【第九十四話】決戦前夜
200年仲秋 官渡
夜風が官渡の荒野を吹き抜けた。
秋の冷気が肌を刺し、天には月が薄雲の向こうに浮かぶ。
その月光の下、孫堅軍の本陣で玄鴉の長・朱皓が孫堅の前に跪いていた。
「報告いたします。冀州の高幹が数万を率い南下の途についたとの報が入りました。」
孫堅の眉がわずかに動いた。
その背後に立つ荀攸と周瑜は無言で顔を見合わせる。
援軍が到着すれば袁紹軍の兵力は十万を超え、兵力差は致命的となるだろう。
「……なるほど、高幹か」
孫堅は低く呟いた。
朱皓は静かに頭を垂れると、
「我が配下のものは北は幽、并州まで潜り込んでおり、確報と見てよろしいかと」
幕舎に沈黙が落ちる。
その沈黙を破ったのは、楊弘であった。
「敵の援軍を出陣不能とする策があります。試してみる価値はありましょう」
彼の声はどこか楽しげですらあった。
孫堅が促すと、楊弘は卓上の地図を指し示した。
「冀州の背後には黒山賊の張燕がおり、彼らは公孫瓉殿と共に袁紹と戦っていた過去を持ちます。高幹が南へ動けば冀州の守りは手薄。そこを突くよう依頼しましょう」
荀攸が頷いた。
「……攪乱か。だが、張燕と我らは繋がりがないがどのように誘う?」
楊弘は口の端を吊り上げた。
「張燕は機を見るに敏な漢と聞きます。理を説き、利を与えれば自ずと我らに与してもらえるでしょう」
楊弘はさらに続けた。
「もうひとつ、幽州の鮮于輔。彼は袁紹に従うとはいえ不満を抱いていると聞きます。友である田豫殿と劉備殿は浅からぬ縁とか。劉備殿を介して誘いをかければ動くやもしれませぬ。」
周瑜が楊弘の幾重にも重なる策に感嘆して笑った。
「なるほど、流石楊弘殿。その言は百万の兵にも勝りますな」
孫堅は数瞬考え、立ち上がった。
「よし。二つの策、いずれも採ろう。玄鴉を使い、黒山賊と鮮于輔を動かすよう手配せよ」
その夜、楊弘の密書が二方向へ飛んだ。
一通は冀州の黒山賊張燕へ、もう一通は劉備を介し田豫のもとへ。
月影の下、玄鴉の影が風に溶けてゆく。
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十数日後。
袁紹軍本営では淳于瓊が兵糧の車列を指揮していた。
高幹の到着を待ち、十万を越える大軍で官渡砦を押し潰す準備である。
また、青州で別動隊を率いていた郭図も合流して兵の再編を行っていた。
だがその最中、伝令が駆け込んできた。
「報告!冀州黒山賊張燕、常山郡に侵入!さらに幽州鮮于輔も反旗を翻し、薊より進軍中とのこと!」
淳于瓊が顔色を失い、郭図も唖然として立ち尽くす中、袁紹の怒声が幕舎を震わせた。
「何たることか!高幹は何をしていたのだ!」
伝令は恐る恐る答えた。
「と、殿の命のもと、高幹殿が南下した隙にことが起きた模様です。報を聞いた高幹殿は冀州防衛のため、南下を取りやめ、常山へ転進したとのことにございます」
袁紹が渋面で押し黙るのを見て、田豊が一歩進み出る。
「殿、ここは兵を整え、いったん河北へ退かれませ。後方が崩れれば、ここでの勝ちはありませぬぞ」
だが淳于瓊はその場で声を張り上げた。
「撤退など愚の骨頂!袁譚殿の仇も討てぬまま退くことなどできぬ!」
その言葉に袁紹の顔が紅潮する。
「淳于瓊の申す通りだ。退くことなど断じてならぬ!郭図、敗残兵の再編を急げ!貴様に次はないぞ。淳于瓊、おぬしも準備でき次第出陣しろ!」
怒号と共に、袁紹軍は再び総攻撃の準備を始めた。
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官渡砦
玄鴉より報告を受けた荀攸は、地図の上に指を置いた。
「謀は成りましたな。ですが、なお数においては圧倒的な差があります。総攻撃の前にさらなる策を講じねばなりませぬ」
孫堅は幕舎に居並ぶ緒将に向かい問う。
「この状況を打破する策はないか?」
その言葉に黄蓋が一歩進み出る。
「勝機を開くには、火の力を借りるほかありますまい。火計こそ彼我の差を覆す最も確実な策」
荀攸が苦々しい表情で応じた。
「しかし、敵軍はすでに井闌車を焼かれている。火に対しては警戒しているでしょう」
孫堅は深く頷いた。
「火計は効果的ではあるが、荀攸の言ももっともだ」
そのとき、周瑜が静かに口を開いた。
「私に良き策があります──」
周瑜が策を披露すると同席していた孫策がその策の穴を指摘、援軍として居合わせた司馬懿がその穴を静かに補完する。
若き将の闊達な議論をみて、厳しい状況の中にも確かな未来を感じる孫堅であった。




