった。
火は瞬く間に砦全体を包み、炎が夜空を焦がすのだった。




